第十章
——正直に言えば、俺は外に出たくなかった。
警察の内部資料なんて、本来は探偵の仕事じゃない。
しかも他所の署の案件だ。面倒になるのは目に見えている。
だから電話口で、はっきり言った。
「山岸さん、悪いけど持ってきて」
『……お前な』
受話器の向こうで、ため息が聞こえた。
『他所の署の捜査書類を外に持ち出すのが、どれだけ大変か分かってるか?』
「分かってるから頼んでる」
『……ほんとに出不精だな、お前は』
数秒の沈黙のあと、山岸は諦めたように言った。
『まあ……普段から世話になってるから何とかするが、次はないぞ、マジで』
三十分後、事務所のドアが乱暴にノックされた。
「はいはい」
夏野がドアを開けると、山岸が分厚い封筒を抱えて立っていた。
「これな」
「柏葉隼人、自殺案件の捜査資料一式だ」
封筒を机に放り投げながら、山岸は悪態をつく。
「ほんとに面倒だったぞ。俺の立場も少しは考えろ」
「感謝してるよ。心の底から」
山岸は鼻で笑った。
俺は資料を広げた。
現場写真。
検死報告書。
遺留品リスト。
遺体は、リビングの吹き抜け階段からロープで吊られている。
踏み台になるようなものは見当たらない。
椅子も、テーブルも、きれいに元の位置。
警察の結論は明快だ。
首にロープをかけ、
上階から飛び降りた自殺。
テーブルの上には遺書。
状況証拠は、確かに揃っている。
「……自殺と判断されたから、解剖なし、か」
俺は小さく呟いた。
「遺書が偽造だとすれば……自殺の根拠も半減だな」
山岸は肩をすくめる。
「まあな。だが一応、首のレントゲンは撮ってある」
「飛び降りだと首が引き伸ばされるからな。その確認用だ」
山岸は一枚のフィルムを差し出した。
俺はそれをじっと見た。
……違和感。
「山岸」
「ん?」
「これ、舌骨……折れてないか?」
山岸は一瞬、冗談だと思った顔をしてから、もう一度よく見た。
「……あ」
黙り込む。
「確かに……ヒビ入ってるように見えるな」
俺は次に、遺体写真を引き寄せた。
首元のクローズアップ。
「ここ」
薄く残る索条痕。
「ロープの痕にしては……薄すぎる」
「しかも幅が広い」
山岸が眉をひそめる。
「……ロープなら、もっとはっきり線が出るはずだ」
「だろ」
俺は写真を指でなぞった。
「ロープより太くて、柔らかいもので首を絞めてる」
「だから皮膚への食い込みが弱くて、痕が薄い」
山岸は、はっとしたように息を吸った。
「……それで警察も気付かなかったのか」
「そういうことだ」
俺は続けた。
「しかも索条痕が、ほぼ水平だ」
「飛び降りなら、後ろに向かって斜め上になる」
山岸の顔色が変わる。
「……水平は」
「絞殺だ」
俺は淡々と言った。
「先に首を絞めて殺して、
そのあとロープで吊った」
山岸は、しばらく何も言えなかった。
「……だが、もう遺体は火葬されてる」
「これ以上、直接は調べようがない」
俺は写真から目を離さずに言った。
「ロープは?」
「証拠品として、まだ保管されてるはずだ」
「それで十分だ」
——首の痕は消えても、
首を吊るした“道具”は残っている。
そこへ、事務所の電話が鳴った。
「各務です」
『仕掛けてたカメラ、反応しました』
『片桐亜美、映ってます』
俺は即座に立ち上がった。
「場所は?」
『今から送ります』
すぐに棚田に電話をかける。
「棚田、聞こえるか」
「片桐を見つけた」
「尾行して、住居と職場を割り出せ」
『了解です』
電話を切って、俺はもう一度、資料を見下ろした。
——自殺として処理された事件。
——痕が薄かったせいで見逃された殺意。
——そして、消えた女。
点が、ようやく線になった。
これは事故じゃない。
これは最初から、誰かが作った「計画」だ。
第十一章(本文サンプル)
事務所に着いた瞬間、
空気が違うのが分かった。
いつものコーヒーの匂いも、
田所の机の散らかり具合も変わらないのに、
妙に静かだった。
「座れ」
田所は、砂糖も入れていないコーヒーを前に置いた。
「……何か、分かったんですか」
田所は一拍置いてから、はっきり言った。
「お兄さん、自殺じゃない」
優斗の思考が、一瞬止まった。
「……え?」
「殺されてる可能性が、かなり高い」
言葉としては短いのに、
意味が頭に入ってこなかった。
「警察は飛び降りの首吊りだと判断してるが」
「首の痕とレントゲンを見る限り、
先に首を絞められてから吊られてる」
優斗は、思わず椅子の肘掛けを掴んだ。
「……そんな」
「遺書も怪しい。
あれは“本人の心情”じゃなくて、“都合”だ」
田所は遺書のコピーを指で叩いた。
「離婚してから死ねば、遺産は入らない」
「でも夫婦のまま死ねば、配偶者に入る」
優斗は、ようやく理解し始めていた。
「……じゃあ」
喉が乾いた。
「兄は、遺産目当てで……?」
田所は、静かに頷いた。
「現時点の仮説だがな」
「滝川零士が、片桐と手を組んで、
柏葉隼人を殺した可能性が高い」
優斗の胸に、冷たいものが落ちた。
「……美玲さんも?」
田所は、そこで少しだけ考えるように視線を落とした。
「君の話を聞く限り、
美玲さんが計画に加担していた可能性は低い」
「……どうしてですか」
「動機が弱い」
「金も、手段も、頭も足りない」
言い方はきついが、田所は事実として言っていた。
「むしろ、美玲さんは
“利用された側”の匂いが強い」
優斗は、三度目の訪問で見た
美玲の泣き顔を思い出していた。
零士の浮気。
散財。
暴力。
そして後悔。
「……確かに」
「共犯者なら、あんな状態にならない」
田所は続けた。
「自分が仕掛けた計画で、
人生壊されてる女の顔じゃない」
優斗は、何も言えなかった。
兄を裏切った女。
でも同時に、今は別の男に壊されている女。
そのどちらも、事実だった。
田所は、机の上のメモを手に取った。
「次にやることは一つだ」
夏野に視線を向ける。
「夏野、零士の経歴洗って」
「大学、職歴、人間関係」
「平井は聞き込み」
「片桐の周辺を重点的に」
平井は軽く手を挙げた。
「了解っす」
「各務は引き続き監視」
「金の流れも追う」
夏野が頷く。
「分かりました」
田所は最後に、優斗を見た。
「君は、もう感情で動くな」
「ここから先は、
“誰が得をしてるか”だけを見ろ」
優斗は、ゆっくり息を吐いた。
兄は、死んだのではない。
殺されたのだ。
その現実が、
ようやく言葉として、胸に落ちてきた。
——そしてその死で、
今も誰かが、
生きている。
その事実だけが、
優斗の中で、異様に重く残っていた。




