表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

第五章

田所探偵事務所を出てから、ほとんど走っていた。


頭の中にあったのは、あの数字とアルファベットの並びだけだった。

田所さんが「おそらくパスワードだ」と言ったあの暗号。


本当に、そんなものがあるのか。

兄が、そんなものを残していたのか。


実家のドアを開けると、母がリビングにいた。


「優斗?どうしたの、そんなに慌てて」


「母さん、兄さんの遺品って、どこにある?」


母は少し驚いた顔をしてから言った。


「あなたが旅に出てる間に、美玲さんが送ってきたのよ。

ほら、隼人が昔使ってた部屋に……」


兄の部屋は、三年前のままだった。


机の位置。

カーテンの色。

本棚の並び。


ただ一つ違うのは、床に置かれた三つの段ボール箱。


ガムテープの上に貼られた送り状には、はっきりと書いてあった。


差出人:山本美玲


隼人と結婚する前の、旧姓。


「……今さら、こんな名前で」


段ボールの一つを開ける。


中には、衣類や書類、雑貨。

兄が確かに使っていたものばかり。


二つ目、三つ目。


そして、最後の箱の底に——


黒いノートパソコンがあった。


「……もしかして」


喉が乾いた。


電源ボタンを押すと、画面が光る。

起動音が、異様に大きく感じた。


すぐに、パスワード入力画面。


俺は、スマホを取り出して、田所さんから送られてきた暗号を見た。


一文字ずつ、慎重に入力する。


エンターキーを押す。


一秒。

二秒。


……画面が切り替わった。


「入れた……!」


思わず声が出た。


兄のデスクトップが表示される。

背景は、俺と兄が子どもの頃に撮った写真だった。


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


フォルダの一つに、シンプルな名前があった。


【日記】


「兄さん……PCで日記つけてたんだ」


開く。


日付と文章が、淡々と並んでいる。


最初は仕事の愚痴。

部下の話。

将来の目標。


そして、ある日を境に、内容が変わった。


《最近、美玲の様子がおかしい》

《帰りが遅い。スマホを見せなくなった》

《気のせいだと思いたい》


ページをめくる手が、だんだん重くなる。


《興信所に相談した》

《信じたくない》


さらに進む。


《佐山晃》

《ホテル》

《証拠写真》


文字を追うたびに、頭が冷えていく。


「……美玲さん、浮気してたんだ」


あの時。

美玲さんは、そんなこと一言も言わなかった。


「私は裏切られた」

「私は被害者だ」


そういう顔で、泣いていた。


怒りが、遅れて込み上げてきた。


でも、日記を読む限り——

兄は、この事実を誰にも言っていない。


両親にも。

友人にも。

そして、俺にも。


《美玲に問い詰めた》

《認めた》

《でも、すぐにはやめなかった》


そこから先は、読むのが苦しかった。


兄は、怒っていなかった。

ただ、必死に「元に戻ろう」としていた。


別のフォルダを開く。


【証拠】


中には、写真、音声、日時データ。

ホテルの出入り。

LINEのやり取り。


決定的なものばかりだった。


そして、最後のメモ。


《原本は興信所に預けたまま》

《離婚するつもりはない》


……兄は、戦うつもりじゃなかった。


証拠を握りながら、

それでも、壊さずに済む道を探していた。


俺は、ノートパソコンを閉じた。


もう、確信していた。


法的には、もう何もできない。

兄は死んでいる。

浮気の証拠も、今となっては意味がない。


でも——


美玲さんは、隠していた。

自分の浮気を。

兄の苦しみを。

そして、あの日の「本当の前提」を。


問い詰めないわけにはいかなかった。


これは復讐じゃない。

正義でもない。


ただ——

兄の人生を歪めた嘘を、このまま放置していいとは、どうしても思えなかった。


優斗は静かに立ち上がり、もう一度ノートパソコンを抱えた。


次に向かう場所は、もう決まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ