ロスト⑨
私は院長室に向かった。
PCモニターの向こうに白髪が見える。院長はいつもと同じよう机に向かってキーボードを叩いていた。
“いつもと同じように?”
もう2年ほど前になるだろうか。院長の家族が行方不明となった。
数日後、優秀な医者であった息子とその妻子は遺体で発見された。
院長は変わった。
ハイスペックのパソコンに通信機材、毎日のように届く書籍。
以前は落ち着いた雰囲気の院長室も、机はさながら雑誌編集室のようだ。
誰もが同情した。
“息子を失った穴を仕事で埋めようとしている”
現代医学において電子機器は基礎だ。これを習得しなければ力を十分に発揮する事はできない。
医療機器にデータ、通信、解析・・・
経験と技術がある古い人間は足元に穴が開いたように感じただろう。
事実、機器の習得に苦しむ者が多かった。
だが、実力を備えた後継者を持ち、既に高齢の域に達していた院長はその苦しみとは無縁だった。
体に刻まれた経験と自らの手で事足りるのだ。
その院長が最新の機器に向かい、驚くべき習得力を発揮した。
誰かが言った。“悲しい”能力の発揮だと。家族を失った事が原因だというのだ。
しかし、そうだろうか。
私は家族が行方不明になる前から院長は変わったと感じていた。
*-*-*-*-*-*
「呼び出しておいて済まないが、ちょっと掛けて待っていてくれ」
この部屋の中で唯一以前と変わらない応接セットに顔を向けた。
これは話の内容が“重要”だが、“短時間”で済むというパターンだ。
案の上、腰を降ろした院長は結論を言った。
「305の患者だが、私が担当しよう」
「えっ、院長が直接ですか?」
「そうだ。あまりに不明な点が多い。というより不可解な点が多い。我々が直面しているのは未知との逢着ではなく、既知への懐疑だ」「レポートも私が作成する。担当メンバーも私が選定して指示を出すから、君はこれまでの情報だけ報告してもらえばいい」
「・・・」
「篠原くん?どうかしたか?」
「あ、いえ、承知しました」
「大変だっただろう。苦労を掛けたが、これからは自分の業務に集中してくれたまえ」「そういえば息子さんは大学受験だね、優秀だと聞いているよ。きみと同じ道に進ませるのか?」
「それが、息子は心理学に興味を持ちまして・・・」
「そうか、我々がやっているのはいわばハードの部分だからな。息子さんがソフトの部分に進むのも面白いだろう」
院長は微笑んで言った。
しかし視線に体温は感じられず、まるで爬虫類に見つめられているようだった。
*-*-*-*-*-*
「良かったじゃないですか、面倒な仕事が減って」
「本当にそう思うのか?」
「えっ?」
「お前だってあの患者の経過を見てきただろう?あれほど損傷していた脳神経細胞も再生し始めている。脳細胞が脳の中心で再生される事を考えれば異常なスピードだ」
「bc12遺伝子の作用など比較にならない。何かがあるはずなんだ。脳の障害や疾患の治療に役立つかもしれない。それを研究したいとは思わないのか?自分の手で解明したいとは思わないのか?」
若い医師は篠原の勢いにたじろぐように上体を引いて言った。
「すみません。気持ちも分かりますが、私にはちょっと荷が重いというか・・・」
私は、この若い医師が私を気遣って言った言葉をそのまま受け取ってしまったようだ。
事実、私は仕事を抱え過ぎていた。
担当している仕事以外にだいぶ手を出している。本当は担当業務を減らして身軽に動きたいが、人員不足はそれを許さなかった。
「・・・済まない」
「いえ、それにしても、どうして篠原さんが主担当どころかメンバーにも入っていないんでしょうか?形だけでもメンバーにしておけば資料やヘルプの時間も取れるでしょうに」
「分からん。理由が無いなら俺が快く思われていないんだろう」
「なに言ってるんですか、それこそ意味不明ですよ」
◇*◇*◇*◇*◇
「あなたが新しい人?」
「神代だ。あんたの指示に従うように言われている」
「あらそう、じゃ後で連絡するから指定した場所に来てもらえる?難しい仕事じゃないから説明はその時にするわ」「私は一之瀬ミキ。ミキって呼んでもらって結構よ」
「ミキさんだね。分かった、連絡を待とう」
◇*◇*◇*◇*◇
お父さんは仕事を変えた。時間が不規則で結構疲れるらしいけど、お給料がいいんだって。
来年は私が大学だし・・・まぁ受かればだけど。
弟も高校生、何かとお金がかかる。
お母さんもパートに出てるけど、ギリギリというか厳しいらしい。
私は大学に魅力を感じられず、就職を希望したけど、お父さんが大反対した。
伯母さんが亡くなった後、お父さんは体調が悪かったし、私ともギクシャクしていた。
ところが先日、お父さんからの提案で家族で話し合いをしたのだ。
私を生んだお母さんの失踪と今のお母さんとお父さんの結婚、弟が生まれたこと。家族で話し合った。いつも食事をするテーブルで。
もっとも、最近4人で食事をする事はほとんどなくなっていて、4人が同じテーブルに着くのは久し振りだった。
お母さんは苦しそうに、ぎゅっと握った右手を胸に添えるようにして話してくれた。でも一番辛かったのはお父さんだと思う。
最後にお父さんが言った。
「家族とは共同体だ。血縁とは共同体である理由の一つでしかない。理由はいろいろあるだろうが、生活を基盤として最も影響を及ぼす人間の共同体という事が重要なんだ。・・・だから我々は家族だ」
「・・・」
「あれ、俺、自分でも訳が分からない事言ったな。ちょっとテンパってるのかな」
何もなかったテーブルに笑いが満ちた。
「秋人、初めて聞いた話もあって驚いたろうし混乱もしているだろう。千夏も綾子も不安だったろう」
「今日聞いた話の中で、知っていた事については今まで通りの家族だし、知らない事については今まで以上の家族になれたと思う」
「今日からは全員が共有したんだ。ある意味家族としてのスタートなのかもしれない。4人で頑張って行こう」
その後、お父さんがこっそり買っておいたケーキを冷蔵庫から出した。私達は驚いて見せたが、ケーキの箱が冷蔵庫に入っているのに気付かない訳が無い。
お母さんと弟は無邪気に笑っているが、私はお父さんの“抜けた”ところに安心していた。
お父さんを恐ろしく感じた夜以来、お父さんはどんどん変わっていった。
それまでふさぎ込んで疲れた顔をしていたお父さんに力が満ちていった。
ただ、それは車のエンジンを入れ替えたように何か決定的なものが“違うもの”になって、ますますお父さんがお父さんではなくなっていく様で怖かった。
時折見せる冷たい視線。関心がないという視線。繋がりが感じられない視線。
足下を歩く蟻を見るような、私達に価値も期待も求めない視線。
とても不安だった。
だからお父さんの慌てた様子や、ケーキの件は私を安心させたのだ。