エピローグ
人が希望を持つのは、なぜだろう。明日になったら違う世界が見えると信じることで何かが救われるからだろうか。明日になったら何が変わるのだろうか。それは、明日を生きる人間にしかわからない。今日を生きる人間に明日のことなんて知ったこっちゃない。頭の中はそんなことでいっぱいになる。今を楽しもうと思うのに、それと同等の苦しみに悩まされて、楽しめない。そんな日を過ごす日常がこの世界には転がっていたりする。ームクゲー
俺は、明日も今日と同じことを思っているのだろうか。心の奥底に感じているこの例えようのないこの苦しみと痛みは、明日も変わらずやって来てしまう。来ないでくれと願い続けても、来てしまうこの現実に脅かされて、絶望が日に日に募ってしまう。こんな自分がいやになってしまうけれどどうすることも出来なくて、みっともなくて、どうせなら死んでしまえば良いのに、それが出来ない自分が惨めで、アホらしくて、悲しい。ひとりで対峙するにはとても大きすぎるこの果てしない空のように、対抗をしても負けが決まっているようなモノに、勝手に戦っているこの自分が惨めだ。
人が希望を持つのは、なぜだろう。明日になったら違う世界が見えると信じることで何かが救われるからだろうか。明日になったら何が変わるのだろうか。それは、明日を生きる人間にしかわからない。今日を生きる人間に明日のことなんて知ったこっちゃないんだ。俺の頭の中はそんなことでいっぱいになる。今を楽しもうと思うのに、それと同等の苦しみに悩まされて、楽しめない。
犯罪者の子どもというレッテルを貼られ続けてもう数年。名前をいうとすぐ悟られる。「喜納塚狭」(きなつかさ)という名前だ。この名前は珍しくてすぐばれる。俺の名前は、「喜納塚狭 隆」。(きなつかさ りゅう)幼い頃は、きなりゅうと呼ばれていた。例え犯罪者の息子であっても、友達として迎え入れてくれる友人もいる。恩師だっている。だけど、それでも普通に歓迎してくれる人間よりも欺いて、嫌って、貶して、近づいてくるなオーラを放って、穢らわしいという目で見てくる人間のほうが多くて、生きていくのが嫌になる。
昔、4月あたりの涼しい時期に死のうとして自殺の名地に行ったけど、そこで会った誰かが言った。「私みたいに病気で車イス生活になって1人で生活もできなくて、余命宣告されている人間と会っても、まだ死にたいってあなたは言うの?」そう言ってきたことがある。だけど、それでも、それ以上に死にたいと感じるのは罪なのか?ますます生きるということがわからなくなった。生きていたら親と同じように罪を犯してしまうかもしれない。親の血が流れているということはそういうことだろ。どこか遠くに、誰も俺のことを知らない場所に行きたい。海外もだめなんだ。両親は無差別殺人テロ組織のメンバーだった。海外にも報道が流れ、俺の名前も顔写真だって流出してる。おまけに名前も珍しいんだから、逃げるとこなんてないよなあ。あーあ、こんな人生なんなら生まれて来なければ良かったのになあ。生まれてこなければ、こんな思いすることなかったのに。
皆様の今日が素敵な1日となりますように。