10-4 疾駆
イーネスの朦朧とする意識の中で想いが巡る。
以前から不安だった。私には何も無い。
子供の頃からそうだった。言う事を聞かなければ相手にもされない。役に立たなければ放り出された。
命令に従って役に立ってやっと愛されるのだと学んだ。
研究所では大事にされたが、それは私がエナルダだったからだ。
動物の翼を移植するというおぞましい手術を受け入れたからだ。
飛行型エナルダとなった後も何も手に入らなかった。
エナルダ国家建設も他人の思想を借りた夢でしかない。
エルファを憎んだ理由もその裏返しだ。エルファは私が持っていないものをバルカで手に入れていた。
役に立たなくなった時、私は消えていくのだろう。
消えていくのは当然だ。必要ないのだから。
役に立たなければ愛されないのだから。
悲しさでも悔しさでもない涙がつっと流れた。
遠くに喚声のようなものが聞こえる。遠くに。
◇*◇*◇*◇*◇
グラシスはトレヴェント軍が散開する草原に降り立った。
トレヴェント兵など眼中に無いように周囲を見渡している。
異様な形状の鎧が見る者を威圧する。
肩から突き出した防翼装甲板はまるでそれ自体が翼のようにも見えた。
胸部鎧に装甲版を後付けした旧型と違い、最初から胸部鎧と一体化して製作されたそれは、肩から後ろ上方へ15ミティ(約20cm)、そこから曲線を描くように斜め下方へ55ミティ(約90cm)ほど伸びている。
「何て奴だ。こんな奴見たこともない」
トレヴェント兵は初めて見る飛行型エナルダに驚愕した。
しかし、トレヴェント兵が動けないのはグラシスが発する圧力のせいだった。
グラシスの体からは何かが揺らめいているように見えた。これが闘気なのか。
兵士達が感じているのは単なる闘気ではない。それは“実体”がある圧力だった。
グラシスの体からはエナル融合された空気の成分が放出されているのだ。
グラシスの闘気や昂ぶりによって意識せずとも放出される微細なマスエナル。
その揺らめきが一瞬大きくなって消えた。
次の瞬間、両手に刀を持ったグラシスが地上を滑るように移動し、トレヴェント兵たちを薙ぎ払った。
グラシスが通過した後にはトレヴェント兵の死体が一直線に並ぶ。
兵士達は一歩も動けなかった。驚愕と恐怖によって景色は色褪せ、聴覚も奪われたように何も聞こえなかった。
グラシスが捕らわれたイーネスの元にたどり着くのに時間はかからなかった。
イーネスの周囲に居た兵士達はあっという間に斬り伏せられ、血煙が舞う。
腕と翼を縛った綱を切り、抱きかかえるとイーネスは薄く目を開けた。
グラシスは表情一つ変えずに言った。
「迎えに来た。帰るぞ」
◇*◇*◇*◇*◇
イーネスは抱き上げられた時もその目を薄く開ける事しか出来なかった。
グラシスの声は聞こえなかったが、意味は分かった。
“私を迎えに来てくれた”
涙がまた頬を伝った。
涙が温かい事に初めて気付いた。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
そしてイーネスはエルファに負けた本当の理由を知ったのだ。
◇*◇*◇*◇*◇
第3親衛隊隊長だったランクスは新しく創設された機械化部隊を統括する特装隊の隊長となっていた。
機械化部隊とは装甲馬車に対空・対地のロングボウガンを装備した部隊であり、特装隊とは特殊な武具を装備した部隊である。
「なに?スツーカを捕らえたと?」
「はっ、しかも新型のファリガルであります。只今、クエーシト司令部跡に確保してあります」
報告の声は得意げであった。
「分かりました。すぐに軍を移動させましょう」
「ランクス様だけでもおいでになれませんか」
「いや、私は部隊と共に参ります」
「そうですか」
年配のトレヴェント兵は白けたような声で答えた。
飛行型エナルダ、しかも新型のファリガルだ。その生け捕りに成功したのにバルカの特装隊隊長の反応は意外と冷たい。
ランクスが軍を伴って移動を開始した時、新たな伝令が飛び込んできた。
「スツーカがもう1体現れました!被害多数!!」
「ボウガンで撃退しろ!」年配のトレヴェント兵は叱りつけるように言った。
「高速で移動している為、ボウガンでは味方に被害が出ます」
返答する伝令の悲痛な声が響く。
ランクスは右手を上げて振り返った。
「アジャン!高機動隊を率いて私に続け!ジェルランは本隊をまとめて後からだ!」
高機動隊とは4頭立ての馬車に軽量のロングボウガンを搭載したものだ。
馬車に搭載するボウガンの種類として、標準仕様となる3×4ロングボウガンの他に、威力を向上させた3×4対空ボウガン、軽量化した3×3ロングボウガン、または威力は低いが矢数が多い4×4ショート、4×5ショート、など多くのバリエーションがある。
ランクスは高機動隊に先がけて単騎、戦場に向かった。