第107話:聖地『地球』
~時は戻り──いつものアパートの一室~
薄いカーテン越しに、朝の光が静かに揺れていた。
白い布地を透かして差し込む陽射しは──
その角度でおよその時間をミコトに告げ、部屋の空気に淡い金色を落とす。
ミコトは、高身長ゆえの長い手足を伸ばしながら、
部屋着を脱いで、いつもの普段着に袖を通す。
(今日もこれでいいか……)
──キャメル色のカーゴパンツと、白地の長袖Tシャツ
──Tシャツの胸元には、茶色の線で“コミカルな子熊が歩く姿”のイラスト。
(……この上下見つけた時、気づいたら三色まとめて買ってたんだよな)
(組み合わせを考えなくていいって……やっぱ楽だね)
ミコトは軽く肩を回し、洗面台へ向かった。
鏡の前で髪を整え、顔を洗い、最低限の身だしなみを整える。
水滴をタオルで拭いながら──
(すぐに出るか)
と、静かに決めた。
新しい一日の始まりを告げるように、朝の光が背中を押していた。
少し前、ミコトは日本刀の購入を決めていた。
とはいえ──
(……めっちゃ高いし、ポチるのは……ちょっと……)
ノートPCの前で腕を組み、画面に映る二振りの日本刀を見つめる。
どちらも美しく、どちらも高額。
そして──どこか“こっちを怪しげに見ている”ように感じた。
(……なんか、妙な気配出てない……?)
(……偽物? 詐欺??……)
ミコトは苦笑しつつ、画面を閉じようとして──ふと手を止めた。
(……アンナの解析能力で“鑑定”できないかな?)
(このネットショップの実店舗は、幸いタクシーで行ける場所だし……)
(でも、それには……まず本物を解析しておかないといけないか……)
しかし、ミコトは再び固まった。
(……いや、本物ってどうやって見分けるの?)
本物を見分けるために、本物を見本にしたい。
(でも、その見本が本物かどうかは……)
(本物を見本にして本物と見分けなければ……)
(終わりがない!?)
頭を抱えかけたその瞬間、ミコトの脳裏にひらめきが走った。
(あっ、国宝とか重要刀剣なら絶対本物じゃん!)
座椅子から前のめりになる。
(博物館のやつ!)
(よし!……まずは“本物”を見に行くか)
ミコトは息をつき、ノートPCを閉じた。
玄関で“白とサンドベージュ”のスニーカーを履きながら──
ミコトはそっとアンナに意識を向け、いつもの心の中での会話を始める。
(「ちょっと外出するね」)
(「はい。道中、気をつけてくださいね」)
(「ありがと!」)
ドアノブに手を伸ばす直前、
ミコトはふと『従魔ウィンドウ』を開いた。
そこに映っていたのは──見たこともない寝相だった。
下半身は腹ばい。
上半身は横向きにねじれ、前足は“く”の字。
そして首から上は、まるで空を仰ぐように反り返っていて──
ミカドが、すやすやと眠っていた。
(……!?)
ミコトは反射的にスマホを掴んだ。
この奇跡の瞬間を撮らずにいられるわけがない。
だが、すぐに撮影できないことに気づく。
従魔ウィンドウは、視界にあるものの実体はない。
ミコトは肩を落とし、そっとスマホをポケットに戻した。
ドアを開けると、少し太陽が高くなっていた。
平日の午前九時。
通勤ラッシュはすでに過ぎ、道には人影も車もまばらだ。
ミコトは歩き出しながら、
(……なんか不思議な感じだな)
と、胸の奥でつぶやいた。
この世界に姿はなくとも、アンナとミカドと一緒に歩いている。
それだけで、いつもの街が少しだけ異世界に近づいたように感じた。
──アンナは、異世界ルナティアの管理棟空間の存在で、『案内人スキル』の任を担っている。
──ミカドは、ミコトの元ペットの従魔で、ルナティアに転移するまでは従魔ウィンドウの中にいる。
しかし──
しばらく歩いたところで、ミコトはふと眉を寄せた。
(アンナ……静かすぎない?)
外に出れば、“これは何ですか?”、“あんなに速い乗り物が!”などと、
アンナが何かと気にして会話が弾むと思っていた。
けれど今は、まったく沈黙している。
(こっちの世界に対して、何か企んでるとは思わないけど……)
(……ちょっと不安になるな……)
その瞬間──
(「ミコトさん、もう少し右側を歩いたほうが……」)
いつもの穏やかなアンナの声が、ミコトの意識へ落ちる。
(車道が危ないってことかな……?)
(ガードレールはあるけど……)
後ろから、少しスピードを出した車の音が近づいてくる。
(「はーい」)
ミコトは心話で返しながら、歩道の内側へと寄った。
都心から少し離れたベッドタウン。
歩道は広く、空気は清らかで、
車が通り過ぎる音だけが響いていた。
駅まで歩くこと十五分──
ミコトはホームの端に立ち、電車を待っていた。
線路に挟まれた、よくある島式ホーム。
ただ利用客が多い駅だけあって、幅はかなり広い。
朝の光がレールに反射し、
遠くから風を切るような低い音が近づいてくる。
(「ミコトさん、もう少し下がったほうが……」)
また、アンナの穏やかな声が、ミコトの意識へ滑り込む。
(電車を気にしてるのかな……?)
(ホームドアはあるけど……)
ミコトは視線を向ける。
確かに、電車が少し先のカーブから姿を見せ始めていた。
(「はーい」)
心話で返しながら、少し後ろへ下がる。
(……うん、いつものアンナだね)
胸の奥に、ふわりと安心感が広がった。
さっきまでの“静けさ”が気になっていたが、
こうして声を聴けると、いつもの距離感に戻ったようでほっとする。
(漠然と違和感に捕らわれてても仕方ない……)
(ハッキリ聞いたほうが早いな)
ミコトは軽く息を吸い、心話を送った。
(「アンナ。こっちの世界のことって、ルナティアや他の異世界にどれくらい知られてるの?」)
少し間があって──
(「あ、はい。」)
(「こちらの世界……原初の世界『アマノハラ』のことは」)
(「“物理法則に完全に支配される世界”ということ」)
(「“天の川銀河の地球が生命の故郷である”ということ」)
(「そして“地球の人類は高い科学技術を持っている”ということが伝えられています」)
アンナの声は、いつもより少しだけ慎重で、それでも柔らかく響いた。
ミコトは、その言葉を静かに受け止めた。
ホームに風が流れ、電車の音が近づいてくる。
(「それじゃあ、実情についてはあまり分かってないのかな?」)
ミコトが問いかけると、アンナの声がすぐ返ってきた。
(「はい、その通りです。」)
(「私たちは、今回の“転移勇者候補”を探す時に、ある程度の情報は収集できました」)
電車が速度を落としながら、ホームに滑り込んでくる。
(「どれぐらいの人口なのか、どれほどの技術があるのか、」)
(「どのような社会なのか──そういった大まかな情報ですね」)
ミコトは軽く頷いた。
(「なるほど」)
アンナは続ける。
(「ですが、その前は……こちらの世界の人々の暮らしを想像するのも難しかったのです」)
(「それは、他の異世界も同じだと思います」)
ミコトは横切る窓の光の揺れを見つめながら、その言葉に意識を傾ける。
(「それに……今回の情報収集も、かなり俯瞰した状態でのものでした」)
(「こうして“地上を歩く”のとは、まったく違います」)
アンナの声色は、はっきりと高揚している。
(「派生世界の存在にとって、『地球』は“聖地”なのです」)
(「ですから……こうして詳細に観られるのは、とても感慨深く感じます」)
(そっか……それで静かだったんだ)
ミコトはようやく腑に落ちたように息をついた。
電車は停まりドアが開く。
乗り込む人々は一両につき数人程度。
朝の喧騒が過ぎた後の、静かな時間帯だった。
ミコトは一歩、車内へ足を踏み入れた。
ルナティアの管理棟空間は、
いつものように“海の底”を思わせる薄暗さと静けさに包まれていた。
青い発光体が──ゆらり ゆらり──と揺れる。
いつもの大広間には、幹部たちが勢ぞろいしていた。
中央の巨大なスクリーンには──
原初の世界『アマノハラ』の『地球』、その地上を歩く映像が映し出されている。
誰も声を発しない。
ただ、食い入るように映像を見つめていた。
皆がわずかに震えている。
彼らのクリオネのような姿から発せられる光はいつもより強く、
琥珀色の灯りとなって青い発光体の光を押し返す。
彼らにとって『地球』は、伝承の中にしか存在しないはずの“聖地”──
その姿が、今こうして目の前にある。
誰もが息を潜めるようにスクリーンを見つめ続けた。
そのさらに上層──
管理者だけが入れる静謐な部屋で、フィアナも同じ映像を見つめていた。
巨大なスクリーンに映る『地球』。
その光景を前に、フィアナは言葉を失っていた。
胸の奥が、焼けるように熱い。
(……どうして……こんなに……)
フィアナの両手は、自然と胸元へと添えられていた。
手先が震えている。
肩も、呼吸も、わずかに揺れている。
幹部たちの震えとは違う。
それは“聖地への畏れ”ではなく、
もっと個人的で、もっと深い痛みだった。
地球の『日本』の映像が──胸の奥を強く焦がす。
フィアナは、もう“その頃の記憶”を思い出せない。
けれど、ただ一つの事実だけは覚えている。
自分はルナティアの管理者として生まれる前──
(私は……地球の日本で暮らしていた人間だった……)
ルナティアの時間で一万年前。
地球の時間では、わずか十年前。
──スクリーンの中で、
──風が街路樹を揺らし、
──人々が歩き、
──車が走り、
──光が街を照らしている。
心の奥が、理由も告げずに軋む。
まるで“頭ではなく魂が思い出そうとしている”ように──
しかし、フィアナは──
(……私が見ていた景色……)
(……それに……とても似ているのでしょうね……)
胸に添えた両手をぎゅっと握りしめると、
そう思って自分を納得させた。




