第98話:保険なのか厄種なのか
薄い朝光がカーテン越しに差し込み、アパートの一室は静けさに包まれていた。
ミコトが湯気が昇るマグカップを手にした瞬間、従魔ウィンドウの中でミカドが前のめりになる。
そして──
(「ミコトハ、モット、自分ノ価値ヲ、考エル!」)
その声音には、普段の無邪気さとは違う、はっきりとした“叱責”の色が混じっていた。
ミコトは座椅子に腰を落とし、苦笑を浮かべる。
(「そうだね……」)
視線を落としながら、淡々と続けた。
(「ルナティアでは、俺だけが“地球の現代文明”を知ってるわけだからさ。」)
(「現地の人には、どうしても“良いところ”しか見えないだろうし……」)
(「悪いところまで見えるのは俺だけだろうから、ちゃんと伝えていかないとね。」)
ミカドは従魔ウィンドウの中で、小さく息を吐く。
丸い体がわずかに沈み、ため息の気配が広がる。
それにミコトは気づかなかったが、アンナはその仕草をしっかり捉えていた。
ミカドが“物申した”理由が、痛いほど分かる。
──ミコトは、自分自身のことを軽視し過ぎている。
それは、アンナもずっと感じていることだった。
しかし、ミカドは、そこで黙ってはいなかった。
従魔ウィンドウの中で、ふさふさな体から“どうしても言わずにはいられない”強い気配が溢れ出す。
(「ソウイウコトヲ、言ッテルンジャ、無イジャロガイ!」)
語気が鋭く跳ね、空気が一瞬だけ張りつめた。
アンナは思わず背筋を伸ばす。
(お、おぉ……!)
期待が胸の奥で弾ける。
ミカドは、まさに言おうとしていた。
──“ミコト自身を好きで、大事に思っている者がいることに気づけ”
その旨を口にしようとした刹那──
ミコトが目を丸くした。
(「語尾が“じゃろ!”だけでも強いのに、さらに“がい!”まで盛ってくるとは……!」)
そのツッコミに、ミカドは笑い、頭をプルプル揺らす。
(「ウキュキョキョッ♪」)
従魔ウィンドウの中で、毛並みがふるふる震えていた。
ミコトは微笑みながら言う。
(「ミカドって、TVよく観てたよね。」)
(「ウンウン、TV好キダッタ」)
(「さっきの“ン~~! ミチヅレ~~!”もそうだし、“ジャロガイ!”もだけど……」)
(「TVの内容、覚えてるんだね。」)
(「覚エテル!」)
(「お笑い好きだったんだ?」)
(「ウ~ン? 楽シソウ、ダッタカラ、好キカモ?」)
(「相撲ト、ラグビー、大好キ!」)
(「おぉ、激しいやつばかり!」)
(「──でも分かるなぁ、ミカドらしい。」)
ミコトはマグカップを軽く揺らしながら、ふと遠い記憶を思い返す。
かつて暮らしていた家──
ミカド、いや当時の名前“キング”といた頃の住まいが、鮮明に脳裏に浮かぶ。
二十畳ほどの広いリビング。
壁の一つは一面すべて壁面収納になっていて、その中央に七十インチほどのTVが収まっている。
リビングの中央には“ふかふかのラグ”が敷かれ、TVに向かってコの字型のソファが置かれていた。
そのソファは、家族のだんらんの中心だった。
賑やかにTVを観たり、笑い合ったりして──
そのTVの反対側の壁には大きなラックがあり、そこにペットたちのケージが並んでいた。
キングもその一角で、十年近い日々を賑やかに過ごしていた。
ミコトの胸に、懐かしさと温かさが静かに広がる。
(そういえば、うちは“母が格闘技嫌い”で、相撲以外はほとんど観てなかったんだよな……)
(観てたら、ミカドは絶対ハマってただろうな。)
そんな二人のやり取りを聞きながら、アンナが控えめに声を挟む。
(「あの……?」)
(「ミカドさん、何か言おうとしてませんでした?」)
アンナは、ミカドがミコトに“物申す”続きを言ってほしい様子だった。
しかし──
(「あ、そういえば……?」)
(「ナンダッタッケ?」)
(「えぇ……?」)
アンナはしゅんとした。
それでも、ミコトとミカドが楽しげに笑い合う姿を見て、アンナの胸には静かな安心が広がった。
(この二人なら、きっとミコトさんは、いつか自分を大事にする。)
そんな確信が、そっと芽生えていた。
ミコトは座椅子の背にもたれながら、ふと思い出したように言った。
(「でも、ミカドも“道連れ計画”に同意してたじゃん?」)
従魔ウィンドウの中で、ミカドが胸を張る。
(「ヤルナラ、付キ合ウヨ」)
ミコトが大げさに身をのけぞらせる。
(「ぬぉ! 漢やー! 惚れてまうやろ~!」)
アンナも思わず同意する。
(「ホントですね~」)
(「ね~」)
ミカドは照れ笑いし、前足をちょこんと前に出した。
(「ウヒュヒュヒュ~♪」)
そして──
(「ウェ~ィ」)
すると、ミコトはすぐに乗った。
(「うぇ~ぃ」)
だが、アンナはすぐに意図が呑み込めない。
(「??」)
するとミカドがもう一度、前足を少し突き出す。
(「アンナ、ウェ~ィ」)
(「え? は、はい……」)
アンナは、ルナティア管理棟空間の“案内人スキル室”でふらりと漂った。
それでも意を決して、両手を小さく前に出す。
(「うぇ~ぃ……?」)
すぐに二人が合わせる。
(「ウェ~ィ」)
(「うぇ~ぃ」)
アンナの頬が熱くなる。
恥ずかしさで身がぎゅっと縮むのに、同時に、胸の奥がふわりと温かくなる。
──“一体感”
そんな言葉が自然に浮かんだ。
ふと意識を向けると、すぐ傍らに控えていた二体の部下も、先が丸っこい手を小さく前に出していた。
アンナの胸に、今までにない明るさが灯る。
こんな“くだけた掛け合い”の輪の中に、自分が入る日が来るなんて──
アンナは、まったく考えたことすらなかった。
ふと、笑い合う空気の隙間で、ミコトの思考が沈んだ。
誰にも気づかれないまま、胸の奥で自問が始まる。
自分が魔王と道連れになる──
それは、合理的な計画だった。
…誰も巻き込まない。
…誰も傷つけない。
…最も効率的で、最も確実な方法。
……なのに。
他の誰かを魔王と道連れにさせる──
その発想は、考えるだけで背筋が冷えるほどおぞましい。
(???)
ミコトの思考が一瞬、空白になる。
(俺、なに考えてたんだ……?)
(なんで名案だと思ってたんだろう……?)
ミコトは静かに息を吐いた。
それでもミコトは、性懲りもなく──
(準備は、するだけしておこう。)
(最後の最後の手段として。)
(それを“保険”と位置づければ、安心して入念な準備ができる。)
その発想は、一見すると理にかなっていた。
“保険がある”というだけで、心の余裕が生まれ、冷静に判断できる。
合理的な選択肢のひとつに見える。
だが──
“準備がある”という事実は、本来なら戦略的撤退一択になるような状況でも、“使えるかもしれない”という選択肢を生み出してしまう。
選択肢があるならば、人は踏み込まなくていい場所へ向かおうとしてしまう。
ミコトたちがルナティアに転移してしばらくしたのち、自領の被害を抑えるために、自爆ではなくとも“決死の爆破計画”を検討せざるを得ない重大な事態に直面する。
この準備は“保険”なのか──
それとも静かに芽を育てる“厄種”なのか──
未来のみぞ知ることだった。




