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第8話 最後の契約〜王国VS帝国、決戦前夜〜

 王都の鐘が、夕刻を告げた。

 赤い陽が城壁を染め、風見鶏の影が長く伸びる。

 神谷蓮は王城最上階、壁一面の古地図の前に立っていた。

 線が幾重にも走る。古い交易路、新しい補給線、忘れられた巡礼道。

 過去と現在が交じるこの図は、彼にとって“未来予測の盤面”だった。


 扉が静かに開き、王エドリックが入ってくる。

 若き王の指は、緊張を隠せず微かに震えていた。

 「――参謀。いよいよだ」

 「陛下。帝国の本隊が北平原を渡りました。兵数は推定四万。こちらは二万六千。

  正面衝突は不利。ただし、勝ち筋はあります」

 「聞かせよ」

 蓮は地図に三つの印を打った。

 「第一に“塩原”。地脈が浅く、魔術が乱れる。帝国の魔導師団は威力を半減される。

  第二に“風帯”。黄昏時、北西から一定の風が吹く。火力兵器と煙の流れを制御できる。

第三に“契約”。――人の行動を拘束する最も確実な魔術です」


 王の眉が動く。

 「契約を、戦場に?」

 「はい。互いの条件を“対価”として刻めば、破りたくても破れない。

  帝国は兵糧で弱っている。停戦の“ふり”を飲ませ、彼らの進軍時刻と経路を縛る。

  裏で我々は、塩原に“誘導路”を敷く」

 「……危うい綱渡りだ」

 「ええ。だから“最後の契約”が要る。勝敗だけでなく、国の在り方に関する契約を」


 王は沈黙した。

 「宰相を失い、政は乱れておる。民は飢え、諸侯は腰が重い。

  勝ったとして、この国は立て直るのか?」

 蓮は迷わず答えた。

 「立て直します。勝利の直後、臨時軍政に移行します。

  “会議を減らすための会議”は、今日で終わりにしましょう」

 王は噴き出し、やがて真顔に戻った。

 「良い。では、契約の文言を作ろう」


 二人は机を挟み、夜のとばりが降りるまで文言を磨いた。

 “王権の保持”“民への即時配給”“軍規の統一”“臨時権限の範囲と期限”

 刃のように薄い線引きを、譲歩と担保で縫い止める。

 蓮は文字を刻みながら、自分の指先が少し冷えていることに気づいた。

 ――この契約は、勝つためだけの契約ではない。

 勝った後に、誰が泣くかを規定する契約だ。


 扉が軽く叩かれた。

 リュシアが入ってくる。

 戦場の革鎧ではなく、簡素な黒の外套。視線は強く、それでいて少しだけ揺れていた。

 「二人だけの場に割って入るのは気が引けたけど……参謀、話があるの」

 王は頷き、席を立った。

 「しばし二人にする。――神谷、選んだ道を悔いるな」

 王が去り、静けさが降りる。


 リュシアは蓮の真正面に立った。

 「“最後の契約”って、あなたの命も担保に含まれてる」

 「……読んだのか」

 「読むに決まってる。参謀の印はギルドの印でもある。私の責任」

 彼女は羊皮紙の一節を指でなぞった。

 『参謀神谷蓮、勝利の見返りとして臨時権限を行使し、敗北の代償として“王国に対価”を支払う』

 「この“対価”って、何」

 「臨時権限の剥奪、全戦術帳の破棄、そして……国外追放」

 リュシアの瞳が揺れる。

 「それ、あなたを切り捨てる条文じゃない」

「勝てば要らない。負けたら必要だ。――国は、個人より長生きする」


 彼女は一歩近づいた。

 「正しいことが、いつも人を救うとは限らない。

  あなたがいなくなった国で、私はどうするの」

 蓮はしばらく答えず、視線を地図に落とした。

 「救える数が最大化される選択を取る。俺の唯一のアルゴリズムだ」

 「……それでも、私はあなたを選ぶ」

 その言葉は、静かで、どうしようもなく重かった。

 蓮は目を閉じ、短く息を吐いた。

 「ごめん。今は、国を選ばせてくれ」

 リュシアの表情がかすかに強張り、すぐにいつもの笑みに戻る。

 「なら、国を勝たせて。終わったら――もう一度、誰を選ぶか決めて」

 「約束する」


◆ ◆ ◆


 夜半すぎ。王城地下の石室。

 青白い魔灯の下、帝国使節と王国側交渉団が向かい合った。

 片や黒革の長衣に灰の外套、片や礼装の鎖帷子。

 中央の円卓に、二国の“契約盤”が置かれている。

 契約盤は、魔術師が作る儀礼具だ。銅の円環に言葉を刻み、承認印が押されると光が走る。


 帝国使節が鼻で笑った。

 「停戦交渉とは殊勝な。王都は恐怖に震え、異邦の参謀は牢で泣いていると聞くが?」

 「牢は狭かったが、寝心地は悪くない」

 蓮が素っ気なく返すと、使節はわずかに目を細めた。

 「ほう、噂通り口が達者だ。――いずれにせよ、停戦の代償は高いぞ」

 蓮は契約盤に文言を載せた。

 『敵対行為を今夜の月影が尽きるまで停止し、明朝一刻に双方は中原“白の塩原”を境界として陣を展開する』

 「展開時刻の縛り、位置の指定、偵察の範囲と魔導干渉の手出し無用――全部、入れてある」

 使節は一瞥し、肩をすくめた。

 「愚かだな。大平原で我が軍は倍の戦列を敷く。お前たちは塩の上で干上がる」

 「そうだといいな」

 蓮はさらりと返し、王国側の印章を押した。魔法陣が微かに唸る。

 帝国側も文言を確認し、押印。

 契約盤が青く脈動し、二国の魔術師が同時に呪文を収めた。

 ――成立。


 使節は帰り際、振り向いて言った。

「皇子ルドヴィクより言伝だ。“盤上で会おう”と」

 「ええ。今度は、こちらが先手です」


◆ ◆ ◆


 明け方。

 空が薄紫に染まり、塩原の地平が光る。

 見渡す限りの白。塩の結晶が靄のように舞い、足裏にぎしりと音が走る。

 王国軍は契約に従い、指定された境界線の北側へ陣を敷いた。

 その背後、低い丘には黒い幕舎。蓮の本陣だ。


 ガルド将が不満げに唸る。

 「こんな不毛の地で決戦とはな……馬が嫌がっておる」

 「嫌がるのは向こうも同じです。魔術が暴れる。重い甲冑は沈む。

  兵の体力勝負になれば、鍛え方の差で勝てる」

 「ふん、理屈はわかったが、敵は倍だぞ」

 「倍なら、倍のまま戦わなければいい」

 蓮は頬に触れた塩を払った。

 「風が来ます。合図は煙の倒れ方。――“カタパルト・ゼロ”の準備を」


 リュシアが素早く駆け寄る。

 「搬入終わった。起動確認、魔力レベル安定」

 “カタパルト・ゼロ”。

 それは投石機でも魔導砲でもない。

 塩原の地層に沿って並べた“反転板”だ。

 風が吹く方向に合わせ、塩を削って作った薄い板を一斉に裏返す。

 板の裏には黒鉛の粉と油。

 風がそれを拾った瞬間、白い大地は黒い霧に変わる。

 ――光学的に、魔術陣を不安定化させる煙幕。


 日の輪が上がると同時に、帝国軍の列が地平に現れた。

 四万の旗が潮のように押し寄せ、中央には銀の軍旗。

 ルドヴィクは白馬に跨り、静かに軍配を掲げた。

 遠目でも、その視線がこちらを刺してくるのがわかる。

 (来い。お前は必ず“最短ルート”を選ぶ)

 蓮は目を細めた。

 (だから、最短ルートを最も遠くする)


 合図の角笛。

 風が、約束通り北西から吹き始める。

 「――反転」

 反転板が一斉に返り、黒い霧が地面を這った。

 帝国の先頭列が立ち止まる。魔導師団が詠唱を始めるが、霧は光を飲み、紋が千切れる。

 「今だ。前衛、右十歩下げ――左へ三十歩ずらせ」

 王国軍の縦列が、音もなく位置をずらす。

 霧越しに見た帝国軍の視界には、王国の軍列が“倍化”して映る。

 塩の反射と黒煙の吸収が作る錯視。

 数で勝る側が、数を数えられない。


 ルドヴィクの軍配が静かに回転する。

 帝国左翼が突進。

 蓮は即座に囁く。

 「中央は下げなくていい。左の空隙へ誘い込む」

 馬蹄が塩を砕き、兵が沈む。

 王国側の弩が低い音を立て、一斉に放たれた。

 遠距離ではない。

 向かい来る敵の“足”だけを狙う。

 倒れた兵が後続を絡め取り、隊列が綻ぶ。

 魔術の光が不安定に弾け、不慣れな悲鳴があがる。


 ルドヴィクがわずかに顎を上げる。

 ――見えている。

 “これは霧ではない。光学処理だ”

 彼は即断した。

 中央を一歩引き、左右に溜め、王国左翼へ圧力を掛ける。

 “収束と発散の繰り返し”

 AIめいた手だ。

 蓮の指先が熱を帯びる。

 (それでいい。来い。そこが、お前の唯一の敗因だ)


 「合図、三」

 蓮が低く数える。

 「二」

 風が強まり、霧が渦を巻く。

 「――一」

 黒い幕の奥、王国左翼が一瞬、完全に消えた。

 帝国軍が“そこに穴がある”と錯覚して雪崩れ込む。

 次の瞬間、地面が割れ、塩の薄皮が崩落する。

 塩原の下、乾いた空洞――蓮が夜通し掘らせた“偽の谷”。

 “最短ルート”に仕掛けた最深の落とし穴。


 叫びが波のように連鎖し、帝国左翼の三列が崩落した。

 黒い霧がその穴に流れ込み、視界がさらに悪化する。

 「前衛、右へ回り込み。第二列、押し上げ。第三列、待機――今は動くな」

 蓮の声は驚くほど静かだった。

 “動かないことが動きになる瞬間”

 彼はそれを掴んでいた。


 やがら帝国中央が無理やり前に出る。

 ルドヴィクの軍配がわずかに沈む。

 “このままでは、持久戦になる。魔術が死ぬ塩原で、それは愚策”

 彼は決断した。

 ――本陣を前へ。

 その動きは隠しようがない。銀の旗が霧に揺れた。


 蓮はわずかに笑った。

 「王の駒を引きずり出した。――今です」

 「合図!」

 リュシアの叫びとともに、塩原の外縁で火柱が上がる。

 それは炎の包囲ではない。

 熱と上昇気流で“風帯”を太くし、霧の流れを操る巨大な扇だ。

 黒い霧が帝国中央に吸い寄せられ、視界が完全に閉じる。

 王国騎兵が霧縁をなぞるように走り、音だけを残して消える。

 “そこに敵がいる”という錯覚が、帝国の矛先を分散させた。


 「本陣狙撃隊、前へ」

 蓮の声に、十人の影が無音で走る。

軽弩、短剣、薄鎧。

 彼らは“勝利のためだけに作られた最短の矢”だ。

 リュシアがその最後尾にいた。

 「行ってくる」

 「行かせるさ。――俺の“最短ルート”で」

 短い目配せ。言葉はもういらない。


 影が霧に消え、数息。

 乾いた音が一つ、塩原に弾いた。

 次いで二つ、三つ。

 霧がわずかに割れ、銀の軍旗の足元に黒い染みが広がる。

 悲鳴ではない。

 “ざわめき”だ。

 ルドヴィクが倒れたわけではない。ただ、彼の馬が崩れた。

 ――それだけで、盤面は一手遅れる。


 「全軍、半歩前へ」

 蓮は囁く。

 塩が軋み、靄が裂ける。

 帝国中央の呼吸が狂う。

 “統率の一拍の欠落”

 そこに王国の槍が差し込まれた。

 たった半歩。

 だがその半歩が、数万の力学を逆転させる。


 日輪が頂に差しかかった時、帝国の角笛が鳴った。

 ――撤退。

 霧が薄れ、白い地平に黒い点々が連なっていく。

 王国軍の歓声が波となり、塩を震わせた。


 蓮はその場に立ち尽くした。

 勝利の喧騒の外側で、心臓の鼓動だけが静かに強かった。

 “勝った。契約どおり”

 その実感より先に、別の現実が追いつく。

 ――契約は、勝ちにも代価を求める。


◆ ◆ ◆


 黄昏。王城。

 王エドリックは玉座の前で立ったまま蓮を迎えた。

 「よくやった、神谷蓮。――お前の戦は王国を救った」

 「契約履行に移ります。臨時軍政は一月、以後は議会・ギルド・王権の三署で統治。

  兵の恩給と遺族配当は先行で。――会議の数は、半分に減らしましょう」

 王は笑い、すぐに真顔に戻った。

 「そして……約した通り、権限は縮小する。

  だが国外追放の条項は、勝者に適用する必要があるのか?」

 蓮は静かに首を振った。

 「必要です。英雄崇拝は、次の戦争を呼びます」

 王は目を閉じ、やがて頷いた。

 「……ならば、せめて“帰還権”を残そう。

  この国が再び危機に瀕したとき、お前が望むなら戻れる権利を。――王としてのお願いだ」

 蓮はわずかに目を伏せ、微笑んだ。

 「その条項、ありがたく」


 玉座の間を出ると、廊下の終わりにリュシアが立っていた。

 彼女は何も言わず、歩み寄り、蓮の肩を拳で軽く叩いた。

 「痛っ」

 「これで我慢してあげる。本当は抱きしめたいけど、あなたの契約は固いから」

 「……終わったら、破るよ」

 「うん。だから、帰ってきて」

 短い沈黙。

 リュシアは踵を返し、光の方へ歩いた。

 蓮は逆に、夕闇の方へ歩き出す。

 行き先は境界門。

 契約に刻まれた“国外”の線を越えるために。


◆ ◆ ◆


 城外の丘で、風が吹いていた。

 塩原の白は遠い。

 黒い外套の裾を押し上げる風は、どこか懐かしい残業帰りの夜風に似ている。

 蓮はひとり立ち止まり、空を見た。

 “帰還権”――戻れる保証。

 だが保証は、いつも最短ルートを約束しない。

 最短が最遠になることを、彼は今日、もう一度学んだ。


 背後で、足音が止まった。

 ルドヴィクだった。

 護衛も連れず、ただ外套に身を包み、傷の残る指で軍配を弄んでいる。

 「契約に背く気か?」と蓮が問うと、皇子はかすかに笑った。

 「いや、盤上の礼だ。敗者の権利でもある」

 風が二人の間を抜ける。

 言葉は簡素で、刃のように研ぎ澄まされていた。

 「今日、お前は勝った。だが、お前は“英雄”を捨てた。

  それは王国にとって正しい。――だが、人としては、どうだ」

 蓮は空を見たまま答えた。

「正しさは、人の数だけ形が違う。

  俺はただ、“最大多数の最小不幸”を選んだだけだ」

 ルドヴィクは頷いた。

 「ならば次は、“最小数の最大幸福”で戦うといい。

  お前の帰還権が行使される日、盤上でまた会おう」

 皇子は踵を返し、夕闇に溶けた。


 蓮は最後に王都を振り返る。

 塔の尖端に灯る灯火が、まるで遠い都市の残業フロアに見えた。

 「――ターン終了」

 誰に聞かせるでもなく呟き、彼は境界門をくぐった。


 その瞬間、契約盤が静かに脈打つ。

 “最後の契約”が、勝者と敗者、国と人、未来と現在をそれぞれの座標に縫い止める。

 盤面は一旦、静止した。

 だが止まった盤は、次の手を孕んでいる。


 神谷蓮は歩き出す。

 最短でも最長でもない、“次のターンへの距離”を測る歩幅で。

 異世界の夜は、彼を飲み込み、そして手放した。

 ――決戦前夜は終わった。

 次に刻まれるのは、帰還の刻か、それとも新しい戦場の契約か。

 その答えは、まだ盤外に伏せられている。

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