9
*
そうして、まさにその日締結されようとしていた売買契約は、エリクの介入により、すんでのところで止められた。
やはりそれは、詐欺に近い案件だったらしい。
仲介業者を名乗る男を追い返したエリクは、破棄させたばかりの契約書を改めて読み返して、深いため息こぼした。
「……本当に、馬鹿じゃないですか」
倒れるように長椅子に腰を下ろし、契約書を卓上に投げだす。
商談中、突然訪れた妹夫婦に驚き立ち上がったままだったカインが、複雑そうに口を開いた。
「……良い話だと思ったんだ、説明も丁寧で熱心で、資料も山ほど見せてくれたし、損はないと」
「損だらけですよ。 こんな不毛な土地を買ってどうするつもりだったんですか」
カインの言い訳を遮って、エリクが下から睨みあげる。
ジュヌフィーユはそんな二人を窺いながら、卓上の契約書を覗き見た。そこには聞いたことのない地名と、払えなくはないが少なくはない金額が記されていた。その真下にある書きかけの兄の署名に、寒いものが走る。
エリクが、「良いですか」と教師のように話を切り出した。
「確かに、この金額でこの広さの土地を手に入れるのは一見得に思われるかもしれません。 ですが実際、この土地へ足を運んでみてください。 どれだけ無謀なことをなさろうとしていたか、嫌でもわかりますから」
聞けば、エリクも過去に一度、この場所を訪れたことがあるのだという。
新しい果樹園を作るための土地を探していたのだそうだが、その場所は年間を通して降雨量が少なく、乾いた土壌にはこぶし大の岩まで転がっていたそうで、すぐに計画を断念したらしい。収益を見込むにはあまりにリスクが高すぎると。
「そんな……」
ようやく騙されようとしていたことを実感したのか、カインが、愕然と呟く。
構わずエリクは続けた。
「それと、架空の慈善団体に寄付もなされたそうですね。 ご苦労なことです」
青ざめたカインが、掠れた声をあげる。
「どうしてそれを」
「アルバが心配してジュヌフィーユに教えてくれたんですよ。 全く次から次に……どうやったらそんなに騙されるんですか」
エリクは、婚姻当初から出資先であるビヌジュエーブの動向を探っていたらしい。
結構な額を提供したにも関わらず、一向に風向きが良くならないのをずっと気にかけていたそうだ。
そうして今日、案の定、というわけである。
「とにかくこのままにはしておけません。 詳しく状況を教えてください」
呆れたように言ったエリクは、義兄を見据え、財政状況の開示を要求した。
「慈善団体とやらのことは通報して、必ず寄付金は返してもらいましょう。 それから財政の建て直しを──」
一刻も早くと急くエリクに、しかしカインは「いや」と首を横に振った。
「忠告は有り難かった。 でもこれは僕の失態だ。 あとは僕ひとりでどうにかする」
「……」
「兄様」
思わず不安気な声をあげてしまったジュヌフィーユを、カインは悲しそうに見つめた。
「……お前にもアルバにも心配をかけていたんだな。 頼りない兄様で、すまない」
心臓が、ずきりと痛む。
兄は、最後までこの結婚を反対していた。
今もきっと、自分のせいだとでも思い込んでいるのだろう。
式前夜のカインの取り乱しようを思い返し、ジュヌフィーユは俯き、震える唇を引き結んだ。
『行かないでくれジュヌフィーユ。 僕がなんとかするから』
カインはそう言って最後まで引き留めようとしてくれた。けれどジュヌフィーユはその手を離してしまった。大丈夫だからと。
あの時自分は、兄の自尊心を傷つけてしまったのだろう。
そんなつもりはなかったとしても、兄は、自分を責めたに違いなかった。
カインはこれまでも何人もの人間に良いように騙され、搾取されてきた。
強欲で横暴だった父が間近にいた反動か──その醜い姿を嫌悪し、あんな大人にだけはなりたくないと、カインは、誠実であろうとした──その結果が、これだった。
人を信じて疑わず、奪うより与える道を選んだ兄は、社交界では無能と評され、悪徳な商人からはカモにされ、そうしてビヌジュエーブ家は転落の一途を辿ってしまった。
それでもジュヌフィーユは、穏やかでやさしく凡庸な兄が好きだった。
恨むことなど、嫌いになることなど出来るわけがないのだ。
「兄様」
カインは肩を落としたまま、妹から視線を逸らした。
「……もうお帰り。 僕は大丈夫だから」
ジュヌフィーユはかぶりを振って、大好きな兄を見上げた。
兄を助けたい。
けれどこんな時、どうすればいいのだろう。
昨年、父が亡くなるまで生活の全てを管理されてきたジュヌフィーユには、財政のことがよくわからない。娘を政略の駒としか思っていなかった父は、ジュヌフィーユが知識を得ることを嫌がり、世相から遠ざけた。父が亡くなり、徐々に勉強を進めてはいるけれどただの箱入り娘だったジュヌフィーユに妙案など思いつくはずもなかった。
と、見るに見かねたらしいエリクが低い声をあげた。
「そう警戒されずとも、悪いようにはしませんよ。 僕だって損はしたくありませんから。 それに」
言って、長椅子から立ち上がり、カインの正面に立つ。
「仮にも妻の実家の危機です。 放置したとなれば、僕の心証も悪くなってしまう。 これは僕の仕事でもあるんですよ」
「……」
妻、という言葉が気に障ったのだろう。カインは、苦渋に顔を歪ませた。
ジュヌフィーユは慌てて兄の前に出て、その手をとる。
「兄様、私は大丈夫よ。 ひどいことなんて何もされていないし、きっとそのうち戻ってくるわ。 だから、今回はエリクに頼りましょう?」
ジュヌフィーユは安心させるように笑顔を浮かべて、泣き出しそうになっている兄の頬に手を添える。兄妹揃って、涙脆いのだ。
「ジュヌフィーユ……」
「エリクは事業にも成功しているし、こんなことも慣れっこのはずよ」
エリクが背後で「慣れてはない」と舌打ちをした。聞こえなかったふりをして、ジュヌフィーユは兄の手を強く握りしめる。
「お願い、兄様」
カインが強く両目を瞑れば、熱い涙が頬を伝い落ちる。ジュヌフィーユは兄を慰めながら、夫を振り返った。不機嫌そうにしながらも、エリクはカインの涙が止まるのを待っていてくれた。
「君も馬鹿だな」
帰りの馬車の中で、エリクがぼやいた。
ジュヌフィーユは預かった権利書の束から顔をあげ、向かいに座る夫を見つめる。
「簡単に僕の言うことを聞いて、情報を渡して。 僕が君たちを騙す可能性を考えなかったのか」
言われて、ジュヌフィーユは瞬きをした。
そうか。言われてみれば、その可能性は十分にあった。
「……何にも思わなかったわ」
ジュヌフィーユは困ったように息を吐いた。
自嘲が溢れる。きっとカインも、こうして騙されたのだろう。
やはり、自分と兄は血が繋がっているらしい。
「でも、他に打つ手もなかったもの」
ジュヌフィーユは諦めたように言って、書類を膝の上に整えた。
それに。
口には出さなかったけれど、エリクは裏切らないだろうと、どこかで確信していた。そう思いたかっただけなのかもしれないが。
「……本当に、馬鹿だ」
エリクは変わらず冷めた目でジュヌフィーユを見つめてくる。しかしジュヌフィーユは不思議とそれを怖いとは思わなくなっていた。
ありがとう、と小さく微笑めば、不可解そうに眉を顰められる。
なんだかおかしくて、悲しかった。