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第三章

美玲の家を出たあと、優斗はしばらく何も考えられなかった。


あの告白。

あの泣き方。

あの、ぐちゃぐちゃになった感情。


正直、誰を信じていいのか分からなかった。

でも一つだけ、はっきりしていることがあった。


片桐亜美に、話を聞かなければならない。


あの女の言葉一つで、兄の人生は壊れた。

なら、その女の口から直接、何があったのかを聞く必要がある。


そう思って、美玲から聞いた会社名を頼りに調べた。


だが、片桐はすでに退職していた。

しかも、引っ越していて、連絡先も不明。


「まるで、逃げたみたいじゃないか……」


胸の奥に、嫌な感覚が広がった。


興信所、探偵事務所。


今まで縁のなかった言葉が、スマホの検索履歴に並ぶ。

その中で、なぜか目に留まったのが


田所探偵事務所


という、やたら普通すぎる名前だった。


新宿三丁目。

雑居ビル。

五階。


エレベーターに乗り、古い操作盤の「5」を押す。

ギシ、と音を立てながら、ゆっくりと上昇する箱の中で、

なぜか胸の鼓動だけが妙に大きく聞こえた。


扉が開くと、薄暗い廊下の突き当たりに、古びたドア。


【田所探偵事務所】


小さなプレートだけが貼られている。


ノックして、少し間を置いてから中に入った。


室内は、正直、きれいとは言えなかった。


古い応接セット。

壁に貼られた色あせた資格証。

雑多に積まれた書類の山。


その中で、一番最初に目に入ったのは——


細身で、長身で、眼鏡をかけた女性だった。


「どうぞ、こちらへ」


淡々とした声で、ソファーを指し示される。

モデルか何かかと思うほど整った顔立ちで、

こんな場所には不釣り合いなほどだった。


言われるままに座ると、向かい側のソファーに、メタボ体型の男がどすんと腰を下ろした。


三十代半ばくらい。

スーツは着ているが、だいぶくたびれている。


「所長の田所です」


そう言って、名刺を差し出してきた。


「……柏葉です」


名刺を受け取ると、先ほどの女性がコーヒーを運んできた。


カップの横には、すでにスティックシュガーが一本と、ミルクポーションが一つ置かれている。


それを見た田所が言った。


「夏野君」


「はい?」


「砂糖とミルクが足りないよ」


俺は思わずカップを見た。

ちゃんと、両方とも置いてある。


夏野と呼ばれた女性は、少し呆れた顔で言った。


「先生、また太りますよ」


「頭使うには糖分がいるんだよ。砂糖ふたつとミルクひとつね」


「はいはい」


そう言いながら、夏野は追加で

スティックシュガーを二本と、ミルクポーションを一つ持ってきた。


結果、田所の前には

砂糖が三本、ミルクが二つ並ぶことになった。


……なんだ、この空間。


兄の死の話をしに来たはずなのに、

まるでコントみたいなやり取りを見せられている。


「で、今日はどんなご用件で?」


田所は、砂糖を三本すべてコーヒーに入れながら、ようやく本題に入った。


俺は、深呼吸してから話し始めた。


兄の隼人のこと。

兄の元妻、美玲さんのこと。

片桐という女の虚言。

そして、その片桐が消息不明であること。


「……その女性を探してほしいんです」


田所は黙って聞いていた。

途中でメモも取らず、ただコーヒーを啜りながら。


話し終えると、少し間を置いて言った。


「なるほど。典型的な“消えた関係者”だね」


俺は、美玲から預かってきた封筒を差し出した。


「これ、兄の遺書と、遺品です」


田所はそれを受け取り、中身をざっと確認する。


遺書を一読したあと、ほんの一瞬だけ、眉が動いた。


「……ふむ」


それだけだった。


「依頼、受けよう」


あっさりと言った。


「本当ですか?」


「うん。面白そうだし」


夏野がちらっとこちらを見て、

「先生、それ失礼です」と小さく言う。


田所は肩をすくめた。


「失礼じゃないよ。俺は“面白い”と思わない案件は引き受けない主義なんだ」


その言葉が、なぜか妙に頼もしく聞こえた。


申込書と誓約書に記入する。

氏名、住所、連絡先、依頼内容。


書き終えて、ペンを置いたとき、俺は遺書と遺品を机の上に置いた。


「これ、預けます」


「ああ、責任持って預かるよ」


田所は軽くそう言って、封筒を引き出しにしまった。


事務所を出るとき、なぜか少しだけ、胸の重さが軽くなっていた。


まだ何も解決していないのに。


でも——


少なくとも、この奇妙な男に、兄の死の“続きを”託した。


そんな気がしていた。

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