第105話:「転移後初日の一幕」──獣型(2)
闇が深く沈む森。
湿った土の匂いと、夜気の生ぬるさが肌にまとわりつく。
大木の元で、ミコトは息を詰め──
倒れ伏したグレーファングの頭部へ、タクティカルライトを渾身の力で振り下ろした。
つもりだった──
──ポクゥ!
(……は?)
あまりにも軽い、乾いた音。
ミコトは目を瞬かせ、思わず手元を見る。
アンナが何か言いかけて──
(「……」)
そっと言葉を飲み込む。
ミカドはというと──
(「ボブッ」)
謎の声を漏らした。
(なぜ……なぜだ!)
(手加減は一切しないと誓ったのに!)
(身体が……躊躇した……?)
胸の奥がざわつく。
自分の甘さが、心の底に重く沈んでいった。
そして、どうしても気になる。
(「っていうか、ボブ? ボブって何? ミカド!」)
(「ウキュキョキュキュ♪」)
(「噴き出したんじゃないよね!? って、笑ってるやないかいー!」)
(「ヒドっ、ヒドいんじゃな〜……」)
(「ミコト、ドイテ」)
(「あっ、はい」)
ミコトは素直に横へ退いた。
ミカドが大木とミコトのあいだをすり抜けるように飛び込んでくる。
その瞬間──“もふっ”と腰に柔らかい毛並みが触れ、微かな温もりが残る。
(あれ……? 普通に通れるスペースあったよな……?)
ミコトは、その触れた所に手を当てると、
ミカドが“わざと”身体を寄せていったことに気づき、口元が緩んだ。
(かわええ〜……)
そのままミカドは、ミコトの目の前に倒れている魔獣へ覆い被さるように跳び乗る。
ミコトは思わず手を伸ばし、その背を撫でようとした。
──が、ミカドはひらりと、飛ぶように走り去ってしまった。
(……まぁ、いいか)
苦笑しながら肩を落とす。
戦いのない時、ミカドはいつもミコトにぴったり寄り添っている。
むしろ、隙あらばしがみついてくる。
その甘え方を思い出すと、ふわりと気持ちが温まる。
(ミカド可愛い……ほんと可愛いなぁ)
だが、ミカドが去った後には、まったく可愛くない光景が横たわっていた。
その骸の首元から、青い液体がとめどなく流れ出ている。
ミコトは視線をそらしながら、淡く息を吐いた。
(ゴブリンも……あの最悪のやつもそうだったし、魔族の血も同じ色らしい……)
(赤くないのが、せめてもの救いだね……)
それでも──ライトに鈍く光る青い血は、黒い土へと静かに広がり、
ミコトの胸に“ここは地球じゃない”という現実を、冷たく告げていた。
走り去ったミカドは、間髪入れず近くの一体へと躍りかかった。
それは“盾スタンガンの不意打ち”に怯み、頭を激しく振っていた個体だ。
(やっぱり……スタンガンだけで気絶させたり、完全に動きを止めたりはできないか……)
ミコトは、魔獣がもがく様子を横目で見ながら、冷静に結論を下す。
(それでも……こうして隙は作れるから、一定の効果はあるか……)
それを仕留めたミカドは、次の獲物へと視線を移す。
タクティカルライトで視界を奪われ、ふらつきながら前足で顔をかきむしっている1体──
そこへ、影のような軌跡で駆け出した。
──その時だった。
群れの後方にいた、ひときわ大きな個体が、ゆっくりと身体の向きを変え始める。
逃走のために、森の奥へ背を向けようとしていた。
(「ミコトさん、1体逃げそうです」)
アンナの静かな声が、ミコトの意識に滑り込む。
(「ありがとっ」)
ミコトの視界が、そちらへ鋭く向く。
高速思考スキルが発動している世界では、その動きがまるで水の中のように緩やかに見え、
その一挙手一投足が、くっきりと捉えられていた。
ミコトは、逃げようと身を翻すグレーファングを見据えた。
ライトを向けても──もう間に合わない。
相手の顔が、ゆっくりと横へ向き始めているのが、手に取るように分かる。
(……もう、照らしても両目に当たらない)
ミコトは短く息を吐き、“盾スタンガン”と“タクティカルライト”を足元へそっと置いた。
代わりに、別の手段へ切り替える。
(「アンナ、石を2個出して」)
(「はい!」)
次の瞬間、ミコトの手元に小さな影がふたつ、ぽん、と現れた。
ミコトはそれを迷いなく、ひょいっと両手で掴む。
この石は── 夜になる前、ミカドと二人で海岸と森の境目を歩きながら集めたものだ。
手頃な大きさの石を見つけては拾い、気づけば小山ができるほど積み上げて、
収納スキルに入れておいた。
(「ありがとう。普通は……こんなふうに小出しにできないんだよね?」)
(「はい。収納した物を個別に取り出すことは通常できません」)
(「また、取り出す位置も“足元の少し先”に限定されます」)
(「なるほど……アンナは凄いね。ほんと助かるよ」)
(「アンナ、強イ!」)
(「ありがとうございます!」)
アンナの声は、嬉しさを隠すことなく弾んでいた。
ミコトは、逃げようと身を翻した魔獣の“後ろ脚”を、
鋭く射抜くように見据えた。
その刹那、ミコトの身体が、自然に“かつての動き”を取り戻した。
振りかぶりステップして、前へ大きく踏み出すと──
重心を深く落し、胸を強く反らせる。
身体にしなりが生まれ、腕が遅れてついてくる──
力強さとしなやかさが同居した、理想的な投擲フォーム。
交通事故で身体を傷めてから十年。
封じられていた“栄光の軌跡”が、鮮やかに蘇る。
(身体は……覚えててくれたね)
──シィィィィ!
石が高速回転し、特有の淡い音を残して飛ぶ。
──ガッ!
「ギャンッ!」
狙い通り、後ろ脚の細い部分に直撃。
魔獣の悲鳴が森に短く響く。
ミコトは無駄なく動いた。
投げ終えた左手へ右手の石を素早く持ち替え、今度はセットポジションから踏み込む。
引き絞った弓のような美しいフォームから、正確無比な一投を放つ。
──ゴッ!
「ギャッ!」
二投目も正確に、後ろ脚の足首へ吸い込まれるように命中した。
夜の森に、石が骨を打つ鈍い音と、魔獣の短い悲鳴だけが残った。
リーダー格のグレーファングは負傷こそ免れたものの、
逃げ出そうとした初動を完全に潰され、足元をもつれさせていた。
そのわずかな“もたつき”が──命取りになる。
そこへ、風を裂く影が迫る。
ミカドは、すでにトップスピードに乗り、一直線に獲物へ向かっていた。
(「ミコト、強イ!」)
弾む声に、ミコトは息を整えながら微笑む。
(「ありがとう。ミカドもね」)
(「一瞬で片付けるよね~」)
(「ウヒュヒュヒュ〜♪」)
嬉しさがそのまま音になったような笑い声が返ってきて、ミコトの肩の力が少し抜けた。
(「ミコトさん、こちらでは見ることのない豪快な投げ方でした。」)
(「コントロールも素晴らしいです!」)
アンナの声は、驚きと感嘆が混ざり合い、いつもよりわずかに弾んで聞こえた。
(「ありがと!」)
(「……全力で踏み込めるって、やっぱり良いね」)
言葉にしながら、ミコトは自分の左腕を軽く振ってみる。
(コントロールは……高速思考のおかげが大きいな)
(リリースの瞬間が“ここだ!”って、はっきり分かった……)
(自分でもビックリした……)
心の奥で静かに驚きを噛みしめていると──
(「いつか、武聖の一人に名を連ねられると思います!」)
アンナが真っ直ぐな声で言ってきた。
(う〜ん……武聖……?)
(この場合、なんて聖になるんだろ……投聖…投擲聖……?)
(いや、なんかビミョいな……)
ミコトは腕を組んで、苦笑しながら心の中でつぶやいた。
しかし──
その胸中は浮き立っていなかった。
称賛は確かに嬉しい。
けれど、その裏側で別の感情が静かに沈んでいる。
(……アンナとミカドは褒めてくれたけど、スピードが全然だ……)
自分だけは分かっていた。
さっきの投擲は、コントロールこそ完璧だったが、軌道は山なり。
“当てる”ことはできても、“仕留める”には遠い。
(早く……もっとしっかり攻撃できるようにならないと……)
(ミカドに頼りきりじゃ……ダメだ……)
歯がゆさが胸の奥でじわりと広がる。
ミカドは強い。頼もしい。
けれど──それに甘えてばかりでは、この世界では生き残れない。
人類滅亡の危機に瀕した異世界ルナティア──
その過酷な現実の中で、ミコトの生来の温和さと、
“平和ボケ”とも言える日本の感覚は、確かに足を引っ張っていた。
夜の森を渡る風が、魔物の血の匂いをそっと運び、
その現実を静かに突きつけてくるようだった。




