ロスト⑫
ミキの店はオフィス街から少し外れた裏通りにあるビル1Fのテナントだ。
狭いが、こういう店にありがちな薄汚れた感じやチープな印象は無かった。
奥にあるヴェンゲ色のテーブルもそれらしい雰囲気を醸し出している。
いつの間に準備したのだろう、茶が出された。
ガラス器の中で黄色い茶葉が上下している。
これは中国六大茶類の中で最も貴重品といわれる黄茶だ。
しばらくすると茶葉は沈み蓋が取られた。
ガラスの茶器が目の前に置かれる。
その繊細な味は、飲んだことが無い者には分からない旨みがあった。
「これは良いものだ」
俺は旨いとは違う表現を使った。
「へぇ、君山銀針を知ってるの?」
「いや、名前は知らないが味に品がある。それに良いものは主張しなくても理解される」
「ふぅ~ん、あなた面白いだけじゃないわね。ちょっと興味が出てきちゃったかな」
女はスッと立って奥へ消えた。
やや温めのお茶は口でも喉でも何処からでも吸収されるように俺の体に染み込んでいった。
飲み終えるとミキが奥から姿を見せる。
着替えたらしく、黒いシルクのルームウェアローブを羽織っていた。
左手にはグラス、右手にはヘネシーを下げている。
人を殺してきたばかりだってのに、中国茶の次は酒か。この女もぶっとんでるな。
「なぁ、もう夜が明けて電車が動き出そうって時間だ」
「あら、私達はずっとお仕事してたのよ。仕事が終ってやっと帰ってきたんだから寛いだっていいでしょ」
「寛ぐって、一晩中動き回って汗だらけ・・・」
テーブルに置かれたヘネシーを見て驚いた。バカラのデキャンタに入った濃い琥珀色の液体。
「リシャールじゃないか」
バーで飲めば1杯2万は下らないだろう。
ミキは俺を試すように言った。
「どうする?」
帰ってからゆっくり飲りたいが・・・
「もらおうか」
ミキはにこりと笑うと左手のグラスを鳴らした。
こんな笑顔もできるのか。驚くほど純真な笑顔だった。
ヘネシー“リシャール”
その香りはグラスに注がれた時からテーブルの上に拡がった。グラスを近づけると香りにむせるようだ。
フルーティ、豊か、まろやか、やわらかい、それらの表現は間違いではないが、適切でもなかった。バニラ、スパイス、花束、何とか表現しようとして色々な単語が並べられるがどんな言葉でも表せない。
最初は香りだけで十分だ。香りに慣れるともっと強い刺激が欲しくなる。グラスを揺らし掌の体温で香りを立たせる。それでも足りなくなってやっと口に含む。舌触りと刺激。
口に含んだまま鼻から息を抜く。その後やっと飲み込んで鼻と口で余韻を楽しむ。
純粋なコニャックメーカーの愛飲者からは、カミュ、レミーマルタンと並んでチクチクと嫌味を言われるのがヘネシーだが、やはり旨いと思う。
椅子にもたれかかると体が弛緩していく。より強い刺激を求めて楽しむピッチが早まる。
「じゃ、何か食べる?」
「え?」
「お腹減ってるんでしょ。準備させてるわ」「シャオチャオ!」
呼ばれておずおずと姿を現したのはどう見ても10代半ばの少女だった。
ワインとグラスが運ばれ、ミキがさっさとコルクを開けた。
シャオチャオと呼ばれた少女は、続いて両手に4枚の皿と小さなバスケットを器用に載せて運ぶ。
運ばれてきたのはステーキとパン、チーズだ。
コニャックの後にステーキとは・・・とことん狂ってる。
しかし、悪くはないと思った。
ワインは詳しくないので知らない銘柄だが、スパイシーなフルボディ。かなりの上モノだ。
肉も美味い。カチリと嵌るように合ったワインと肉は組み合わせがひとつの料理のようだ。
旨い食事は人間を幸せにする。
ふと気付くと、ミキはステーキを平らげ、パンとチーズを千切りつつ新しいワインを飲んでいる。
会話はほとんど無かった。酒やチーズの話が少々。
ふと目に入った壁の時計は8:00を指している。
食べ終わる頃には俺は満足という名の幸福に包まれていた。その幸福は俺の体からじわじわと染み出し拡がっていく。
俺はこの店、ミキという女を含めて幸せを感じ始めていた。ミキは例の純真な微笑みを俺に向けたままワイングラスの縁を指で撫でている。
目が覚めるとレースが掛かったベッドにいた。ミキが俺の名を呼ぶ。
名前で呼ばれるのが当たり前のように返事をする俺がいた。
窓からはまぶしい光が入り込み、部屋の奥を一層暗く感じさせる。
その仄暗さの中、白い肢体が浮かび上がる。振り返ったミキが手のグラスを差し出して微笑む。
いつからだろう、どうしてだろう。俺がここにいるのは。
視界の端で何かが動いた。
不意にシャオチャオと目が合う。
その瞳を見て、俺は何かを思い出しそうになった。
何も思い出せはしなかったが、俺は現実に引き戻された。
ヴェンゲ色のテーブルにはワインボトルとチーズとパンの皿が並び、掛け時計は8:45を指している。
我に返った。
ぼやけていた現実の境界が徐々にはっきりとしてくる。
俺はこのミキという女に惹かれている自分に気付いた。帰った方がいい。
「ちょっと休もうと思ったんだが、長居をしてしまったようだ。そろそろ帰ろう」
テーブルの向こうでは黒いローブを羽織ったミキがグラスを口にしたまま驚いた目を俺に向けている。
「随分とごちそうになってしまった。ありがとう」
ミキは溜息をつくように答える。
「こちらこそお酒に付き合ってくれてありがと。楽しかったわ」
「じゃ、失礼する」
「あ~、お店でも開けようかしら」
「寝てないのに大丈夫か?」
「ひとりで寝る気分じゃないの」
人を殺したからって訳じゃなさそうだ。そんな玉じゃないだろう。
むしろ俺が悪夢を見そうだ。
「俺は帰って寝るよ。良い夢が見られるといいが・・・」
「何言ってるの、たった今夢から覚めたばかりでしょ」
さっきのミキと暮らす夢の事か?この女は俺とは別な力を持っているのだろうか。
「それはそうと・・・いや、何でもない。じゃ、失礼する」
ミキはテーブルに右手の肘をついて顎を乗せ、左手を小さく振った。
店を出ると強い日差しに辟易としながら歩き出した。
女の子が路肩に佇んでいる。
「シャオチャオ・・・だったね?」
こくりと頷く。
「君は料理が上手だね。とても美味しかったよ、ありがとう」
またこくりと頷く。
「あと、君の目を見て何かを思い出しそうになった。そのお陰で私は自分らしい部分を保てたようだ。礼を言うよ」
シャオチャオは初めて俺を見上げた。驚いた瞳は少女のそれではなかった。
色々なものを見て何もかも知っている瞳だ。
「それじゃ、さよなら」
俺の言葉にシャオチャオは何か言おうとしたが、俯いて胸のあたりまで上げた手をぎこちなく振った。