海の上のレモンの木
むかしむかし、あたたかい南の大海原のまん中に、レモンの木が一本生えた、とても小さな島がありました。どれぐらいその島が小さいかといいますと、木の根元まで海の水がやってくるせいで、時折渡り鳥が木にとまるほかは、だれもその島に住むことはできないくらいでした。木になったレモンの実は、海の中にぽとんと落ちて、しおの流れにのって、人が住む島の浜辺にたどり着くこともありました。
ある時、小さな舟がレモンの島にやってきて、一人の若者を島に残して帰っていきました。若者は何も持っていません。ただ体一つで、この小さな島につれてこられたのです。
その若者は、大きな島の王子さまでした。たくさんの家族や、彼をしたうけらいや友だちにかこまれて、何不自由のないくらしを送っていました。けれど、父である王さまが亡くなった時から、兄弟どうしの争いが始まったのです。
王子の兄弟たちは、だれもが自分こそ新しい王さまにふさわしいと思っていました。そのため、王さまになるための戦いが始まり、島のゆたかな大地が傷つき、たくさんの人が死にました。むごい戦いの末に勝利したのは、一番上の兄でした。兄は新しい王さまになるとまっさきに、自分に味方した兄弟やけらいたちをえらい立場にとりたて、自分にそむいた兄弟は殺してしまうか、島から追い払うことにしました。王子は、仲のよかった二番目の兄に味方をしたため、王さまとなった兄の怒りを買い、小さな島に流されることになったのです。
レモンの島に置いていかれた王子は、しょんぼりと木の根元に腰かけました。ちょうど今はしおがひいていて、若者が座るだけの広さはあったのです。
一人ぼっちになった王子が思い出すのは、楽しかった日々のことでした。優しい母と、おおらかな父のもとで、小さな時は王子とけらいの区別もなく、毎日遊び回ってすごしたこと。魚とりきょうそうで一番になり、一番上の兄にほめてもらったこと。好きな女の子と、影絵芝居をみにいったこと。王子の好きなものは、甘いマンゴー、遠くの国から運ばれた金銀の宝もの、シナモンやクローブなど香りのいいもの、泳ぐことでした。王さまになるための勉強や、戦いはきらいでした。
一番上の兄のことも、彼は好きでした。いっしょに泳いで遊んだり、剣のおけいこをつけてくれたこともあったからです。けれど、いつのまにか兄は彼のことをうとましく思うようになっていたようでした。
兄は、いつになったら大きな島に帰ってきていいとは言いませんでした。ただ、レモンの木のほかは何もない、小さな島に行けと王子に命令しただけでした。
「この、何にもないちっぽけな島で、生きていけと言うのだな」
王子はつぶやきました。
「いつかきっと、兄上は、わたしをお許しくださるはずだ。その時まで、必ず生きていよう」
王子の決意に、返事をする者はいませんでした。けれど、八方にのびた木の枝から、ぽとんと大きな実が落ちて、彼の頭にあたりました。
「あいたっ!」
王子は頭をおさえ、自分をなぐったものが何か、見回しました。すぐそばに、黄色く大きなレモンの実が転がっています。彼はそれを拾い上げました。
「レモンか……」
鼻を近づけると、しおのにおいを一瞬吹き飛ばすような、強い香りが広がります。のどがかわいていた彼は、両手でレモンの皮をさき、中からあふれた果汁をすすりました。
「ああ、おいしい!」
王子ののどをうるおした果汁は、とても甘く、それでいてのどやけのしないさわやかな味でした。王子はおどろきます。レモンといえば、思わず顔をしかめてしまうほどすっぱいものだとばかり思っていたからです。
彼はそのまま果汁を飲み干し、果肉をほおばり、皮や種以外はみんなおなかにおさめてしまいました。
のどのかわきをいやすと、王子は少し元気になりました。上を見ると、木には大きな実がどっさりとなっていました。足元の浜には、貝や小エビ、カニや小魚がいました。
「しばらくは、飢え死にしないですみそうだ」
彼は自分に言い聞かせました。
「よし、兄上とがまんくらべをしようじゃないか!」
しおが満ち、海水が木の根元までひたひたとせまると、王子は木に登りました。ねむる時も木の上です。木の枝に抱かれ、みどりの葉に包まれ、レモンの実と並んでねむったせいか、いつかのように仲間たちに囲まれた楽しい夢を見ました。朝方になると海の東から昇る太陽の、すばらしい光に照らされて目覚めるのでした。
王子は、一日にレモンを一つと、あさせでつかまえた貝やカニを食べました。スコール(大雨)がふった時は大きく口を開け、きちょうな真水をごくごくと飲みました。着ていた衣は時間がたつにつれてぼろぼろになったので、ほとんどの日々をはだかですごしました。どうせだれも見てはいないのですから、ちっとも恥ずかしくはありません。
木の上からは、きらきら光る星がよく見えました。自分を中心にぐるぐると回る星たちは、文字のように並んでいるようにも、砂粒のようにばらばらにも見えました。星も月も太陽も、レモンの木も、彼がその島にいるかぎり、彼だけのものでした。
日差しが特に強い日は、島の周りの海をぐるぐると泳ぎ回りました。そして、泳ぎ疲れて島に上がると、日が暮れるまで好きなだけねむりました。
彼の楽しみの一つは、珍しい形や色の貝がらをあつめることでした。気に入った貝がらは、レモンの木の枝の中にかくしておいて、ふとした時にぼうっとながめるのです。そして、貝がらがどっさりとたまって枝からあふれるほどになったら、思いきってすべてを海に返してやりました。お気に入りの貝を手放してしまっても、また別の貝が波にのって島に打ち上げられるので、ふたたび貝を集めて楽しむことができるのでした。
風や雨が強い日は、大声で歌を歌いました。雨がレモンの葉をたたく音が、たいこのように聞こえて、ゆかいな気分になるのです。大きな島で家族やけらいと歌った歌を次々と歌っていると、いつの間にか雨はやんでいました。雨がやんだ後は、とびきりいい天気がやってきました。
ところがある時、海の向こうから小舟がやってきました。のっていたのは、大きな島の王さまのけらいたちです。彼らは、王さまの命令をうけて、弟のようすを見に来たのでした。
王子がとても楽しそうに島でくらしているのを見て、けらいはおどろきました。王子は久しぶりに会うけらいを歓迎し、甘くておいしいレモンの実をふるまいました。そして、兄たちにもレモンをおみやげにわたしました。
大きな島に帰ってきたけらいの報告をきき、王子からもらったレモンの実を食べた王さまは、とても怒りました。王さまは、弟が、何もない島でとっくの昔に飢え死にしたものだと思っていたのです。それが、今も生きているばかりでなく、島での生活を楽しんでいるだなんて、彼にはどうしても許せませんでした。
王さまはけらいを引きつれて島に向かい、王子の目の前で、レモンの木を引っこ抜きました。そして舟にその木をのせて、王子をいまや何もなくなった小さな島に残して、いきようようと帰っていきました。
王子はひどく悲しみ、いっそこのまま命を絶ってしまおうかとすら考えました。けれど、波の押しよせる島の地面でねむった翌朝、鳥の群れがやってきて、小さな島にさまざまなくだものを落としていきました。
次の日も、その次の日も、また別の鳥たちがやってきて、くだものや魚を王子にくれました。王子はそれを食べ、小さな島でくらし続けました。
けれどもいつしか王子は病にかかり、木のない島で、鳥や海の波にかこまれながら、息をひきとりました。大きな島の人々は、だれもそのことを知らないままでした。
それから何十年もたったころ、小さな島に、一そうの小舟がやってきました。
小舟にのせられていたのは、年を取った男です。島に着くと、男を下ろして、舟のこぎ手は海の向こうへと帰っていきました。
島につれてこられたのは、かつて自分の兄弟を何人も殺し、自分が王になった男でした。長いこと王座についていたその男は、追放した自分の兄弟や、かわいがっていた息子たちに戦いをしかけられ、とうとう王の位から追い落とされたのです。
一人ぼっちの王は、深々とため息をつき、かつてのかがやかしい日々を思いおこしました。あれだけたくさんの人々を従えてきたというのに、全てを失うのはあっという間でした。
その島には、一本のレモンの木が生えていました。木の枝には、大きなレモンの実がなっています。その中の実を一つもいで、王はかぶりつきました。
じんわりと甘い味が口に広がった時、彼は思い出しました。かつてこの島に自分の弟を追放したことを。島にいた弟がくれた、レモンの実と、今口にした実は同じ味がしました。しずんだきもちをはげまし、つかれた手足をいやし、ここちよいねむりにさそってくれるような、さわやかでやさしい味です。
『兄上、このレモンはおいしいでしょう?』
弟の明るい声が耳元で聞こえた気がして、兄ははっとしました。弟王子は、どうして自分のレモンを、兄にくれたのでしょう。何もない島で生きる弟にとっては、とてもきちょうな食べものだったのに。
そのわけを、兄はちゃんとわかっていました。弟王子はむかしからやさしい子なのです。自分でつかまえた大きな魚を、まっさきに兄にくれたことがありました。兄が父とけんかをして、おちこんでいた時は、彼なりになぐさめようとしてくれました。いつでも、王子はやさしい弟のままでした。
かわってしまったのは、兄の方でした。どうしてあんなに弟に怒ってしまったのだろう。そう後悔しながら、兄はレモンの実をむさぼり食べました。太陽の光が強くさした時、レモンの木が葉を広げ、暑さから兄を守ります。葉のすきまから、レモンの実の赤ちゃんがいくつも見えました。食べ終えると、兄は木にもたれてうとうととねむりにおちました。
兄とレモンの木との、静かなくらしのはじまりでした。




