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それは、いつか見た夢の  作者: koma
揺れる心
8/16


 ***


 夜会が終わったその夜、ジュヌフィーユは夫からきつく咎められてしまった。不必要に男性に近づくなと──特に、フランツとは。

 

「結婚早々、妙な噂を立てられでもしたらどうするんだ」


 ふたりきりの寝室で苦々しく言葉を吐き捨てたエリクに、ジュヌフィーユは眉を寄せて俯く。

 

「御免なさい……」


 そうなった経緯は歪であれど、仮にもジュヌフィーユはエリクの妻だった。

 だから、役には立てなくても、せめて失礼のないように精一杯動いたつもりだった。客人から話しかけられる度、にこやかに応対したし、食事やワインを勧めることも出来た。今夜は大きな失敗もなく終えられたとほっとしていたけれど──それがかえって不貞を疑われかねない行為になるとまでは、気が回らなかった。


 ジュヌフィーユは自身の行いを省みて、唇を噛み締める。


 醜聞は、一瞬にして広まる。

 ほんの僅かな時間でも異性とふたりきりになれば、人々は面白がって話を盛り立てるだろう。さらにそれが話題の人物とくれば、その拡散力は計り知れない。


 娶ったばかりの妻が早速浮気をしているとなれば、そしてその相手が夫の友人だったとしたら、エリクが、どれ程恥をかくか。

 せっかくの美談も台無しになってしまう。


 ──エリクが怒るのも無理はないわ。


 ああ、どうして私はこんなにダメなのだろう。

 だから父親にも愛想を尽かされたのだ。

 ジュヌフィーユは己の愚鈍さにまた泣きだしそうになってしまった。

 唇が震え、喉が詰まり、せり上がってくるものをなんとか堪える。

 耐えると決めた。

 エリクの前で、被害者ぶるような真似だけはしてはいけない。

 ジュヌフィーユは必死に自分に言い聞かせる。


「……次からはもっと気をつけるわ。 本当に、御免なさい」


 締まる喉からなんとか絞り出した声は、情けないほどに小さくなってしまった。

 エリクが、忌々しそうに眉を寄せる。

 

「……そうしてくれ」


 それ以上一緒にいることが限界だったのか、エリクは苛立ちを隠しもせず足早に浴室へと姿を消した。


 ダメ。悲観している場合じゃないわ。


 ジュヌフィーユはとうとう流れてしまった涙を手の甲でぬぐうと、鼻を啜りながら、自室に戻る。そして今夜覚えた人々のことを紙に記しはじめた。

 エリクの評判を貶めるようなことだけはしたくない。

 ジュヌフィーユはその夜、明け方近くまで机に向かった。



 *



 それから数日経ったある日のこと。


「旦那様がお呼びです」


 そう告げた老齢の執事に連れられ、ジュヌフィーユはまだ足を踏み入れたことのない、夫の書斎の前に立たされた。

 屋敷の奥まった位置にあるその部屋はエリクの仕事部屋とされていて、だからジュヌフィーユはあえて近づかないようにしていた。間違ってすれ違いでもして、多忙な彼の気分を害したくなかったからだ。


 けれど今日は、その部屋の主に呼び出されてしまった。

 いったい、なんの用だろう。

 ジュヌフィーユは身構えながら、ピンと伸ばされた執事の背中を見つめる。


「奥様をお連れ致しました」


 執事の呼びかけに、重厚な扉の向こうから短い声が返ってくる。


「入れ」


 主人の了承を得た執事が、両開きの扉を開けてジュヌフィーユに入室を促した。ジュヌフィーユは「失礼致します」と断ってから、その広い部屋に足を踏み入れる。と、執事は一礼して、廊下から扉を閉めてしまった。


「……」


 いて欲しかったのに……


 思いがけずエリクとふたりきりにされたジュヌフィーユは、それ以上足を進めることが出来ずに、その場に立ち竦んでしまった。本棚やチェスト、壁紙に至るまで茶系統で整えられたエリクの書斎は、静謐な雰囲気を醸し出している。


「……お呼びでしょうか」


 扉近くに立ったまま、おずおずと言ったジュヌフィーユに、奥の執務机に座るエリクが今日も険しく眉を寄せた。

 ややあってジュヌフィーユに白い封筒を差し出す。


「君宛だ」

「え?」

「手紙」

「……手紙?」


 ジュヌフィーユは訝しみながらもエリクのそばへ寄り、差し出された封筒を受け取った。


「まあ」


 差出人の名を見て、思わず感嘆の声が漏れる。

 侍女のアルバからだった。

 懐かしい筆跡に、結婚してから彼女とはまだなんの連絡も取れていなかったことを思い出す。落ち着いたら近況を報告しようと思っていたのに、日夜の緊張で忘れてしまっていた。


 アルバは、元気にしているだろうか。

 両の目を細めて封筒を見つめる妻に、エリクは確認するように言った。


「アルバは、確か君の侍女だったな」

「ええ、そうよ」


 アルバは、ジュヌフィーユが幼い頃から仕えてくれた姉のような存在だった。

 すぐに泣きべそをかくジュヌフィーユをいつも励まし、厳しい父からも庇ってくれた心やさしい穏やかな女性で、ビヌジュエーブ家が落ちぶれてからも「他にいくところもありませんから」と少ない給金で共に貧困に耐えてくれた、大切な恩人でもあった。


 過去には、エリクとの面識もある。

 幼いエリクはアルバにも「僕たちは結婚するんだ」と自慢していた。

 それをアルバは、微笑ましそうに見つめてくれたものだった。


 ジュヌフィーユは、手紙を握りしめて笑みをこぼす。

 エリクの前だということも気にならないくらいに嬉しかった。


「ありがとう、エリク」


 紅茶でも淹れて、部屋でゆっくり読もう。

 と、踵を返したジュヌフィーユの背に、エリクの低い声がかかる。


「悪いが、ここで開封してくれ」


 振り返ったジュヌフィーユに、エリクが銀のペーパーナイフを差し出す。

 ジュヌフィーユは、知らず眉を寄せてしまっていた。


「……どうして?」

「信用出来ないからだ」


 きっぱりと言われて、ジュヌフィーユは硬直する。

 構わずエリクは執務椅子から立ち上がると、幅広の机を回ってジュヌフィーユのそばに立った。氷色の瞳が、強張るジュヌフィーユを冷淡に映しだす。


「その侍女と君が結託して、僕の財産を狙っていないとも限らないだろ──いや、兄君の差金という可能性もあるな。 土地の権利書を探せとか、金目の物を持ち出せとか、そんなことが書いてあるんじゃないのか」

「……そんなわけ、ないわ」

「それを確認するんだ。 嫌なら、返してもらう」


 ジュヌフィーユは守るように手紙を握りしめた。


「これは、私宛のものよ」

「で、また裏切るのか?」


 淡々と返され、ジュヌフィーユはきつく眉を寄せる。

 前科があるが故に、エリクはジュヌフィーユとその一族を一切信用していない。

 彼は、同じ相手に二度も騙されるほど間抜けでもお人好しでもないのだろう。それは、わかる。わかるけれど──やりきれなかった。


 どうしたら、いつになったら許して貰えるのだろう。


 ジュヌフィーユは心の折り合いを探し、潔白を証明するためにはそうするほかないのだろうと、結局はエリクの要求を呑むことにした。


「……分かったわ。 ここで読みます」


 言って、夫の手からナイフを受け取る。そばに冷たい視線を感じながら封を切り、中に入っている二枚の便箋を取り出した。ひどく惨めな気分だった──と。しかし。


「終わったら見せてくれ」


 エリクはすっとジュヌフィーユから離れると、部屋の中央に据えられた応接用の長椅子に腰を下ろした。

 どうやら最初の一読は、ジュヌフィーユに委ねてくれるらしい。

 ジュヌフィーユは意外に思いながらも、彼の根底にあるやさしさに触れたような気がして、不意に苦しくなった。


 そうだ。

 エリクはもともと、そういう人だった。

 やさしくて、相手を思いやることの出来る人。

 だからジュヌフィーユは幼い頃彼に惹かれ、恋をした。

 多分、きっと、今だって。


「君も座ったらいい」


 言いながらエリクが顔を横に向けて、窓の外を眺める。

 ジュヌフィーユが手紙を読みやすくする為だろう。  


「……ありがとう」


 ジュヌフィーユはそっと礼を言って、手前の長椅子に腰を下ろした。

 そうして二つに折り畳まれていた便箋を開く。

 文面は「親愛なるお嬢様」から始まっていた。


 離れて間もない実家の、兄の近況を知ることができる。ジュヌフィーユは一文一文を丁寧にじっくりと読み始めた──がしかし、すぐにそんな悠長なことは出来なくなってしまった。


「……え」


 思わずこぼれた声に、エリクが顔を戻す。


「どうした?」


 ジュヌフィーユに、答える余裕はなかった。追い立てられるように一枚目を読み終え、すぐに二枚目に目を走らせる。心臓が早鐘を打ち、ただでさえ白い顔は血の気を失い青ざめていった。

 堪えられなくなったエリクが、向かいの長椅子から身を乗り出し、「貸せ」と奪うようにジュヌフィーユの手から手紙を抜き取る。すぐに文面を読み終え、忌々しそうに舌打ちをした。


「こんなことじゃないかとは思っていたが……君の兄君は、どこまでも愚かだな」


 馬鹿じゃないのか、と零したエリクは手紙を握りしめたまま執務机に戻り、卓上の呼び鈴を鳴らした。


「ああ、兄様……また、お金を」


 どうしよう。


「御免なさい、エリク」


 ジュヌフィーユはおろおろと両手を握りしめて、縋るように夫を見上げた。

 せっかくエリクから出資してもらったばかりだと言うのに、カインはその半分を、ありもしない慈善団体に寄付してしまったのだという。そして残りの半分で今、とある田舎の土地を買おうとしているらしい。

 アルバは自分では土地のことはよく分からないけれど、不安で仕方がないのだと、止めるべきなのだろうかと思い悩んでいた。その葛藤が二枚分の便箋いっぱいに綴られている。

 つまり、実家の状況は今も良くはなっていないのだ。


「私、兄様と話してきます。 一度実家に戻らせてください」


 狼狽え、立ち上がったジュヌフィーユに、エリクは「落ち着け」と冷静に返した。


「君ひとりで行ってもなにもわからないだろ。 僕も行く」

「でも、お仕事が」

「兄君と一緒にしないでくれ。 留守を任せられる部下くらい幾らでもいる」


 エリクが言い切った瞬間、扉をノックする音が響く。

 入室を許可され現れたのは、先程の執事だった。

 エリクに馬車を手配を命じられた執事は即座に請け負って、部屋を出ていく。


 エリクは机上に散らばった書類を手早く片付けつつ、ジュヌフィーユに目配せした。


「何してる。 君も早く支度を」

「……え、ええ」


 ジュヌフィーユは慌てて書斎を後にし、自室に戻った。

   


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