14-5 決壊
クラトはバルカに帰還してから、城の端にぽつんとある一軒屋に住んでいた。
武人の多くは第二区域に家を持ち、家族と生活している。大隊長以上は第一区域に住むが、独身者は城の一角に士官用の個室を与えられ、家族がある者は城の外にある住宅地で家族と暮らす。
将軍と呼ばれる者は住宅地で家屋を提供される事が普通で、独身といえども妻子持ちと同じ扱いとなる。これは優秀な人材が家庭を持ちやすいようにという配慮らしい。
しかし、クラトは住宅地とは反対側の場所にあるどう見ても小屋としか言えない建物が与えられたのだ。当のクラトは全く気にする風でも無かったが、ティエラが激怒した。
「バルカの将軍たる者にあのようなみすぼらしい住居を与えるとは何事か!」
住宅地の建物は古くなって改修や建て替えが行われており、物件が無いというのが実情だが、それならばそれで城内にある士官用個室で待機してもらえば良いものを、住宅待機者を減らしたい軍事府の担当者がクラトに打診したのだ。勿論、正式の住宅が準備できたら再度引っ越すという条件付ではあったが・・・
この軍事府の担当者は名前をペジェルという。クラトがバルカに入ったばかりの頃に、融通が利かずにもめた事がある元武具担当者だ。
あれからクラトとは親しい間柄となり、クラトの活躍によってペジェルは“バルカの大剣”と気軽に話ができる人物として周囲から一目置かれるようになる。
クラトはペジェルによく言っていた。
「前の世界でな、お前に良く似たヤツがいたんだよ。俺はそいつを一人前にする事ができなかったんだ。だからさ、お前は頑張れよな」
ただ、ペジェルは相変わらず優柔不断な小心者だ。
将校用住宅の問題を上司から追及されたペジェルはクラトに相談した。元々そういう事には無頓着のクラトが了承し、形の上では住宅待機者を1人減らす事に成功したというわけだ。
しかし、これはクラトという個人ではなく、バルカの将校への対応に問題ありとして、ティエラのみならず、レガーノを始め、現場サイドからは非難轟々だった。
これにはペジェルどころか管財庁の長官も肝を冷やした。
しかし、クラトの「あそこは静かでいい。練兵場にも近いし、万が一の時でも城門まで飛んで行ける。番犬には良い住処だろう」と言って笑うと、話は収まってしまった。
それから、クラトはそこに住んでいる。住んでいるといっても、ただ寝るだけの家だし、たまに大隊の連中が集まって酒を酌み交わす事もあるが、突撃大隊の酒盛りといえば冬でも外というのが通例になっており、たまに中隊長や他の軍団長などが訪れるぐらいだった。
それに将校用の住宅が完成したら引っ越す予定だ。
クラトは本当に気に入ったのか、ペジェルに気を使ったのか、引き続いてここに住む事を希望したが、当然のごとく承認されなかった。規則とは過剰と同様に過少も認めないものなのだ。
洗濯と掃除はルクレアという名の侍女に任されている。
当初、アイシャとエルファは随分と気にしていたらしいが、ルクレアがジュノにぞっこんだと知ってからはあまり気にしなくなったようだ。
そのアイシャはイオリアに、エルファはファトマに、クラトの住居へ行く事を禁じられていた。
クラト達のバルカ滞在期間は半月を過ぎた頃、クラトの新しい住居が完成するという報告があった。
「この小屋もあと数日で引越しか、面倒だな。夜なんて辺りは誰もいないし、静かで良かったんだがなぁ」
クラトは本気で言っているようだった。
◇*◇*◇*◇*◇
そんなある夜の事だった。
クラトはふと目が覚めた。時間は真夜中を過ぎている。
「誰だ?」
クラトの声に戸の外に居る者はビクリとしたようだった。
戸も叩かなければ、声も無い。
ジッポで枕元のランプに灯を入れる。
ぼんやりとした灯り徐々に明るさを増していった。
「入りな。空いてるぜ」
いつの頃からか、クラトはエナルダが発するオーラというか気というか、そういったものを感じられるようになっていた。
おおかたディクトールあたりが酔っぱらって訪ねて来たんだろう。
外で佇む者は、そんな武人の存在感をドアの向こうから発していた。
ドアがそっと開く。
俯きながら入ってきたのはティエラだった。
「え?な、なんだ、どうしたんだ、こんな時間に」
飛び起きたクラトはティエラの身に着けたものを見てまた驚いた。
透き通りそうな寝衣に大き目のショールをかけただけの姿で立ち尽くしている。
「どうしたんだよ、とにかく入れよ。お茶を淹れるから」
小さなかまどのような暖炉にはまだ熾火が残っていて、薪を足すとあっという間に燃え上がり、部屋は柔らかい光に照らされた。
暖炉に掛けられたポットに茶の葉を入れる。カップに注ぐ時に茶葉は濾すのだが、クラトは面倒がって、ポットの取っ手を持ってぐるぐると振り回して茶葉をポットの底に沈めて注ぐ。もちろん小さな茶葉はカップに入ってしまうが、気にしない。
ティエラは椅子に座りもせずに俯いて立ち尽くしている。見ると両手が固く握られていた。悲しみや怒りを堪えているような仕草に似ていた。
クラトがカップをテーブルにおいた。
「とにかく座れよ」
近づいた瞬間、ティエラは顔を上げた。
クラトは簡単に懐に入られてしまった。
これが剣術の立ち合いならクラトは完敗と言える。
しかしこの対戦相手は突くでもなく叩くでもなく、ただ身を添えているだけだった。
「うぁ、な、何してんだよ、じょ、冗談はそこそこにして話を聞こうか。明日の調練の話かい、突撃大隊の配置かい。そ、それとも銀狼隊のことか・・・それとも・・・」
それから先は言葉にはならなかった。
ティエラの心の洪水を受け止めたクラトはそれを止めるどころか自らも心を溢れさせたのだ。
もう言葉は必要なかった。いま何か言えばそれは嘘になるから。
ギリギリまで振り絞った弓の勢いは激しく、放たれた矢は己の意志とは関係なく飛んでいく。
倒れこんだベッドは先ほどまで寝ていたクラトの体温が僅かに残っている。
ティエラは溢れた気持ちをどうして良いのかわからないようだった。
それは強く美しい獣がとまどっているようで、クラトは愛おしくなった。
クラトがティエラの心をすくい上げるようにすると、ティエラは思わず身をすくめ、その感覚に戸惑った。
ザワザワとした感覚は、逃げ出したいほど恥ずかしいのに逆らえなかった。
息を飲むように吸い、ため息のように出る吐息は熱い。
太古の昔から繰り返されてきた、ごく当たり前の事がこんなにも特別な事のように感じられる。
この世に生を受け像づくられては、もがき苦しんで、やっと生きる事の意味と悦びを知り、血と記憶を託して滅する。
朝に沸き立つように生じ夕には骸を晒す夏虫も、人の幾世分も生きるという竜獣も、その生涯の中で成す事に変わりは無い。
それは即ち血と精神の伝達だ。
虫は虫である事を、獣は獣である事を、人は人である事を、護り伝えるのだ。
虫は虫以外である事など考えず、獣は獣である事を疑わない。それが故に生まれた理由も死ぬ理由も、生きる理由さえ知らずとも全てを受け入れ生を全うするのだ。
では人間はどうだ。
舞う蝶に地を駆ける脚は邪魔であり、魚に空を飛ぶ翼はいらない、人間は色々なものを身に着け過ぎた。多くある事が欠陥とは何という皮肉だろう。
だから、今夜は脱ぎ捨てよう。
肌を隠す布も髪を飾る宝石も、羞恥や怯えも。
もっと脱ぎ捨てよう。
地位や職位、疑いや妬み、恨み、利己心、虚栄心、全てを脱ぎ捨てたら、何が残るだろう。
優しさは残るだろうか。愛しむ心は残るだろうか。
優しさや愛しむ心。もし、それすら脱ぎ捨てたら、この世の生物が生きている本当の理由が見えるのかもしれない。
しかし、今夜は優しさと愛しみが最も必要なのだ。相手の悦びを自分の喜びとするように。
体温を重ね、共に喜びを分かち合おう。
吐息を絡ませ、想いを心に伝えよう。
指は滑るように、肌は波打つように、ただ優しく愛おしく。
髪を優しく抱いて身体を反らせ、護り包むように腕を回す。
血を交わらせる為の行いは、腕も足も、汗も吐息も、そして心をも交わらせることなのだ。
そういう時にふと何かを思い出す事がある。
身体は没頭しつつも頭はなぜか無関係の事を思い出す。しかしすぐに身体に引きずられるように意識も温かい霧の中に埋もれていく。
二人とも一振りの刀を思い出した。しかし振り払うように没頭した。
互いに求め与えそして全てが混じりあっていった。
今まででもこれからでもなく、今、この瞬間に何かを越えたような気がした。
それぞれの身体も意識も中心に凝縮してぶつかった。
息が止まりそうなほど身体は強張って、そして弛緩していく。
夜は時計が示すほど長くは無く、思っていたほど短くも無かった。
まだ夜明けまでは時間がある。
このまま眠るのは少し勿体無くて、少し不安で、とても幸せだった。
◇*◇*◇*◇*◇
クラトが目を覚ますと隣ではティエラが静かな寝息を立てている。
遅い朝の光はその明るさを増していた。
外では大勢の人間が行き交っている様子だった。
それにしても騒がしいなと思いつつ、ベッドの上で身体を起こして少しまどろんでいると、突然ドアが開いた。
「隊長!た、大変です!!」
ラナシドだ。
クラトの寝ぼけた思考でも分かるほど、顔が青ざめている。
「どうした」
頭を掻くクラトにラナシドは勢い込んで言った。
「どうしたじゃないですよ!ティエラ姫、いや、女王が!」
その時、クラトの隣で体を起こしたのは白い肩から胸元まで露にしたティエラだった。
「いへ?」
ラナシドは変な声を出した。
ティエラはぼんやりとした目をしていたが、たちまち我に返ってシーツを肩まで引き上げるや怒鳴った。
「無礼者!立ち去れ!」
「は、はひぃ」
ラナシドは体じゅうがギクシャクしながらドアに向かう。
「ラナシド、待て」
「なっ?」クラトの声にティエラが目を剥く。
「ちょっと、よろしくないんじゃないか?」
「何がじゃ!」
「女王と傭兵の秘め事なんて安い小説にもならんぜ。俺は一向に構わないんだが、女王の立場としてどうなんだ?」
「クラトはもう傭兵ではないが・・・むぅ、確かに良くは無いな」
「じゃ、朝早くから剣術の稽古をして、その後は軍務について議論してたって事にしよう」
「うむぅ・・・」
「なんだよ」
「何やら、お主はこういった事に慣れているような感じだな」
「は?な、なに言ってんの?そんな事ないって、っつうか、今はそんな事関係ないだろ」
「んー、まぁ、よかろう。ではそうするか。では、私の軍務服は・・・」
「あ、寝衣で来たんじゃなかったっけ?」
「っっ!これはいかん、何とする」
「仕方ない、ラナシド。お前、こっそり奥室へ行ってティエラの軍務服を持ってこい」
「へぁ?」
「おかしな声を出してんじゃねぇよ、仕方ないだろ、行って来いって」
「む、むむ無理です、無理ですよ。城の奥は行った事すらありませんし、女王様の部屋に着いたとしても、どうやって軍務服を持ってくるんですか」
「そうだな・・・じゃ、お前の服を脱げ」
「はぇ?」
「中隊長の三式軍装なら遠目では調練用の軍装と変わらん」
「そんな、私の服を女王様がお召しになるなど許される事ではありません」
「うるさいよ、早く脱げ」
「いや、し、しかし」
「ラナシド中隊長、済まぬなこのようななりで頼むのも何だが、お前にしか頼めぬのだ」
恥らうようなティエラの願いに断る言葉など見つからないラナシドだった。
三式軍装とは軍人の通常服とも言うべきものだ。鎧下よりも厚手の生地で作られ、上着はジャケットになっており、部分的に厚い布で補強してある。
ラナシドはパンツ一つの姿となって、恭しく軍務服を差し出した。
右手はシーツを押さえつつ左手で受け取ったティエラは礼を言う。
照れるラナシド。
ラナシドは倒錯した悦びを感じていた。
俺が身につけていた軍装を、そのままティエラ様が身につけるなんて。俺の体温すら残したまま・・・
ティエラはラナシドを見る。
ラナシドがぎこちない笑顔を返す。
「・・・」
「・・・」
「ラナシド、表に出てはもらえまいか」
「あっ、こ、これは申し訳ありません。私とした事が・・・では失礼します」
ドアに手をかけたラナシドは大声をだした。
「あぁ!私は下着姿というかパンツだけじゃないですか!これで表に出るんですか!?」
「仕方ないだろ?素早く速く動けば見えないって」
「見えますよ!」
「全力疾走で走り抜け。そうすれば誰だか分からないって」
「分かりますよ!」
「かといってティエラに全力疾走させるわけにはいかないだろ?」
「それはそうですが・・・」
「いいから行けって」
ラナシドは意を決して飛び出した。
外からは、驚きの声に混じって女の悲鳴も聞こえる。
「許せラナシド・・・」
「ではクラトも出て行ってもらおうか」
「え、なんで?」
「何ではない、出ておれ。デリカシーの無い奴め、蹴るぞ」
「分かった、分かった」
手早く軍務服を身につけた。そこで気付いた。
「あのさ、俺の軍務服でも良かったんじゃないの?」
「あっ」
口に手を当てて驚くティエラ、強く美しい女王はとても可愛らしかった。