婚約破棄は承知しました。では、殿下が署名した契約書の第七条をご確認ください
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婚約破棄から始まる、有能令嬢の逆転劇です。
「エレノア・アシュフォード。お前との婚約を破棄する」
王宮の大広間に、レオン・ヴァルディス王太子殿下の声が響き渡った。
楽団の演奏が止まる。
談笑していた貴族たちが、一斉にこちらを振り返った。
広間の奥、一段高い玉座では、国王陛下が杯を置かれたところだった。
私は手にしていたグラスを、近くの給仕に預けた。
……なるほど。
婚約破棄を告げられるのなら、せめて人目のない場所を選んでいただきたかった。
そう思ったものの、口には出さなかった。
目の前のレオン殿下は、勝ち誇ったように顎を上げている。その隣には、淡い桃色のドレスをまとったミレーヌ・ロゼリア男爵令嬢が、心細げに身を寄せていた。
もっとも、その瞳には隠しきれない期待の色が浮かんでいたけれど。
「聞こえなかったのか。お前との婚約を破棄すると言ったのだ」
「はい。聞こえております」
私は静かに答えた。
「それで、理由をお聞かせいただけますか」
私の返事が気に入らなかったのか、殿下の眉がぴくりと動いた。
「理由だと?」
「はい。婚約は両家に関わる重要な約束です。理由もわからず承知するわけにはまいりません」
「よくもそのような口が利けるものだな!」
殿下の声が大きくなる。
周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き合った。
私はその声を聞き流しながら、殿下の言葉を待った。
「お前は王宮の財務を任されていながら、予算を不正に操作した。そのうえ、支出の説明も満足にできない。王太子妃となるべき者が、そのような不始末を起こすとは言語道断だ!」
広間の空気が変わった。
婚約破棄だけでも十分な醜聞だ。そこへ王宮の財務不正まで加わるとなれば、もはや痴話喧嘩では済まされない。
私はアシュフォード公爵家の娘であり、王宮の財務管理を補佐する立場にあった。予算の編成や支出の確認、各部署から提出される報告書の整理まで、三年にわたって携わってきた。
だからこそ、今の言葉がどれほど重大な告発なのかも理解できた。
「予算の不正操作、ですか」
「そうだ。王宮の金を預かる立場でありながら、私の信頼を裏切ったのだ!」
「具体的には、どの予算についてのご指摘でしょうか」
「言い逃れをするな!」
殿下は私の問いを遮った。
「証拠はすでに揃っている。お前の管理下で、複数の予算が変更されているのだ。支出額も当初の計画を超えている。これ以上、王家の名誉を傷つけるわけにはいかない!」
私は殿下の顔を見つめた。
複数の予算変更。
当初の計画を超えた支出。
その二つだけなら、事実である。
ただし、それらは私が独断で行ったものではなかった。
「殿下。予算の変更については、これまで何度もご報告を差し上げております」
「報告書を出せば責任を逃れられると思っているのか!」
「いいえ。そのようなつもりはございません。ただ、変更の経緯を確認していただきたいのです」
「黙れ!」
殿下の一喝に、広間が静まり返った。
ミレーヌ嬢が、心配そうに殿下の袖を引いた。
「レオン様……もう、よろしいではありませんか。わたくしは、エレノア様を責めたいわけではないのです。ただ、王家のためにも、正しいことをしていただきたいだけで……」
その言葉に、私は彼女へ視線を向けた。
彼女の胸元で揺れる首飾りには、見覚えがあった。
先月の慈善夜会で、殿下が彼女に贈ったものだ。
あの夜会の費用についても、私は予算変更の書類を作成した。予定外の支出になるため、別の事業の予算を削らなければならないと、殿下にご説明したはずだった。
そのとき、殿下は何とおっしゃっただろう。
私は、その言葉を一字一句覚えていた。
けれど、今この場で口にする必要はない。
「エレノア」
殿下が、冷ややかに私を見下ろした。
「お前は王太子妃になる立場にありながら、私を支えるどころか、王家に損害を与えた。そんな女を妻に迎えることなどできない」
私は息を吸った。
悲しくないわけではなかった。
幼いころに婚約が結ばれてから、いつか殿下の隣に立つ日のために努力してきた。王宮の慣例を学び、財務の知識を身につけ、時には夜を徹して帳簿を確認した。
殿下の仕事が滞らないように。
殿下が正しい判断を下せるように。
その努力が今、不正という言葉に置き換えられている。
それでも私は、泣かなかった。
この方はもう、私を婚約者として見ていない。理解していただけると期待すること自体が、間違いなのだろう。
「承知いたしました」
「……何?」
殿下が目を見開いた。
「婚約破棄のお申し出は、承知いたしました」
私は背筋を伸ばし、はっきりと告げた。
「ですが、予算の不正操作については別の問題です。事実関係を確認しないまま、私がすべての責任を負うことには同意いたしかねます」
「まだ自分の罪を認めないつもりか!」
「罪とおっしゃるのであれば、なおさら、記録に基づいて確認すべきかと存じます」
殿下の顔が赤くなった。
「この期に及んで、私に指図するつもりか!」
「指図ではございません。財務を担当する者として、当然のことを申し上げているだけです」
「もうよい!」
殿下は、私の言葉を振り払うように腕を振った。
「衛兵! この女を下がらせろ!」
近くに控えていた衛兵たちが、戸惑いながらも一歩進み出た。
私は、その場を動かなかった。
「下がる前に、ひとつだけ申し上げます」
殿下をまっすぐに見て、私は言った。
「婚約破棄は承知しました。では、殿下が署名した契約書の第七条をご確認ください」
「……第七条?」
殿下が眉をひそめた。
その顔を見て、私は悟った。
この方は、ご自分が何に署名したのかさえ覚えていらっしゃらないのだ。
「控えよ」
玉座から響いた低い声に、衛兵たちがその場で足を止めた。
国王陛下が、ゆっくりと立ち上がっておられた。
「エレノア嬢。今、契約書と申したな」
「はい、陛下。私が王宮の財務に携わるにあたり、王太子殿下と取り交わした財務管理契約書がございます。予算変更の指示書と報告書は、すべて財務局の記録庫に保管しております」
陛下は広間を見渡し、壁際に控えていた初老の男を呼んだ。
「財務監査官」
「はっ」
「財務局へ使いを出せ。問題となっている予算変更の指示書と報告書を、記録庫から原本のまま持参させよ。封印は、そなたの前で解くように」
「承知いたしました」
「契約書の原本はどこにある」
「アシュフォード家の書庫に。写しは財務局にも納めております」
「では、公爵家にも使いを。原本を持参させよ」
父は領地の視察で王都を離れており、今夜の夜会には出席していなかった。それでも家令なら、書庫のどこに何があるかを知っている。
陛下は、最後に広間全体へ目を向けられた。
「書類が揃うまで、誰もこの場を離れてはならぬ」
「父上、そこまでなさる必要はありません!」
レオン殿下が声を上げた。
「彼女が書類を整えていたのです。都合のいい記録だけを出してくるかもしれない」
「だからこそ、原本を確かめるのだ」
陛下の返答に、殿下は口をつぐんだ。
私は何も言わなかった。
ここで必要なのは、声の大きさでも、私の言い分でもない。日付と署名が残された記録だけだ。
書類が届くまでのあいだ、私は三年前のことを思い出していた。
◇
私が王宮の財務に携わるようになったのは、三年前のことだった。
アシュフォード公爵家は、代々、王家の財政を支える役目を担ってきた。私は幼いころから数字に親しみ、領地の収支報告を読むことも、予算の組み立てを学ぶことも好きだった。
財務局に入りたいと申し出たとき、父は私に尋ねた。
「王太子妃になるための勉強だけでなく、財務の仕事もしたいのか?」
私は迷わずうなずいた。
「はい。殿下をお支えするなら、王国がどう動いているのか、きちんと理解していたいのです」
父はしばらく私を見つめ、それから静かに言った。
「ならば、ひとつだけ覚えておきなさい。誰かを支えることと、その人の責任を代わりに負うことは違う」
当時の私は、その言葉の意味を十分には理解していなかった。
それでも父の勧めに従い、ひとつの文書を作った。王太子の判断を補佐する者と、最終的な決裁を行う者。その役割と責任の範囲を定めた「財務管理契約書」である。
署名の日、私は条項をひとつずつ殿下に説明した。とりわけ第七条については、時間をかけて。
殿下は、退屈そうに手を振った。
「わかっている。形式上、必要なのだろう。問題が起きなければ、それでいい」
「問題が起きないよう、記録を残すのです」
「わかった、わかった。君に任せる」
殿下は契約書の末尾に署名し、王家の印章を押した。
レオン殿下は、決して愚かな方ではない。判断は早く、国の将来について語るときには、確かな理想を持っておられた。
ただ、細かな数字を確認することを好まなかった。
何かを決める場面では細部を私に任せ、問題が起きれば結果だけを求める。その繰り返しが、少しずつ増えていった。
最初は、それでもいいと思っていた。王太子には多くの仕事がある。すべてを自分で処理する必要はない。私が数字を確認し、問題を見つけ、必要な調整を行えばいい。
実際、私が担当するようになってから、報告書の提出は早くなり、各部署の予算も整理されていった。支出の重複が見つかれば修正し、余裕のある項目から必要な項目へ予算を移す。変更の理由は文書にまとめ、決裁を得てから処理を進める。
仕事は、順調に回っているように見えた。
様子が変わったのは、三か月前のことだ。
ミレーヌ・ロゼリア男爵令嬢が主催する慈善夜会を、王宮が支援することが決まった。
表向きは、戦災孤児への寄付を募るための催しだった。目的そのものに異論はない。だが、会場の装飾や招待客への贈答品、主催者の衣装代まで王宮の予算から出すとなれば、話が違ってくる。
私は見積書を確認し、殿下の執務室へ向かった。
「殿下、夜会の支出についてご相談がございます」
「また予算の話か?」
殿下は、書類から目を上げずに答えた。
「慈善夜会の費用が、当初の見積もりを大きく上回っております。装飾費と贈答品の費用を見直すか、支出元を変更する必要がございます」
「寄付を募るための夜会だ。多少の費用がかかるのは当然だろう」
「はい。ただ、寄付の額は確定しておりません。支出を先に増やせば、別の事業に影響が出ます」
私は、別紙にまとめた数字を差し出した。
「現在の予算のままでは、北部街道の橋の補修費を削らなければなりません。四か月後の雨季までに修繕を終えなければ、物資の輸送に支障が出るおそれがございます」
殿下は、書類を一瞥しただけだった。
「橋の補修は、少し時期をずらせばいい。夜会はすでに告知しているのだ。今さら規模を縮小するわけにはいかない」
「ですが、補修を延期すれば、結果的に輸送費が増えることになります」
「エレノア」
殿下はようやく顔を上げた。
「細かいことは君に任せる。私は大局を見ている」
その言葉を聞いた瞬間、私は口を閉じた。
これ以上説明しても、殿下のお考えは変わらないのだろう。
「……承知いたしました。ただし、予算変更のご指示と、その理由は記録に残させていただきます」
「好きにしたまえ。君が責任を持って処理すればいい」
私はその場で、指示確認書を作成した。
夜会関連の予算を増額すること。増額分は橋の補修費から振り替えること。補修の延期による影響を確認し、後日、必要な予算を再計上すること。
そして、変更を指示した方として、殿下の署名をいただいた。
殿下は内容を読み返すこともなく、ペンを走らせた。
私は原本を財務局の記録庫へ収めた。変更に反対した理由も、補修が遅れた場合の影響も、すべて添付して。
その後も、同じようなことが続いた。
ミレーヌ嬢の追加の衣装代。夜会で配る贈答品の追加発注。殿下が急に必要だとおっしゃった、予定外の催しの費用。
そのたびに私は影響を説明し、代替案を示した。
そのたびに殿下は、細部を私に任せるとおっしゃった。
そして私は、そのご指示を一枚ずつ文書に残した。
殿下を追い詰めたかったわけではない。予算を適切に管理し、王宮の仕事を滞りなく進めたかった。それだけだ。
まさか、あの契約書を婚約破棄の場で読み上げることになるとは、思ってもいなかった。
◇
やがて、財務局の職員が封印された書類箱を抱えて広間に入ってきた。そのすぐ後ろには、アシュフォード家の家令が、契約書を納めた小箱を携えて続いている。
監査官は陛下の許しを得て封印を確かめ、書類を一枚ずつ取り出した。
財務管理契約書。指示確認書。支出報告書。
長机の上に、紙が並んでいく。
そのたびに、広間のざわめきが小さくなっていった。誰もが、これから何が明らかになるのかを察し始めていた。
監査官は契約書の末尾を開き、署名と王家の印章を照合した。それから、指示確認書と報告書の日付、帳簿の記載を一つずつ突き合わせていく。
長い沈黙のあと、彼は顔を上げた。
「……いずれも原本に相違ございません。署名、印章、日付、帳簿の記載、すべて一致しております」
陛下が、私に目を向けられた。
「エレノア嬢。第七条を読み上げよ」
「かしこまりました」
私は契約書を受け取り、該当の箇所を開いた。
「第七条。予算の変更を指示した者は、その変更理由および当該支出に関する責任を負うものとする」
広間に、私の声だけが響いた。
「その条項が、いったい何だというのだ!」
レオン殿下が声を荒らげる。
「そんなものは、形式上の契約にすぎん!」
「形式上の契約であっても、殿下ご自身が署名されたものです」
私は契約書を監査官の前に戻し、末尾の署名を示した。
そこには、レオン殿下の名がはっきりと記されている。
王太子としての署名と、王家の印章。
どちらも、疑いようのないものだった。
「そ、それは……」
殿下の視線が、初めて机の上の書類に落ちた。
「次に、こちらをご覧ください」
私は、指示確認書を手で示した。
「三か月前の予算変更の指示書です。北部街道の橋の補修費を、ミレーヌ嬢が主催なさる慈善夜会の費用へ振り替えるよう、殿下が命じられた際の記録でございます」
「待て。それは、王宮全体の利益になると判断したからだ!」
「承知しております。ですから私は、反対の理由を添えたうえで、正式な手続きに従って記録いたしました」
指示確認書には、殿下の署名と、変更を命じた日付が残っている。
そしてその日付は、問題とされている支出が計上されるよりも前だった。
「そしてこちらが、変更後の支出をまとめた報告書です」
装飾品、花、贈答用の品々、主催者の衣装。華やかな夜会を彩るために使われた費用が、項目ごとに記されている。
その受領欄にも、殿下の署名があった。
「変更後の支出についても、私は殿下にご報告しております。こちらが、その受領の記録です」
殿下の顔から、少しずつ血の気が引いていった。
「……君が、勝手に作った書類かもしれないだろう」
苦し紛れの言葉だった。
いつの間にか、呼び方が昔に戻っている。殿下は、それにも気づいていないようだった。
「その点は、監査官殿がたった今、確かめてくださいました」
監査官が、陛下に向かって一礼した。
「提出された記録に基づく限り、予算変更を指示なさったのは王太子殿下です。アシュフォード嬢が独断で予算を動かしたという説明は、成立いたしません」
広間がざわめいた。
「では、エレノア嬢に不正の責任はないということか……」
誰かのつぶやきが聞こえた。
「そんな……!」
ミレーヌ嬢が、小さく声を上げる。
レオン殿下が、私を睨みつけた。
「君が、あのとき止めていればよかったのだ! 財政を管理するのは君の役目だろう!」
私は、殿下を見つめ返した。
「私は止めました」
「何?」
「予算を変更すれば、橋の補修が遅れ、ほかの事業にも影響が出ると申し上げました。それでも殿下は、変更をお命じになったのです」
あの日のことを、私は今でも覚えている。
「殿下はあのとき、こうおっしゃいました。『細かいことは君に任せる。私は大局を見ている』と」
殿下の唇が、かすかに震えた。
「ですから私は、そのお言葉どおりに仕事をいたしました。ご指示を記録し、支出を確認し、ご報告を残しました。殿下がご自身で決められたことを、なかったことにしないために」
「お前は……!」
殿下は言葉を詰まらせた。
「殿下。私は、殿下を陥れるためにこの記録を残したのではありません」
静まり返った大広間に、私の声が響く。
「ただ、私が行った仕事と、殿下が下されたご判断を、正しく区別していただきたいのです」
もう、誰も私を見て笑ってはいなかった。
先ほどまで私に向けられていた視線は、今や長机の上の署名へと注がれている。
私が差し出したのは、特別な魔法でも、誰かの秘密でもない。
殿下ご自身が署名され、私が保管してきた記録。
ただ、それだけだった。
◇
「お待ちください、父上!」
レオン殿下は、なおも声を張り上げた。
「私は、エレノアにすべてを任せていたのです! 予算の細かな運用など、私がいちいち確認するはずがない。彼女には、財務を担当する者として適切に処理する義務があったはずです!」
その言葉に、私は目を伏せた。
やはり、そうおっしゃるのですね。
私は殿下の隣で、何度も帳簿を広げ、何度も数字の意味を説明してきた。華やかな催しに金貨を一枚足すことは、別の誰かに必要な金貨を一枚渡せなくなることと同じなのだと。
それでも殿下は、いつもおっしゃった。
『君ならうまくやれるだろう』
私はその言葉を、信頼だと思っていた。
けれど、今になってようやくわかった。
殿下にとって私は、失敗しない人間ではなく、自分の失敗を引き受けてくれる人間だったのだ。
「レオン」
陛下の低い声が、広間に響いた。
「先ほど、そなたは彼女が独断で予算を変更したと申したな。だが、ここにある指示書には、そなた自身の署名がある」
「それは……!」
「報告書にも、受領の署名がある。にもかかわらず、そなたは彼女ひとりに責任を負わせようとした。その理由を説明できるか」
殿下の口が、開いては閉じた。
そのときだった。
「でも、殿下は約束してくださったのです!」
甲高い声が、沈黙を破った。
ミレーヌ嬢だった。
彼女は殿下の腕にすがりつき、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「わたくしのための夜会も、新しい衣装も、すべて殿下が用意してくださると! 予算のことはエレノア様が何とかしてくださるから、心配はいらないとおっしゃったではありませんか!」
言い終えた瞬間、ミレーヌ嬢は口元を押さえた。
もう遅かった。
広間の視線が、彼女と殿下の間を行き来する。
「……ミレーヌ、黙れ」
「ですが、殿下!」
「黙れと言っている!」
殿下の怒声に、ミレーヌ嬢の肩が跳ねた。
その顔から、先ほどまでの期待の色が消えていく。
彼女もまた、殿下の「何とかなる」を信じていたのだろう。けれど、だからといって、彼女が望んだ夜会や衣装の代金がなかったことになるわけではない。
そして殿下は、その代金を、私の名誉と仕事で支払わせようとしたのだ。
「財務監査官」
陛下が呼びかけた。
「提出された書類をすべて保全せよ。予算変更の経緯、支出先、指示を出した者、報告を受けた者を改めて調べよ。ロゼリア男爵家を含め、関係者からの聞き取りも行え」
「承知いたしました」
「調査が終わるまで、レオンの予算に関する決裁権限を停止する。王太子としての処遇は、調査の結果を踏まえて判断する」
陛下は、さらに続けられた。
「延期されている北部街道の橋の補修は、明日より再開せよ。必要な予算は、監査官の確認のもとで手当てする」
「父上! そこまでなさるのですか!」
「そこまで、だと?」
陛下の目が、鋭く細められた。
「公金の扱いに疑義が生じた以上、調べるのは当然である。まして、そなたは自らの署名がある書類を前にして、なお部下ひとりに責任を押しつけようとしたのだ」
殿下は、何も言い返せなかった。
先ほどまで私を取り囲んでいた人々も、今は誰ひとりとして口を開かない。
私は監査官のもとへ歩み寄った。
「関連する報告書は、記録庫に日付順で整理してあります。番号の対応表も添えてございます。ご不明な点があれば、いつでもご説明いたします」
「ご協力に感謝します、アシュフォード嬢」
監査官は、丁寧に頭を下げた。
その礼に、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
私の仕事を、仕事として扱ってくれる人がいる。
それだけのことが、今はひどくありがたかった。
私は玉座に向き直り、深く礼を取った。
「陛下。これ以上こちらに留まる必要がなければ、退席のお許しをいただけますでしょうか」
「下がってよい。今夜は、よく務めた」
その一言を胸にしまい、私は踵を返した。
「エレノア!」
背後から、殿下の声が飛んできた。
「待て! まだ話は終わっていない!」
私は足を止め、振り返った。
殿下は、怒りと困惑の入り混じった顔でこちらを見ていた。
「お前は私の婚約者だったのだぞ! 私を支えるのが、お前の役目ではなかったのか!」
その言葉に、私は一瞬だけ目を閉じた。
ああ。
最後まで、殿下はわかっていらっしゃらない。
「殿下」
私は、静かに告げた。
「私は、殿下を支えるために働いてまいりました」
一度、言葉を切る。
「ですが、殿下のなさったことを、なさらなかったことにするために働いたのではありません」
殿下の顔から、表情が消えた。
「失礼いたします」
私は一礼し、歩き出した。
背後では、まだ誰かが何かを話していた。監査官が書類を確かめる声も、陛下が側近に指示を出される声も聞こえた。
けれど、もう振り返らなかった。
重い扉が閉じる。
シャンデリアの光も、貴族たちの囁きも、すべて遠ざかった。
婚約を失ったことよりも、殿下への信頼を失ったことよりも。
今の私にとって大切なのは、これから自分がどこへ向かうのかを、自分で決められることだった。
◇
馬車の用意を待つあいだ、私は回廊の窓辺に立ち、庭園を眺めていた。
夜露に濡れた薔薇が、月明かりの下でかすかに揺れている。
いつもなら、明日の会議のことを考えていただろう。来週の支払い、来月の予算、各部署から届く報告書。帰宅しても机に向かい、眠る直前まで数字を追っていた。
それが私の日常だった。
レオン殿下の婚約者として恥じないように。
王宮の財務を滞りなく回せるように。
いつか殿下が王位に就かれたとき、隣に立つ者として役に立てるように。
そのためなら、多少の無理も当然だと思っていた。
殿下が私の報告を聞かずに判断を下しても、私が説明を重ねればいい。
殿下が約束を忘れても、私が帳尻を合わせればいい。
殿下が誰かに責められそうになれば、私が先回りして問題を片づければいい。
そうしているうちに、いつからか私は、自分が何を望んでいるのかさえ考えなくなっていた。
「……疲れたわ」
ぽつりとこぼれた声は、思ったよりもかすれていた。
誰もいない回廊で、その言葉だけが小さく響く。
私は笑おうとした。こんなことで泣くなんて、らしくないと思ったから。
けれど、目の奥が熱くなった。
涙が一筋、頬を伝った。
悲しかったのだ。
婚約を破棄されたからではない。殿下に選ばれなかったからでもない。
私は、あの方に理解してほしかった。
私が積み重ねてきた仕事を。何度も差し出した助言を。殿下の未来を思って、言いにくいことまで伝えてきた時間を。
たった一度でいい。
「助かった」と。
「君のおかげだ」と。
そう言ってほしかったのだ。
けれど殿下は、最後まで私の働きを見ようとはしなかった。
殿下に必要だったのは、私ではない。
私が片づけてくれる問題のほうだったのだ。
その違いを認めるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
「お嬢様」
声をかけられ、振り返る。
侍女のマリーが、心配そうに立っていた。幼いころから私に仕えてくれている彼女は、私が泣いていることに気づいても、何も尋ねなかった。
代わりに、ハンカチを差し出してくれた。
「……ありがとう、マリー」
「お帰りになりましょう。奥様がお待ちです。旦那様にも、早馬でお知らせしてございます」
私はハンカチを握りしめ、ゆっくりとうなずいた。
馬車に乗り込む直前、王宮を振り返った。
あの場所には、まだ私の仕事が残っている。調査のための説明もあるだろうし、引き継ぎを求められるかもしれない。
それらは、きちんと果たすつもりだった。
けれど、もう殿下の機嫌をうかがう必要はない。
殿下の失敗を、私の責任に置き換える必要もない。
私はこれから、自分の仕事に責任を持つ。
そして、他人の責任まで背負わない。
そのことを、ようやく自分に許せた。
馬車が動き出す。
窓の外で、王宮の灯りが少しずつ遠ざかっていった。
胸にあった重苦しさは、涙とともに薄れはじめていた。
明日から何をするのか、まだ決まっていない。
婚約者という肩書きも、王宮での立場も、これまでと同じではいられないだろう。
それでも。
何も決まっていない明日を、こんなにも楽しみだと思えたのは初めてだった。
「マリー」
「はい、お嬢様」
「明日は、久しぶりに朝寝坊をしてもいいかしら」
マリーは一瞬目を丸くし、それから、花が咲くように笑った。
「もちろんでございます。朝食も、お好きなものをご用意いたしますね」
私は窓にもたれ、目を閉じた。
明日は、誰かのためではなく、自分のために目を覚まそう。
◇
婚約破棄から十日後。
領地から戻った父の書斎で、私は一通の手紙を受け取った。
差出人は、隣国との国境に領地を持つクロフォード公爵家。当主ルシアン・クロフォード公爵が、私との面会を望んでいると記されていた。
「クロフォード公爵……」
名前には覚えがあった。
荒れた農地を立て直し、数年で税収を安定させた若き公爵。王宮の財務会議でも、その手腕は何度か話題にのぼっていた。
ただし社交界では、少々近寄りがたい人物として知られている。
愛想笑いをしない。無意味な社交辞令を嫌う。相手が誰であろうと、間違いは間違いだと指摘する。
レオン殿下とは、正反対の人物かもしれない。
「会ってみるかい?」
父が尋ねた。
「ええ。先方が何をお望みなのか、伺ってみたいと思います」
「あの夜の件は、国境の領地にまで噂が届いているだろう。妙な同情や、王宮への当てつけで声をかけてきた可能性もある」
「その可能性もありますね」
私は手紙を置いた。
「だからこそ、直接お話ししたいのです」
父は満足そうにうなずいた。
面会は三日後、クロフォード公爵が滞在している王都の邸宅で行われた。
応接室に通されると、窓辺に立っていた男性が振り返った。
濃い色の上着に、飾り気の少ない銀の留め具。整った顔立ちには、噂どおり愛想笑いの気配がない。
「エレノア・アシュフォード嬢。お越しいただき感謝する」
「お招きいただき、ありがとうございます。クロフォード公爵閣下」
勧められた椅子に腰を下ろすと、彼は前置きもなく一冊の帳簿を机に置いた。
「まず、これを見ていただきたい」
「帳簿、ですか?」
「私の領地で使っているものだ。収支の計算そのものに誤りはない。だが、事業ごとの支出が整理されておらず、どこに無駄があるのか把握しにくい」
私は帳簿を開いた。
数ページめくっただけで、問題の見当がついた。
「こちらの農道整備費と、収穫物の運搬費を別々に管理していらっしゃいますね」
「そうだ」
「ですが、運搬費の一部は農道の整備によって削減できるはずです。事業ごとの支出だけでなく、互いに影響し合う費用をまとめて比べれば、予算の配分を見直せると思います」
ルシアン公爵は、黙って私を見た。
私は帳簿の余白に、簡単な表を書き込んだ。
「それから、こちらの倉庫修繕費ですが、毎年ほぼ同じ額が計上されています。修繕箇所の記録がないため、必要な支出なのか、慣例で続いているだけなのか判断できません。修繕履歴を添えれば、来年度の予算を組みやすくなります」
説明を終えると、彼は帳簿を手元に引き寄せた。
「なるほど」
短い返事だった。
「……以上です。お役に立てましたでしょうか」
「大いに」
彼は顔を上げた。
「私のところには何人も会計士がいる。だが、帳簿を正しくつける者はいても、支出同士のつながりまで見て改善案を出せる者は少ない」
「恐縮です」
「謙遜は必要ない。今の指摘は正確だった」
その言葉に、私は思わず顔を上げた。
正確だった。
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がかすかに揺れた。
殿下のもとで働いていたころ、私が問題を指摘すれば、返ってくるのは「任せる」という言葉だった。改善案を出しても、うまくいって当然。問題が起きれば、なぜ防げなかったのかと問われた。
私の仕事を、仕事そのものとして評価してもらったのは、いつ以来だろう。
「アシュフォード嬢」
公爵の声で、我に返る。
「私の領地で、財務管理の仕組みを見直したいと考えている。帳簿の整理だけではない。予算の編成から支出の報告体制まで、全体を整えたい」
彼は一枚の書類を差し出した。
「その責任者として、力を貸してもらえないだろうか」
私は書類を受け取った。
そこには、職務の範囲、報酬、決裁権限、報告先が明確に記されていた。任される仕事だけでなく、私に与えられる権限と負うべき責任も、きちんと区別されている。
私は思わず、もう一度読み返した。
「……ずいぶん細かく決めていらっしゃるのですね」
「曖昧にして得をするのは、責任を負いたくない者だけだ」
公爵は淡々と答えた。
「責任を求めるなら、責任を果たすための権限も渡す。それが私のやり方だ」
その言葉は、私がずっと欲しかったものだった。
無条件の信頼でも、甘い慰めでもない。
仕事を任せるなら、必要な権限を与える。結果を求めるなら、判断の機会を与える。問題が起きたなら、記録を確かめ、誰が何を決めたのかを見極める。
当たり前のことだ。
けれど、その当たり前が、私には何よりもまぶしく感じられた。
「返事は急がなくていい」
公爵は言った。
「ひとつだけ、先に伝えておく。王宮の一件は聞いている。あなたが第七条を盾に相手を陥れたのではなく、記録と手続きで事実を示したことも。声をかけたきっかけは、それだ」
彼は帳簿に視線を落とした。
「だが、仕事を頼むと決めたのは、今の指摘を聞いたからだ。王太子の元婚約者だから招いたわけではない」
私は手元の書類を見つめた。
以前の私なら、王宮との関係や周囲の評判を気にしただろう。婚約破棄されたばかりの身で新しい仕事を受ければ、どんな噂が立つのか。レオン殿下がどう思うのか。
けれど、今は違った。
私はこの仕事に興味がある。
自分の知識を使い、数字を整え、無駄を減らし、誰かの暮らしを少しでもよくする。その仕事を、もう一度、自分の意思で始めたい。
「公爵閣下」
私は書類を机に置き、まっすぐ彼を見た。
「ぜひ、お引き受けしたいと思います。ただ、その前にいくつか確認させてください」
「聞こう」
「私が改善案を出した際、最終的な決裁をなさるのは閣下でしょうか。それとも、領地の財務責任者でしょうか。また、予算の変更を指示される場合には、その理由と決裁の記録を必ず残していただきたいのです」
ルシアン公爵は、ほんのわずかに口元を緩めた。
初めて見る、笑顔らしい笑顔だった。
「当然だ。むしろ、そうしてくれなければ困る。今の条件は、契約書に条文として書き加えておこう」
「では、安心して働けそうです」
「それはよかった」
面会を終えて屋敷を出るころには、空が茜色に染まっていた。
誰かの婚約者としてではない。
誰かの失敗を隠すためでもない。
エレノア・アシュフォードという人間が、何を任され、何を決め、どんな責任を負うのか。
あの書類には、そのすべてが言葉になっていた。
「……いい仕事になりそう」
口に出してみると、自然と笑みがこぼれた。
恋が始まったわけではない。
まだ、彼のことをよく知りもしない。
それでも、この人のもとでなら、自分の仕事を自分のものとして大切にできる気がした。
新しい人生を始めるには、それで十分だった。
◇
クロフォード公爵領で働き始めて、三か月が過ぎた。
最初に手をつけたのは、領地の収支報告の整理だった。
各事業の支出を分類し、修繕費や運搬費など、互いに影響し合う項目をまとめ直す。帳簿の形式を統一し、予算の変更には理由と決裁者を記録する仕組みを整えた。
長年のやり方を変えることに、はじめは戸惑う者もいた。
それでも、数字は嘘をつかない。
三か月が経つころには、領地の会計報告は以前よりずっと見通しがよくなり、無駄な支出も少しずつ減り始めていた。
「アシュフォード様、こちらの報告書をご覧ください。来季の運搬費について、前年度との比較をまとめました」
若い会計係が差し出した書類を受け取り、私は目を通した。
「よく整理されていますね。この形式なら、来季の予算も立てやすいでしょう。ありがとうございます」
そう伝えると、彼はほっとしたように笑った。
誰かの仕事を認めること。
その一言が、次の仕事に向かう力になること。
私は、そんな当たり前のことを、この場所で改めて学んでいた。
王都から届いた報告によれば、調査の結果、レオン殿下には一年間、公務の一部を停止する処分が下されたという。
ミレーヌ嬢には、夜会で私的に使われた費用の返還が命じられた。ロゼリア男爵家は娘を領地へ戻し、彼女が王都の夜会に姿を見せることはなくなったそうだ。
王宮の財務には、新しい担当官が任命された。北部街道の橋は、雨季には間に合わなかったものの、仮の補強のおかげで物資の輸送が途絶えることはなく、先月ようやく修繕を終えたと記されていた。
午後、執務室に戻ると、机の上に一通の手紙が置かれていた。
封蝋には、見慣れた王家の紋章が押されている。
私はしばらく、その手紙を見つめた。
中身を確かめなくても、差出人はわかった。
レオン殿下。
今はもう、私の婚約者ではない方だ。
私は封を切り、便箋を広げた。
そこには、かつて何度も目にした筆跡で、短い言葉が並んでいた。
――エレノア。
君が去ってから、王宮の財務は以前のようには回らなくなった。
新しい担当者を置いたが、報告書は遅れ、予算の変更にも時間がかかる。何を確認すべきか、誰に相談すべきか、私は今になってようやく理解し始めている。
君がどれほど多くの仕事を引き受けていたのか、今さらながら思い知らされた。
あの夜、私は君を責めた。
君が積み重ねてきた仕事を確かめもせず、私の判断の責任を君に負わせようとした。
あれは間違いだった。
すまなかった。
君がそばにいてくれたころ、私はそれを当然だと思っていた。
君なら何とかしてくれる。君なら私を支えてくれる。そう信じていたのではなく、そうしてくれることに甘えていたのだと思う。
もし許してもらえるのなら、一度だけ、話をしたい。
君に謝りたい。そして、できることなら、もう一度やり直す機会が欲しい。
レオン
読み終えた私は、便箋を机に置いた。
窓の外では、領地の人々が収穫を終えた畑の片づけをしている。遠くから、荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえた。
殿下は、変わられたのだろうか。
少なくとも、以前は見ようともしなかったものを、今は見ようとしているのかもしれない。
自分が誰かに支えられていたこと。
その支えが、決して当たり前ではなかったこと。
それに気づいたのなら、いつか殿下も、誰かと対等に向き合えるようになるのだろう。
そうなればいいと思う。
けれど。
私は便箋を折り、封筒に戻した。
謝罪を受け入れることと、もう一度その人の隣に立つことは、同じではない。
殿下が後悔しているからといって、私が戻る理由にはならない。
あの方を支えていた時間まで、間違いだったとは思わない。あの日々があったからこそ、私は自分がどんな仕事をしたいのか、どんな関係を築きたいのかを知ることができた。
それでも、あの場所へ戻るつもりはなかった。
私はペンを取り、返事を書いた。
――レオン殿下。
お手紙を拝読いたしました。
謝罪のお言葉は、確かに受け取りました。
殿下が今回のことから何かを学ばれたのであれば、共に働いた時間にも意味があったのだと思います。
ですが、私はもう、王宮へ戻るつもりはございません。
これからは、自分の仕事に責任を持ち、自分の判断で未来を選んでいきたいと考えております。
殿下もまた、ご自身の判断に責任を持ち、これからの道を歩まれますように。
どうか、お元気で。
エレノア・アシュフォード
最後の一文を書き終えたとき、胸に痛みはなかった。
少しの寂しさはある。長い時間を共に過ごした相手なのだから、すべてが簡単に消えるわけではない。
けれど、もう過去を取り戻したいとは思わなかった。
私は手紙を封筒に入れ、侍女に託した。
それから机に戻り、次の予算案を広げた。
「エレノア嬢」
扉を叩く音とともに、聞き慣れた声がした。
「公爵閣下?」
入ってきたルシアン公爵は、二冊の書類を手にしていた。
「来季の予算案を確認したい。君の意見を聞かせてくれないか」
「もちろんです。こちらへどうぞ」
私は向かいの席を勧めた。
公爵は書類を机に広げ、私の案に目を通した。いくつか質問をし、私が説明すると、納得したようにうなずく。
「この配分なら、収穫量が予想を下回った場合にも対応できるな」
「はい。ただし、運搬費が想定より増えた場合には、こちらの予備費を使う必要があります。その際は、改めて承認をいただきたいのです」
「わかった。条件を明記しておこう」
話がまとまると、公爵は書類を閉じた。
「君に来てもらって正解だった」
その言葉に、私は微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、励みになります」
「……それと、仕事の話ではないのだが」
公爵は、いつになく言葉を選ぶように視線をそらした。
「今度の休みに、領地の湖へ行く予定がある。ちょうど湖畔の木々が色づく頃合いらしい。もしよければ、一緒に来ないか」
一瞬、返事に迷った。
以前の私なら、相手の立場や周囲の目を先に考えていただろう。
けれど、今は違う。
私は、この人と過ごす時間を心地よいと感じていた。
私の意見を聞き、考えが違えば話し合い、私が仕事を終えるまで急かすこともない。私を誰かの代わりとして扱わず、私自身に向き合ってくれる人。
そのことを、私は少しずつ大切に思い始めていた。
「ええ。ぜひ、ご一緒させてください」
そう答えると、公爵はわずかに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「よかった」
公爵は書類を手に立ち上がった。けれど扉の前まで来たところで、ふと足を止めた。
「エレノア嬢」
「はい」
「誤解のないように言っておく。これは仕事の褒美でも、慰めでもない」
振り返った彼の耳が、かすかに赤い。
「君と話していると、いつも時間が足りないと感じる。だから、仕事以外の時間も欲しくなった。それだけだ」
曖昧にして得をするのは、責任を負いたくない者だけだ――初めて会った日の言葉がよみがえる。
この人は、自分の気持ちさえ曖昧にしないのだ。
「……閣下は、何でもはっきりおっしゃるのですね」
「曖昧にすれば、君に理由と記録を求められそうだからな」
思わず吹き出すと、公爵もつられたように小さく笑った。
「では、当日は迎えに来よう」
彼が部屋を出ていったあと、私は窓の外を見た。
湖畔の木々が紅く染まるころには、空気もすっかり澄んでいるだろう。
その景色を思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。
頬が熱いのは、きっと午後の日差しのせいだけではなかった。
婚約破棄を告げられたあの夜、私はすべてを失ったのだと思っていた。
婚約者という立場も、王宮での居場所も、思い描いていた未来も。
けれど、失ったものの向こう側には、まだ知らない世界が広がっていた。
仕事を正当に評価され、意見を聞いてもらい、つまずいたときには原因を共に確かめられる世界。
いつか誰かを好きになるとしても、そのために自分を失わなくていい世界。
私は、机の端に置いた契約書を手に取った。
着任の日に、公爵閣下と私がそれぞれ署名したものだ。
ページをめくり、ある条文で手を止める。
第七条。予算の変更を指示した者は、その理由と決裁を記録に残し、当該支出に関する責任を負うものとする。
あの日、私が求めた条件を、公爵閣下はそのまま書き加えてくださった。
条文は、三年前とほとんど変わらない。
変わったのは、署名した人がその意味を知っているということだ。
私は契約書を閉じ、ペンを取った。
「さて、続きを始めましょうか」
窓から差し込む午後の光が、机の上の予算案を明るく照らしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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