第106話:「転移後初日の一幕」──本来なら絶望的な敵
草や土に残る青黒いシミと、夜気のぬるい風が──
魔物の血の臭いをのせて闇の森を撫でていく。
ミコトとミカドは、戦いの後処理に追われていた。
そこら中に転がる魔物の骸──それを集めている。
ミコトは息を整え、手をかざす。
「……『浄汚』」
淡い光が広がり、小山に積んだ魔物の骸が、
毛皮や牙、魔石だけを残して静かに消えていく。
光が消えた跡には、素材だけが整然と残った。
(「ピルピルピル♪」)
(「手伝いありがと! 1体ずつ消すのが楽なんだけど……」)
(「集めてやった方が、MPを節約できるから」)
ミコトはミカドに微笑みながら、次の骸を集めに歩き出す。
(便利すぎる……ホント助かる……)
──生活スキル『浄汚』で魔物や魔族の死骸を消せる。
それはアンナが教えてくれた、このスキルの“特例”だった。
(「本来、『浄汚』は汚れや小さなゴミを除去するスキルです」)
(「ですが、魔物と魔族の死骸だけは、特別に除去できます」)
(「じゃあ、魔石とか素材を取り出して『浄汚』を使えばいいんだね」)
(「いえ、魔石を含め重要な素材は消えずに残りますので」)
(「そのまま『浄汚』で大丈夫ですよ」)
アンナの声色には、異世界の戦いに放り込まれたミコトを気遣う温度が、そっと滲んでいた。
(「おぉー! それは助かる!」)
──異世界の物語でよくある、“死骸から素材を取り出す作業”。
大きな生き物の死骸を見ることもない日本から来たミコトにとって、
それが必要ないのは、大げさではなく僥倖だった。
(敵である魔物や魔族……それと戦う人類の負担を、少しでも減らすための措置に感じるな)
(……ありがたいよ、ほんとに)
ミコトは素材を拾い上げながら、ふっと息を吐く。
(それでも、“肉”とか他のも欲しいなら解体が必要だとか……)
(それは、ミカドに頼めばやってくれそうだけど……)
ちらりとミカドの方をを見る。
素材を集めていたミカドは、すぐに視線に気づく。
座り立ちのふっくらした姿勢でミコトの方を向くと、
真っ白なお腹の毛が、ライトの光を受けてふさふさと輝いた。
(「チュ?」)
と、少し首をかしげると──
──シュバッ! ──ドフッ!
(…ぐほっ……!?)
ミカドは数メートルを一瞬で詰め、ミコトに抱き付く。
(……いや、ダメだ……)
(こんなに可愛いミカドに、死骸を引き裂かせるなんてできない……)
(ただでさえ、とどめを全部任せてるのに……)
ミカドを撫でながら、胸の奥が痛む。
しかし──
(……こんな甘い考えで……いいのか、俺……?)
血生臭い戦いが当たり前の異世界──
それは分かっている。
分かっているのに──心が追いつかない。
(……早く慣れないとな)
ミコトは小さく息を吐き、次の骸へと歩みを進めた。
ふいに、世界がゆっくりと流れ始めた。
身体の動きが急激に遅くなる──あの感覚。
(「緊急事態のため、高速思考スキルを使用しました」)
アンナの声が、静かに意識へ落ちてくる。
(「ありがとう!……で、何体?」)
(「はい、敵は1体です」)
(「そっか、1体か……ミカド、タイマンにする?」)
(「目潰シ、ヤッテ~。楽チン」)
(「りょ~」)
そのミカドの返事に、ミコトはホッとする。
(……ミカドは、戦闘狂ってわけじゃないんだ)
(好戦的なのは確かだけど……それは暴力への渇きじゃなくて……)
(ただ──魔物を倒すことに、本能的な“嬉しさ”があるんだろうね)
(だから、激しさより効率を選べるんだ)
すると──
(「戦闘モードに移行します」)
その声と同時に、ミコトの視界に“透明のウィンドウ”が重ねられた。
淡い光の中に、赤い人型のシルエットが浮かび上がる。
(「オーク1体。体長3.5メートル。片手に巨大な棍棒を所持しています」)
さらに、別のウィンドウが横に滑り込むように開いた。
そこには、オークの映像が映し出される。
(「過去に記録された参考映像を表示しました。」)
(「おぉ……助かる! ありがとう」)
ミコトは素直に感嘆した。
こういう“予習”があるだけで、戦闘の入り方がまるで違う。
(「これ……走ったらどれぐらいの速さ?」)
(「四足歩行が可能ですので、時速50㎞は出ます。」)
(「普通の人の2倍近い速度か……」)
(「武器も使えるから、ヒグマとか目じゃない危険度だね……」)
序盤で遭遇するなら、本来は絶望的な相手。
だが──ミコトも、アンナも、ミカドも、妙に落ち着いていた。
彼らが恐れるのは“個の強さ”ではなく、押し寄せる数の暴力だ。
夜気がぬるく揺れ、木々の奥で何かが軋む音がした。
暗闇の中、ミコトはゆっくりと息を整える。
──ガサリッ──ガサリッ
夜の森を踏みしめる重い足音が、徐々に近づいてくる。
(……あれ? 音が普通に聞こえる?)
高速思考中の世界では“音は低く、ゆっくり”になるはずだ。
(いや、間延びした音も同時に聞こえてる……?)
ミコトは意識をアンナへ向ける。
(「アンナ、音も補正してくれてるの?」)
(「はい。過去の戦闘記録から、音情報集を作成しました」)
(「状況と音の最初の波形から、最も近い音を選択して再生しています」)
(「すごい! 助かるよ!」)
(「はい!」)
アンナの声は、どこか誇らしげだった。
(「ですが、音の選択のために僅かにずれが生じます」)
(「音の初動が少し遅れるってことだね」)
(「でも、結局は“音の先取り”になるから、まったく問題ないよ」)
(「お役に立てて良かったです」)
ミコトはふと気になって尋ねる。
(「この音補正も……俺にだけだよね?」)
(「はい。申し訳ありません、ミコトさんにだけです」)
アンナの声色が、ほんのわずかに沈んだ。
(「ダイジョウブ!」)
そこにミカドが元気に割り込む。
(「音ハ、ユックリデモ、形ハ、同ジ」)
(「おー凄い! ミカド耳大きいもんな。音に強いんだね」)
(「ゥヒュヒュヒュ~♪」)
ミカドの嬉しそうな声に、ミコトは思わず口元を緩めた。
(……俺はアンナの補助があって何とかだけど、ミカドは高速思考スキルの申し子みたいだな)
迫り来る足音の中で、三者の心話は“それぞれの意識の中”で賑やかに響いていた。
ミコトは、いつも通りタクティカルライトの光量を落とし、光を足元へ向けて構えた。
弱い光が地面をかすめ、闇の輪郭だけをわずかに浮かび上がらせる。
その先で──
──ガサリッ
オークの巨体が、ゆっくりと姿を現す。
それは、わずかな光に照らされ、まず輪郭だけが浮かび上がった。
頭部は闇に沈んで見えない。
だが、血のように赤黒い双眸だけが、ギョロギョロとうごめいている。
ミコトはライトをほんの少しだけ上向きにした。
その瞬間──
オークの全貌が闇から引きずり出される。
全身は太く、筋肉が盛り上がった力士のような体つき。
腕は異様に長く、脚は短い。どちらも丸太のようで、重さを感じさせた。
四足歩行に移れば、人間が全力で逃げても簡単に追いつく──そんな肉体だ。
豚のように突き出た大きな鼻。
その下の口はだらしなく開き、両端には泡立った涎が糸を引いている。
口角は不気味に吊り上がり、醜悪な笑みを形作っていた。
(……まるで警戒してないようだな)
ミコトは静かに理解する。
(そうか……こっちを“小さい獲物”だと思ってるのか)
(だから、こんなに余裕なんだ)
(この“タクティカルライト”も、その辺のランタンとかだと思ってるんだろうな)
ライトの光を気にも留めず、
オークはゆっくりと──しかし確実に距離を詰めてくる。
その歩みには、“勝てる相手を前にした捕食者の余裕”があった。
オークとの距離が10メートルを切った瞬間──ミカドが巨大化を始める。
その身体が、空気を押しのけて膨張していく。
──種族スキル『質量共鳴』
目視できる動物や魔物の“質量”に、自らの質量を合わせて身体の大きさを変える能力だ。
ミカドは、いつもは“すぼめている首”をぐっと伸ばし、毛を逆立てて威圧する。
その上背は、ついにオークを見下ろすほどに達した。
いきなり自分より大きな敵が現れたことで、オークは露骨に狼狽える。
その乱れを──ミコトは逃さない。
高速思考の世界では、拾えない隙など存在しない。
ミコトは息を大きく吸い込み、叫んだ。
「オオイッ!!!」
しかし──
それは高速思考中の行動だったため、
実時間ではとても早口の甲高い“オィ!”になっていた。
それでも、オークは反射的にその方向へ顔を向けてしまう。
その甲高さは、むしろ闇の静寂に鋭く刺さっていた。
ミコトはその“目線の来る位置”を正確に狙い、ライトを構えた。
そして、両目が向いた瞬間に──最大光量へと切り替える。
闇に慣れ切ったオークの目には、それは致命的な閃光だった。
オークは悲鳴も上げられず、両目を強く閉じ、
空いている手で光を遮ろうとしながら仰け反る。
それだけで、この戦いの行方は決まった。
数秒後──
首筋に致命傷を負ったオークの骸が、静かに地へ伏していた。
予定していた穏やかな漁村ではなく、
訳あって森で夜を明かすことになったミコト一行は──
なぜか延々と魔物の襲撃を受け続けた。
倒しては襲われ、倒しては襲われる。
その繰り返しが、夜明けまで続き、
静かな森に、血を吸い込んで湿った土の感触と臭いだけが積み重なっていく。
(「……たとえ低級の魔物だとしても」)
アンナが、ぽつりと呟くように言った。
(「これだけの量を相手に、無傷で戦い抜くのは……中級冒険者でも無理ですよ」)
その声音には、驚愕ではなく、静かな事実確認のような響きがあった。




