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第二章

私が最初に好きになったのは、零士だった。

大学の入学式の日、人混みの中でやけに目立つ人。笑っているだけで場の空気が軽くなるような、そんな人だった。


私は四年間ずっと、零士の背中を追いかけていた。

彼はいつも誰かと付き合っていて、それが本気なのか遊びなのかも分からないのに、私は勝手に「いつか私を見てくれる」と思っていた。


——根拠なんて、何もないのに。


隼人は、まるで正反対だった。

静かで、丁寧で、誠実で、言葉に棘が一切ない。


ゼミで資料を落とした私に、何も言わず拾って差し出してくれた。

それが最初だった。


それから隼人は何度も私を誘った。

食事、映画、散歩。

どれも押し付けがましくなくて、断るほど嫌ではないのに、私はずっと零士を見ていた。


隼人に優しくされるたびに、胸の奥で小さく「ごめんなさい」が鳴った。


大学を卒業して、私は大手企業に就職した。

スーツと満員電車と、平日の時間割。


隼人は急成長中のITベンチャーに入り、周りが羨むような「良い会社に入った」と聞いた。

若いうちから待遇がよく、仕事は忙しいが、その分、将来性がある。

隼人はそこで真面目に働き、着実に評価されていった。


零士は相変わらずだった。

定職に就かず、遊び歩いて、複数の女性と付き合っていると噂だけは耳に入ってくる。


それでも私は、零士を好きだった。

好きだと認めるだけで、なぜか負けた気がして、誰にも言えないまま。


その頃、私の隣にいたのはいつも隼人だった。


最初は断っていた食事の誘いも、いつの間にか当たり前になって、気づけば零士よりも隼人と過ごす時間の方が増えていた。


二十五歳の誕生日の夜。

隼人は真っすぐ私を見て言った。


「必ず、幸せにする」


派手な演出はなかった。

でも、その言葉だけで十分だと思った。


零士は振り向かない。

隼人は、ずっと私だけを見ている。


私は、零士への想いに蓋をして、隼人の手を取った。


結婚してからの生活は、穏やかだった。

隼人はどんなに忙しくても家事を手伝ってくれた。

休日は必ず一緒に出かけた。旅行にもよく行った。


二十九歳のとき、隼人は部長になった。

年収は一千万円を超えた。


それを機に、私たちは郊外に一軒家を買った。

庭付きのマイホーム。

幸せが形になった気がして、私は浮かれていたと思う。


——あのインターホンが鳴るまでは。


平日の昼間だった。

隼人は仕事で不在だった。


玄関に立っていたのは、スーツ姿の若い女。


「柏葉隼人さんの……部下の、片桐亜美です」


名刺を差し出す手が震えていて、

それがかえって「本当のことを言いに来た人」に見えた。


「……少し、お時間いいですか」


私は、嫌な予感を抱えたまま彼女を上げた。


「隼人さんの子を身籠りました」


頭の中が真っ白になった。


隼人がいない。

その事実が、状況をさらに現実にした。

反論する声も、笑い飛ばす声も、ここにはない。


「……別れてください」


片桐は、泣きそうな顔でそう言った。

私は何も言えず、ただ聞いていた。


「お願いです。私、もう……引き返せないんです」


帰ってもらうまでの記憶が曖昧だ。

気づけば私は電話を握りしめて、両親と義両親に連絡していた。


翌日、家族全員が集まった。


父たちは激怒した。

怒鳴り声と、机を叩く音。


そして、隼人に暴力が向かった。


殴って、蹴って、責め続けた。

二人の父親が交互に、まるで罪人を裁くみたいに。


隼人は泣きながら訴えた。


「してない……浮気なんかしてない」

「美玲だけだ……美玲しか……」


でも、誰も信じなかった。

私も、信じられなかった。


——だって、片桐は妊娠していると言った。

嘘をつく理由なんて、ないように思えた。


両親たちが帰ったあとも、私は隼人を許せなかった。


隼人の分の家事をやめた。

寝室も別にした。


隼人は何度も言った。


「浮気なんかしてない」

「信じてほしい」


私はそのたびに、同じ言葉を返した。


「じゃあ、証拠を出して」

「私を納得させて」


——浮気していないことを証明する方法なんて、あるはずがないのに。


一ヶ月ほど経った夜、隼人が離婚届を差し出した。


「明日、出しに行く」


淡々と、疲れ切った声で言って、眠った。


朝、リビングに行くと、隼人が首を吊っていた。


息が止まった。

声が出なかった。

体が震えて、立っていられなくなった。


ずっと一緒にいた夫が、変わり果てた姿でぶら下がっている。


私は、その場で崩れ落ちて泣いた。


テーブルの上には遺書が置いてあった。


「今までありがとう」

「迷惑をかけてごめん」

「浮気はしていない」

そして、最後に——


「夫婦のまま、死なせてほしい」


その一文が、胸に刺さって抜けなかった。


告別式の日。

片桐が来た。


あの女が、何事もなかったように、黒い服を着て立っていた。


私は震えた。

怒りなのか恐怖なのか分からない震え。


片桐は私の前に来て、深く頭を下げた。


「ごめんなさい……」

「妊娠は嘘でした」


一瞬、世界が止まった。


そして、彼女は続けた。


「……貴方の旦那さんが好きだったから、欲しかったんです」


その言葉で、私の中の何かが完全に切れた。


私は片桐の頬を叩いた。

乾いた音が式場に響いた。


「ふざけないで……!」

声が裏返って、自分の声じゃないみたいだった。


泣きながら殴ろうとして、誰かに腕を掴まれて、

父に取り押さえられて、床に座り込んで、ただ泣き続けた。


胸の中は、ぐちゃぐちゃだった。


隼人の死は。

私の怒りは。

私の悲しみは。

何に向ければいいのか、もう分からなかった。

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