第9話 帰還権〜境界を越えるもの〜
境界門を抜けた瞬間、神谷蓮の耳に風の音が戻った。
白い塩原も、王都の塔も遠ざかり、代わりに乾いた草の匂いがした。
背後で門が閉じる音。
それは、異世界の戦場に打刻された最終のチャイムのようだった。
彼は一歩、また一歩と歩く。
“国外追放”――契約条項の文言通りなら、王国の地に二度と踏み入ることはできない。
だが、王が付与した“帰還権”が残る限り、彼は完全な放逐者ではない。
それは、終わりではなく「保留」だった。
空は茜に染まり、遠くの地平に黒い影が揺れていた。
帝国の旗でも、王国の軍でもない。
村だった。
戦で廃墟となった集落に、かすかな灯が見えた。
蓮は戸口を叩く。
老人が顔を出し、警戒の眼差しを向けたが、蓮が差し出した小瓶――
王都で配給用に作らせた保存薬を見て目を見開いた。
「……あんた、王国の……」
「もう違います。旅の行商です」
老人はうなずき、瓶を受け取った。
「戦でみんな疲れきってる。誰も、勝ち負けなんて覚えておらん」
蓮は黙って頷いた。
勝利が誰かの“日常”を救わなければ、それはただの数字だ。
彼の戦略が、どれほど合理的であろうと、失われた命の重さまでは測れない。
◆ ◆ ◆
夜。
焚き火の炎が揺れる中、蓮は一枚の地図を広げていた。
そこには、王国と帝国の境を越えた広大な空白がある。
「ここから先は、“契約”が効かない領域か」
誰にともなく呟く。
法も、国も、戦略も意味を持たない。
ただ、生きる者と死ぬ者だけの世界。
ふと、手元の地図の端に書かれた印が目に入った。
――《白鷹商会》
それはリュシアが率いる新しいギルドの名だった。
彼女は戦後、ギルドを再編し、王国の再建を担っていると聞く。
“会議を減らす”という合言葉は、今や王国の改革標語になっているらしい。
思わず笑いが漏れた。
「……やるな」
焚き火の光に、ふと影が揺れた。
「懐かしい顔だな」
背後から聞こえた声。
振り返ると、そこにいたのは――ルドヴィクだった。
外套の下には旅装束。
かつての皇子の面影は薄れ、ただ一人の放浪者が立っていた。
「帝国を……捨てたのか」
「“契約”を破棄する代償として、名と地位を捨てた。
だが、自由には代価を払う価値がある」
ルドヴィクは火に照らされて笑った。
「お前の“帰還権”が羨ましいよ。戻る場所があるというのは、強いものだ」
「戻るとは限らない」
「だが、呼ばれるさ。盤上が動くときは、必ずお前の名が書かれる」
蓮は答えず、代わりに地図の端を指で押さえた。
そこには、二つの印が交わる点――
“境界無き交易路”と記された、誰の領土にも属さぬ道。
「……そこに行く」
「なるほど。今度は、“戦略のない場所”で勝負か」
「いや、“戦略を要らなくする”場所を作るだけだ」
◆ ◆ ◆
夜が明ける。
霧の中、ルドヴィクが去り際に言った。
「もし次に会うなら、盤上じゃなく、食卓で会おう」
蓮はうなずき、手を振った。
陽が昇る。
彼は再び歩き出す。
向かうのは、まだ誰も地図に描いたことのない領域。
背中の荷に入っているのは、たった三つ。
リュシアが託した薬瓶。
王が残した“帰還権”の証文。
そして、自分自身が描いた未完成の地図。
風が吹く。
草の匂いが、ほんの少し、前の世界の春に似ていた。
「――ターン開始」
新しい盤上に、彼は最初の一歩を置いた。
それが勝負の始まりか、終わりかは、まだ誰も知らない。
ただひとつ確かなのは、
神谷蓮という戦略AIの心に、初めて“目的なき平和”という命題が刻まれたことだった。
(完)