第104話:「転移後初日の一幕」──獣型(1)
初陣の余韻が、まだ胸の奥にかすかに残っていた。
だが、その温度が消えるより早く──身体の動きが、急激に鈍くなる。
空気が粘りつくようにまとわりつき、時間だけが引き延ばされていく。
(あぁ……アレか)
ミコトがそう理解した瞬間、
意識の奥に、静かな声が滑り込んだ。
(「緊急のため、高速思考を使用しました」)
アンナの心話は、いつも通り落ち着いている。
だが、その落ち着きが逆に“ただ事ではない”と告げていた。
そして──
(やっぱり来たか)
こちらは、察するまでもなかった。
(「ミコトさん、新手です」)
(「了解! ありがとう」)
夜闇の森は、音すら呑み込まれているのかと思わせるほど、
静けさをまとっていた。
その沈黙の奥から“何か”が迫っている。
冷たい風が、ひと筋だけミコトの頬を撫でた。
闇の奥から滲み出す気配は、さっきのゴブリンとは違う。
低く、荒く、地を擦るような呼吸が混じっている。
(今度は……獣系か……?)
ミコトは眉を寄せ、喉の奥で小さく息を呑んだ。
(連戦が避けられないのは仕方ないとして……)
(せめて、少しは慣れてきた“人型”にしてくれよ……)
そんな弱音めいた思いとは裏腹に、アンナの声が静かに落ちてくる。
(「ウルフ系のグレーファング、6体です」)
(「多っ!」)
思わず心話の声が大きくなる。
その横で、ミカドが楽しげに鳴いた。
(「ピルピルピル♪」)
(「ぴるぴるぴるっじゃね〜んだよおぉぉーミカドー!!」)
(「ホントですねぇ」)
(「ゥヒュヒュヒュ~♪」)
ミカドはまったく悪びれない。
むしろ──
親に手を引かれて遊園地に来た子どものように、目を輝かせている。
ミコトは近くの大木を背に位置取り、盾スタンガンとタクティカルライトを構える。
ライトのスイッチを親指で軽く押し込み、
最初はやはり刺激しないよう、光量を最低に落とす。
(よし……来るなら来い)
ミコトの呼吸が、夜気に溶けていった。
アンナは、“透明のウィンドウ”を展開する。
それはミコトの視界をすべて覆うほどの大きさで、そこに──
赤い“五つの獣型”が合成される。
(「アンナ、ありがとう」)
ほぼ真っ暗な森の中でも、
どこにグレーファングが潜んでいるのか一目で分かる。
その隣で、ミカドがミコトより二回りほど大きくなっていた。
それは、“質量共鳴スキル”の対象が、同様の大きさであることの証明でもあった。
(「……5体?」)
(「背後に1体控えています。距離は30メートルです」)
アンナの声は落ち着いている。
その冷静さが、逆に心強い。
(「なるほど……」)
(「アンナがいれば、全部お見通しってわけだね」)
(「そして相手は、こっちが気付いてるなんて思ってもいない……」)
ミコトは胸の奥で静かに呼吸を整えた。
(「じゃあ、そっちから仕留めようか」)
(「ドウスル?」)
(「俺が横に動いて、そいつに背中を見せる」)
(「アンナ、背後の1体が動いたら教えて」)
(「承知しました!」)
(「そしたら、俺がすぐライトを向けて怯ませるから……」)
(「ワカッタ!」)
張り詰めた森の静けさの中で──
三人の心話だけは、互いの意識を澄んだ線で結んでいた。
ミコトは正面の群れにタクティカルライトの先端を向けたまま、
足元の感触を確かめるように、じりじりと横へと移動していく。
(そろそろか……?)
息を殺しながらタイミングを計っていると、アンナの声が鋭く落ちた。
(「ミコトさん、来ます!」)
(「りょ!」)
ミコトは短く返し、振り向きざまに──強光を収束させ一点へ放つ。
高速思考スキルが、視線と動きを研ぎ澄まさせる。
狙いは、ぶれない。
「ガルッ!?」
背後のグレーファングが、光をまともに浴びて悲鳴を上げる。
夜目に慣れた瞳を焼かれ、前足で顔をかきむしるようにもがいた。
その刹那──ミカドが地を蹴る。
(「ゥヒュヒュヒュ~」)
影のような軌跡を残して突進していくミカドを、ミコトの目は追わない。
結果が分かり切っているからだ。
ミカドは、今度は木の幹を使わない。
一直線に地を滑るように走り出す。
──ザザザザッ
体型に見合う敏捷さで、その加速は鋭い。
タクティカルライトの光を浴びたグレーファングは、耳を後ろへ倒し、
前足で目元を覆って必死にもがいている。
それのかなり手前で、ミカドは矢のように跳躍し、
目測通りに頭部めがけて着地する。
(「キッ!」)
同時に、前足で頭を掴んで押さえつけ──
オレンジ色の前歯が、迷いなく首元へ突き立った。
短い断末魔が、闇に吸い込まれる。
次の瞬間には、ミカドの身体はもう宙を舞い、
空中でくるりと向きを変え、ミコトの方へ戻っていった。
ミコトはタクティカルライトの光量を抑え、
広角にして正面の5体を牽制するように照らした。
淡い光が、闇の中に潜む獣たちの輪郭を浮かび上がらせる。
手前には4体が横一列に並び、
その後ろに、ひときわ大きな個体が控えていた。
(布陣が綺麗だな……あれがリーダーか?)
4体は横並びのまま、地を擦るようにジリジリと前へ進んでくる。
後方の一体は動かず、じっとこちらを観察しているようだった。
(あれから倒したいけど……4体が散って逃げるのは避けたい……)
(逃げられて、数を増やして戻ってこられたら厄介だ)
ミコトは静かに息を吐き、
光の角度を微調整して獣たちの動きを観察する。
(まずは手前の4体を確実に倒して減らす)
(奥のやつは最悪逃げても……1体なら何とかなる)
獣たちの足の運び、肩の揺れ、重心の位置。
そのすべてが、次の動きを物語っていた。
(こいつら……真ん中のが飛び掛かってくるな)
中央の2体が、わずかに前足へ重心を寄せている。
(で、俺が横に飛んで避けた瞬間、両脇のやつが飛び掛かる……)
(そういう時間差の戦法だろう)
ミコトは唇を引き結ぶ。
(真ん中の2体が同時に来るのは避けたい)
(あれを同時に捌くのは……さすがにキツい)
夜気が張りつめ、森の闇が息を潜める。
ミコトはライトを握る手に力を込め、獣たちの一挙手一投足を逃さず見据えた。
ミコトは4体のうち、左端の個体へ狙いを定めた。
タクティカルライトの光量を一気に最大まで引き上げ、
光を収束させ、鋭い線のように放つ。
──キィッ
鋭利な光の軌跡が、森の闇を斬り裂いた。
「ギャンッ!」
悲鳴が闇に弾けた。
左端のグレーファングは、顔を伏せて横へと身をよじる。
前足で必死に目元をかきむしり、視界を取り戻そうともがいていた。
──“タクティカルライト”は、視界を奪うことを目的とした高光度ライト。
夜闇に慣れた目には、その光束を見るだけで目が眩むほどだ。
(これを正面から受けたら……)
失明まではいかなくても、最低十数秒は視界が真っ白に飛ぶだろう。
そして、“影のようなハンター”がいるこの場では、
“その十数秒”は“命運が尽きること”を意味していた。
左端の1体が光に怯んだ、その瞬間だった。
残りの3体が、それを合図かのように足を速めてきた。
地面を蹴る音が、夜闇の中で低く震えた。
ミコトには、その動きがスローに見えている。
高速思考スキルが、実時間の1秒を10秒へと引き延ばす。
(真ん中……来るな)
中央のグレーファングが、飛び掛かる直前の“沈み”に入る。
肩が落ち、後ろ足に力が溜まる。
その瞬間を、ミコトは逃さない。
ライトを、狙いすました角度でかざした。
──カッ
真ん中のグレーファングは、跳躍の寸前で視界を奪われた。
「ガフッ!」
前足が空を切り、バランスを崩して地面へ倒れ込む。
(よし、これで一回仕切り直すだろ──)
そう思った矢先、
残りの2体が、ためらいなく飛び掛かってきた。
(しまった、そう来るか!)
ミコトの背筋が冷たくなる。
「キキッ!!」
左端の1体にとどめを刺していたミカドが、
思わず鋭い警戒音を放つ。
(「ミコト、首ヲ、マモレ! スグ行ク!!」)
(「お、おぅ……!」)
ミコトは反射的に顎を引き、盾スタンガンを構え直す。
飛び掛かった2体は、急な行動だったせいで連携が崩れていた。
左側の1体が、わずかに早く前へ出る。
その“ズレ”を、ミコトは見逃さない。
(ここ…前に出れば、2体を分けられる!?)
(交互に数回凌げれば、ミカドが来てくれる!)
(よし──行けっ!!)
左手の盾に右手を添え、先に飛び出した個体へ向けて、
ほとんど反射のように距離を詰める。
──大きく裂けた口、濡れた牙が光を弾き迫る。
(うわ、近っ──!)
ミコトは思わず目を背けそうになりながらも踏み込み、
体重を乗せた盾を、勢い任せに突き出した。
──ジジジッ!
盾スタンガンに飛び込んだグレーファングは、
鼻先に電撃を浴びて悲鳴を上げた。
「ギャッ!」
後方へ跳ね飛び、尻から落ちて横へ転がる。
(…っ! まっすぐ下がると、もう1体の餌食だ!)
ミコトは衝突の勢いを利用して、左後方に飛ぶ。
その直後、後から飛び掛かってきた個体の顔が、“すぐ横”にあった。
何とか避けることができたが──
(やっぱりダメだ…!)
(このままだと、着地した瞬間に飛び掛かられる…)
(覆い被されたら逃げ場がない…!)
ミコトはそちらに背を向け──
──くるりっ
と、身体を回転させる。
(回転を利用して…少しでも衝突を互角に…)
すると──
標的を外した真横のグレーファングが、
着地しようと前足を伸ばし始めるのが見えた。
(!!!)
刹那──
閃きと同時に身体が動く。
ミコトは盾を寝かせ、地面を滑らせるように、
その前足へ向けて差し込んだ。
──ガッ!
足を払われたそれは着地に失敗し、
ミコトが背にしていた大木の根元へ激突した。
(「ナイス! ミコトさん!」)
(「オー! ヤッター!」)
(「ありがと! 何とかなった!」)
ミコトは息を整えながら、高速思考での立ち回りを改めて実感する。
(出遅れても優位になれる……高速思考の強みだな!)
それは──
じゃんけんで、相手が気づけないほど素早く“後出し”できるような感覚だった。
足元に倒れたグレーファングを、ミコトは鋭く見据えた。
(ここで追撃するべきか……?)
通常なら、振り返って他の敵の動きを確認する必要がある。
だが──ミコトには、その確認がいらない。
(「アンナ、追撃したいけど、後ろの状況はどう?」)
(「はい、追撃可能です。全て怯んでいます!」)
(「ありがとう!」)
ミコトはタクティカルライトを大きく振り上げる。
(俺はもう決めたんだよ……!)
(お前たち──魔物、魔族には、決して手心を加えないと!!)
光の軌跡が、闇の中で鋭く弧を描いた。




