第85話:心話
思ったより愛称がすんなり決まり、ミコトはほっと息を吐いた。
(呼び方は『アンナ』で大丈夫そうだな。)
視線を伏せながら、胸の奥で納得する。
次に思い浮かぶのは、話し方だ。
(今の丁寧語では、やっぱりよそよそしいから……)
(でも、その前に……)
と心の中で前置きした。
(案内人さん……じゃなくて、アンナさんは、意識に直接語り掛けてくる。)
(ならば、こちらからも意識で応じることができるはず……)
実際、ミコトは最初からそう考えてはいた。
しかし、二時間という短い時間で重要な判断を迫られる状況では、思考と会話が混ざる危険を避ける必要があった。
“裏アカ”のつもりで、迂闊なことを“本アカ”に書き込んでしまうような、取り返しのつかないミスに繋がりかねないと判断したのだ。
だからこそ、これまではずっと声に出してアンナと会話してきた。
だがもう状況は異なる。
転移を決意した今── アンナとは、ルナティアを救うという目的が一致している。
(もう、ミスが起きるようなことはないだろう。)
彼は唇を引き結び、視線を前へと向けた。
ミコトは深く息を吸い、意識を澄ませる。
(では……!)
案内人スキル改め『アンナ』へと心を向け、呼びかける。
(「もしもし、アンナさん。聞こえますか?」)
すぐに返事が返ってきた。
(「はい、聞こえます、ミコト様」)
(おぉ、やっぱり繋がった!)
瞳を輝かせ、ミコトは喜びを隠せない。
すると、アンナの声が続く。
(「何かありましたか?」)
予想していなかった反応が返り、戸惑うミコト。
(「え? あ、え~っと……」)
(「今まで声を出してアンナさんに話しかけていたのを、声を出さないようにしてみました。」)
頬をかきながら、少し照れたように説明する。
(「なるほどです、理解しました。」)
アンナの声は落ち着いていた。
そして、柔らかく告げる。
(「ですが、私には、ずっと“心話”で伝わっていましたよ。」)
(え?……)
(“心話”ってのは、この意識で会話するやつのことだよね……)
ミコトは目を見開き、すぐに状況を悟った。
(……あっ、そうか!)
声に出していたとしても、結局はアンナに話しかける意識が働いている。
だから、声を出そうと出すまいと、アンナには意識で会話── “心話”として届いていたのだ。
胸の奥で、静かな納得が広がっていく。
ミコトは静かに頷いた。
アンナには“心話”になっていたとしても、自分としては、声と思考を分けていられたので、ミスを避けるという目的は達成できていた。
そして──
(なるほど、“心話”か……分かりやすいな。)
能力物の物語では“念話”と呼ぶのが定番だが、実際に使ってみると“心話”という呼び方の方がしっくりくると彼は思った。
そんな思考の狭間に、アンナの声が響いた。
(「ミコト様は転移を決意してくださいました。」)
(「そして、素晴らしい名前も付けてくださいました。」)
(「今後、私のことは、是非、敬称なしでアンナとお呼びください。」)
ミコトは急な申し出に困惑する。
(呼び捨てか……急には……ちょっとハードル高いな。)
(子供の頃は平気で友達を呼び捨てにできてたんだけどなー、なぜ歳を取ると難しくなるのか……)
(でも、打ち解けるには近道かも……?)
ミコトは少し照れながらも了承する。
(「では、“アンナ”と呼びますね。」)
(「はい、ありがとうございます、ミコト様。」)
アンナの声音には、嬉しさを隠しきれない響きがあった。
(「えっと……では俺の方も、“様”なしで、ミコトと呼んでください。」)
肩をすくめ、軽く笑みを浮かべながら返す。
しかし──
(「いえ、それはできません。」)
アンナの声はきっぱりとしたものだった。
(えぇ……?)
ミコトは目を瞬かせ、戸惑いを隠せない。
(「そのようなことをすれば、私が消されてしまいます。」)
さらに困惑し、思わず目を見開く。
(物騒な!)
だが、それはアンナの杞憂に過ぎなかった。
ルナティアの管理者サイドで、新参の一般職ならいざ知らず── アンナは一般職まで降格したものの、最古参の存在だ。
そして今では、ミコトとの関わりの中で小さな羽が再び芽吹き、その羽はミコトの転移決断によってさらに少し大きくなり、中間職と同等の姿にまで戻っている。
── しかし、アンナはまだその事実に気付いていなかった。
ミコトは肩を落とし、少し困ったように頼んだ。
(「では、せめて“様”付けはやめて欲しい。」)
(「……様でなければ……“ミコト殿”ではどうでしょうか?」)
(「いやいや、変わりません~」)
苦笑しながら、手を振って否定する。
(「では、ミコト先生?」)
(「そう来たかー」)
(「いやいや……“くん”とか“さん”とかで!」)
(「では、失礼だとは思いますが、ご要望ですので……“ミコトさん”と呼ばせていただきます。」)
(「はい、それでお願いします。」)
ミコトは少し長めに息を吐き、窓の外へと視線を投げた。
そして、遠くの星々を見つめながら、心の中で呟く。
(これは、砕けた口調になるのは無理そうかな……)
そんな彼は気付いていなかったが── アンナが“ミコトさん”と呼んだ時、その声色にはわずかに弾む響きが宿っていた。
ミコトはふと視線を落とし、ワイヤレスマウスを指先で軽く弾く。
そして、某匿名掲示板の自分のスレッドを確認する。
(……もし進行が止まっていたら、どうしようか。)
(新しい燃料を投下するかなぁ。)
何も期待せずに、眉を寄せ心の中で呟く。
だが、そのスレッドは── 罵詈雑言のノイズとは異なる、意外な動きを見せ始めていた。




