10-3 幕舎
イーネスよりも下を落下していたはずのエルファが上空にいた。
「そんな馬鹿な!・・・あの位置からどうやって!?」
エルファはイーネスが噴射を開始した直後、身体を地面と水平に大きく開いた。翼も左右に大きく伸ばし、下方への面積を最大限とる。そして全身から下方に噴射を行った。
急停止による身体への負担はイーネスの比ではない。かなりのダメージがあった。
それでも停止した位置は地上から25リティ(約20m)だった。下方にイーネスがいた。
ブラックアウトからの回復、そしてイーネスは当然のように下方を警戒している。
勝てるはずだった。その首筋にダガーを押し込めばこの戦いも終る。
しかし、運命は2人に戦いの継続を望んだ。
もはや2人の体力は限界に近かった。イーネスが刀を抜いた。エルファは逃亡を図る。
「ここまで闘って逃げるのか!」
エルファは徐々に高度を取る。イーネスも続く。
草原に立つ巨大な樹木の上を通過しようとしてエルファの速度が落ちた。
イーネスの刀がエルファを捉えようとした時、エルファは落ちた。大木に向かって。
刀を手にしたイーネスが迫る。
イーネスはエルファが大木に飛び込むような事はしないと判断した。翼が損傷する可能性が高いからだ。
しかし、エルファは茂る緑の葉に突っ込んだ。小枝が折れ、葉を散らし、大きな枝が揺れる。
イーネスは大木の真上で停止。
エルファを追い詰めるべく両手の刀で枝を払う。
と、その時、葉の茂みから槍が突き出された。イーネスの左胸を突いた槍は、鎧に弾かれ穂先が折れつつも鎧を割った。そしてもう一度。穂先が無い木の柄に過ぎない槍がイーネスの胸を強く突く。
「ぐぁぅっ」
イーネスは呻きながらも槍を掴んだ。
この槍の先にエルファはいる。
刀を突き出した。
手応えはあったが確認はできなかった。
イーネスは槍の柄を掴んだまま後方へ距離をとった。
視界の端に腕を赤く染めたエルファが見えた。
体力の限界はとうに超えている。
エルファにも傷を負わせたようだが、戦いの続行は不可能だった。
イーネスの戦いは、エルファを倒す戦いから自ら生き延びる戦いへと移行した。
イーネスは必死に空に浮かんでいた。
超高速移動を身上とするファリガルとは思えない飛び方だ。
幸いにもエルファは追ってこない。
負傷した胸部は心臓の動きに合わせて痺れるように痛む。
左手も効かないし、左膝に矢傷を負っている。
何とか自陣まで戻らなければ・・・
イーネスは格闘戦用の鎧を装着し、地上での戦闘力も非常に高い。
シヴァオスの鎧と名付けられたイーネス専用の鎧は背中に6枚の防翼装甲を施している。
シヴァオスとは黒い竜の意味だ。
通常兵などものの数ではないが、今のイーネスは余りにも体力を消耗していた。
いま敵兵の中に降りるわけにはいかない。
それだけエルファとの空中戦は激しかったと言える。
しかも誤算があった。
空中戦が行われたのはバルカとの最前線。敵陣に深く侵入した場合に比べ、自陣は近いはずだった。
しかし、空中戦が行われている間にトレヴェント軍とバルカ機械化部隊が側面からクエーシト軍を挟撃。クエーシト軍は潰走し、戦線は一気にクエーシト領内深くまで押し上げられた。
そしてイーネスが気付いた時、地上は敵で埋め尽くされていた。
10ファロ(約4km)後方にあったクエーシト第3軍指令部が置かれた場所に戻ったイーネスは撤退を知り絶望感に満たされた。
もう、少しも浮いてはいられない。
目が霞む。既に胸の痛みも腕の痛みも感じなくなっていた。
イーネスに幸いしたのはこの場所に展開していたのがトレヴェント軍だったという事だ。
バルカ機械化部隊だったら、移動式ロングボウガンを射掛けられていただろう。
「敵のスツーカがいるぞ!」
その声を最後にイーネスは意識を失った。
◇*◇*◇*◇*◇
戦いとは残酷だ。いや、命とは残酷だと言い換えよう。
戦場では全てのものが命と比較されてしまう。
そして命とは最も価値があるものだと勘違いされている。
命の前では痛みも苦しみも全てが軽く扱われる。
イーネスは鎧を剥がされた。イーネスの肌は白く美しかった。
その背中に6本の翼が焼き付けたように癒着し、好奇の目に晒されて小さく震えていた。
兵士達はバルカ機械化部隊を率いるランクス特装隊長に引き渡すまで厳重に監視するようトレヴェント軍大隊長から命じられた。
トレヴェント兵は捕らえた鳥にするようにイーネスの翼を2枚ずつ縛り上げ、背中の施術痕が見えるように後ろ向きにして幕舎跡の柱に縛り付けた。
先ほどまで死から逃れようとしていたイーネスは死を望んだ。しかし、今となってはそれすらも叶えられる事はない。屈辱の中でゆっくりと死んでいくのだろうか。
イーネスは立っていられず膝を着くが、吊るした綱が腕に食い込むばかりで倒れる事も許されない。思考がゆっくりと巡る。
私はエルファとの空中戦に敗れた。
エルファは翼以外の体表からの噴射力を高め、ティフガルには出来ない機動を手に入れたのだ。
鎧を身に着けなかった理由はそれか・・・気付かなかった。
空の踊り子などと侮蔑して考える事すらしなかった。
エルファの機動は生半可な訓練で身に着くものではないだろう。しかもこの短期間に。
恐らくは命を削るような努力を重ねたのだろう。
私は負けたのだ。実力で。