第2話①:誠実な案内
ミコトは呆然と、目の前のダイアログボックスを見つめていた。
『異世界転移』
そんな言葉はこれまでに何度も漫画や小説で目にしてきただろう。
しかし、実際に彼自身がその選択を迫られるとは思ってもみなかった。
(まさか、異世界の管理者からメールが送られてくるとは…)
(確かにゲームや漫画が好きだったし、いつの間にか異世界転移系の物語を好むようになっていた。だからと言って、こんなことが現実にあり得るのか?)
(…そういえば、異世界ものを好むようになったのは、いつからだっただろう……?)
(……ああ、そうか。事故で家族を失って、足を悪くしてからだ。外に出る理由も、帰りを待ってくれる人もいなくなって……)
(現実がどんどん狭くなっていく中で、異世界の物語が、俺をどこか遠くへ連れていってくれた。)
(―― もし、あの主人公たちのように、新しい世界で、自分のまま生まれ変われたら……そんなことを、いつからか想うようになっていた気がする。)
そして、過去に読んできた異世界物の物語がミコトの脳裏をよぎる。
殆どの場合、転移や転生は突然発生し、主人公は強制的に異世界へと放り出される。
そして選択の余地はなく、元の世界に戻る手段もないまま、その世界で生き抜くしかない。
(よくあるのが、事故で命を落として新たな人生を始めるケースだ。)
(でも今回の状況に近いのは、強制的に勇者として召喚されるケースかな。)
(どんなケースでも、転移や転生の対象者は、問題なさそうな人が選ばれてるんだよな……)
(しかし、例えばペットを家に残したまま異世界転移なんてことになったら…置き去りにされたペットには…悲惨な運命しか残っていない……)
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静まり返った部屋の片隅で、ケージの中のハムスターはポツンと佇んでいる。
いつもなら、この時間には飼い主の温かい声が聞こえてくるはずだった。
優しく餌を入れてくれる気配、そっと撫でる指の感触…それが、今日はどこにもない……
あるいは、飼い主のベッドの上で丸くなっている猫。
静かに揺れる尻尾、目を閉じたまま、時折、耳をピクリと動かす。
しかし、聞こえてくるはずの足音は帰ってこない……
それが何を意味するのかは、彼らにはわからない。
何も知らぬまま、ただ待っている姿。
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ミコトの脳裏に、そんな哀しい光景が浮かんだ。
だが、今目の前にあるダイアログボックスには、
『7日後に異世界転移します。よろしいですか?』
という選択肢が書かれている。
(拒否が可能で、準備期間がある…)
しかも、決断のための時間として2時間ほどが与えられており、時間切れでは自動的に拒否が選ばれるようになっているようだった。
ミコトは、それらの点に誠意を感じた。
物語の主人公たちのように強制的に異世界へ引き込まれるのではなく、選択権が与えられ、事前に準備する時間が設けられている。
(ただ…案内の文面といい、誠実すぎる気がしなくもない……)
(何か企みがあるかも…?)
(もしかして…巧妙に誘導して転移させ、自由を奪って利用する気があったり?)
ミコトは、新しいことに直面したとき、まず期待できる成果よりも、先に潜むリスクを考える性分だった。
そのため、これは単なる異世界への招待ではなく、何か別の目的を持っているかのように感じられた。
更にミコトは考える。
(しかし、もし企みがあるなら、異世界転移を可能にするほどの力があるのだから、もっと巧妙な方法を取るはずだよな……)
例えば、異世界転移させておいて、それを自分たちが行ったとは明かさず、あたかも突然転移者が現れたように装うこともできると考える。
(コチラの世界の知識が欲しいなら……)
(転移者が偶然迷い込んだように仕向けて、その上で大事に保護して信頼関係を築けば、怪しまれずに協力を得ることができるはず。)
ミコトは、その状況を思い浮かべた。
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城の中央にある石畳の広場に、突如として人影が現れた。
転移の瞬間を認識する間もなく、転移者はその場で膝をつき、混乱した視線を周囲に向ける。
その場に居合わせた衛兵たちも動揺している。
「何者だ!? …武器は持っているか!?」
数人の衛兵が警戒態勢を取る中、一人の男が前へと歩み出る。
深緑の衣をまとい、穏やかな物腰の人物―― 城の重職の一人である外交官だった。
「待て!…まずは話を聞こう。」
彼の落ち着いた声が場を支配し、兵士たちは一瞬動きを止める。
転移者が周囲を見渡すと、自分の姿が異様に目立っていることに気づく。
周りとは異なる素材の服、異質な装飾と現代的なデザインが、異世界の空気に溶け込むことなく浮いていた。
外交官は静かに問いかける。
「……あなたは、どこから来たのです?」
その視線には警戒よりも興味があるようだった。
転移者は息をのんだ。
「……えっと…その…正直、何が起きているのか…よく分からなくて……」
言葉の選び方を誤れば、自分の立場が危うくなりそうな緊迫した状況だと感じた。
だが、それ以上に、彼はこの状況をどう理解すればいいのか分からなかった。
外交官は転移者の服をゆっくりと眺め、唇の端をわずかに持ち上げた。
「見たことのない装束です。あなたはいったい、何者なのです?」
その問いかけは、単なる疑問ではなく、計算された布石だった。
異世界から強制的に呼び寄せたこの者を…そうとは悟らせずに、慎重に保護しながら利用しよう。
まるで、偶然迷い込んだ者を救い上げるかのように。
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ミコトは不快な気持ちになり、軽く頭を振る。
(なら、今回の案内は信用してもいいのか……?)
それでも、まだミコトの頭から疑いは消えなかった。
(そういった考えが思い付かなかっただけとか、転移者の同意が必要な縛りがあるとか……)
(……でもそれならそれで、もっと上手く誘導する文面があるか。)
(いつでも帰れる様なことを書いたり、『貴方には隠された強い力がある』とか、『素晴らしい力を与える』とか書いて乗り気にさせたり。)
(でも、嘘を付けない縛りがあるとか……)
考えれば考えるほど堂々巡りする思考に、今の情報で深く考えても仕方がないとミコトは悟った。
彼は腕を組むと、
(詳細を確認するしかないな……)
と考え、ダイアログボックスをじっと見つめた。
(何から聞くべきか……)
転移先の世界の情報は確かに重要だ。
しかし、彼が案内文を読んだ時に、特に気になった点が二つあった。
それは――
『原初の世界「アマノハラ」』
そして、
『派生世界』
という言葉。
(まずはこれについて確認するべきだな。)
ミコトは、自分がいるこの世界こそが「原初の世界」を指しているのだろうと推測している。
では、「派生世界」とは何を指すのか? 派生ということは、この世界が元になっていそうだ。
この世界のパラレルワールドのようなものなのだろうか。
もしそうならば、「派生世界ルナティア」は、この世界と大きく変わらない世界なのでは、と彼はその可能性を慎重に推測する。
(異世界転移といえば、物語では中世ヨーロッパのような世界が王道だが…)
ミコトはメールの説明を思い出し、緊張した面持ちで呼びかけてみることにした。
「…案内人スキルさん?」
息を呑むような静寂が満ちた。
一瞬だったが、ミコトにはその瞬間がとても長く感じられた。
次の瞬間…
(「はい。案内人スキルです。ミコト様。」)
ミコトは大きく目を見開いた。
まるで思考の中に、別の存在が滑り込んできたような感覚。
声の主がどこにもいないのに、確かに“そこにいる”と感じられる奇妙な実在感があった。
(返事があった……!?)
―― この時、ダイアログボックスの自動的に[拒否]になるまでの時間は、114分13秒になっていた。
『※あと114分13秒で自動的に[拒否]になります。』