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 ──それはまさしく、針の筵に座らされたような生活だった。



「いってらっしゃいませ、旦那様」


 外出するエリクの背に、その朝もジュヌフィーユは声をかけた。


 が、彼はやはり冷たい一瞥をくれただけで、何事もなかったかのように屋敷を出て行ってしまう。同じく見送りに出ていた召使い達は、気まずそうに若い女主人から視線を逸らすと「仕事仕事」とぼやきながらそれぞれの持ち場へ散っていく。


 ジュヌフィーユは立ち尽くしたまま、腹の前で組んだ指を爪の先が白くなるほど強く握りしめて、閉じられた冷たい扉を見つめた。



 ハルグリード家に嫁いで一ヶ月。

 エリクは宣言通り、ジュヌフィーユを「絶対に幸せにしない」でいた。



 暴力はない。

 酷い言葉で罵られることも、食事を抜かれたりすることも、醜悪な環境下に置かれるようなこともなかった。夜の生活も、今のところ望まれてはいない。

 茶会やパーティーへの同席は強要されているけれど、それだって貴族の妻としては当然の義務で──つまりジュヌフィーユは、想定していたよりもずっとマシな生活を許されていた。

 

 けれどそれは決して「幸福」とは呼べなかった。


 生活の、態度の、言葉の端々から、エリクがジュヌフィーユを心底嫌っていることがひしひし伝わってきたからだ。

 会話は義務的なものばかり。

 雑談はなく、視線は一切合わされず、合ったところで冷たく睨み返されるか不快そうに逸らされるのかのどちらかだった。

 ジュヌフィーユが、目障りで仕方がないのだろう。

 でも、これは彼の望んだ条件だ。

 この愛のない結婚でジュヌフィーユが苦しむことこそが、彼の復讐の形だった。

 その怒りが溶けるまで、耐えるしかない。


 ジュヌフィーユは挫けそうになる心を叱りつけると、気を抜くとすぐに溜まってしまう涙をぬぐった。

 兄も今頃、家を建て直すため一人頑張っているはずだ。

 悲観している場合ではないと、ジュヌフィーユは前を向く。


 エリクが帰ってくるまでに、彼が今度主催する夜会の、招待客リストを見直しておこうと思った。

 人の顔と名前を覚えるのが極端に遅いジュヌフィーユは、社交の場でしどろもどろになることが多々あった。その度につっかえてしまい、この一ヶ月、何度も冷や汗をかく羽目になったのだ。これ以上エリクの不興を買うわけにはいかない。


 ジュヌフィーユは自室に戻ると、早速リストを読み返した。

 いくつもの農場を経営しているエリクの交友関係は広い。

 リストには貴族に商人、果ては異国人までありとあらゆる名前が記されていた。

 会ったこともある御仁もいれば、名前には見覚えがあるものの、面識があるかどうか定かでない人物も多くいた。

 今まで社交を避けてきた、その皺寄せだった。


 ジュヌフィーユはリストを別の白い紙に書き写しながら、一人一人、特徴や職業を書き連ねていった。

 こうなったら、反復で覚えるしかないと思ったのだ。


 いつかは離縁される身。


 けれどそれまではエリクの力にならなければ。


 ジュヌフィーユは、その日エリクの帰宅が知らされる時間まで自室に篭り、作業に没頭した。



 


 そうして迎えた夜会の日。

 次々に到着する客人を前に、ジュヌフィーユは影に隠れたくなっていた。

 ハルグリード家を甘く見すぎていたかもしれない──招待客は、前日、前々日と増えていき、結局すべてを網羅することが出来なかったのだ。


 と、恰幅の良い紳士が、エリクに声をかけてくる。


「今宵はお招きくださりありがとうございます。伯爵」

「ええ。どうぞ楽しんで行かれてください」

「ところで、今夜はカードは?」

「用意してありますよ」


 にこやかに応対するエリクの隣で、ジュヌフィーユもなんとか笑顔を浮かべ続ける。

 昨夜も遅くまで確認はしていたつもりだったが、昨日今日で数十名分の名と職業と身分を覚えられるはずもなかった。

 せめて失礼のないようにと、背筋を伸ばし、挨拶を続ける。


 と、到着したばかりの客人が、またエリクの前に立った。


「こんばんは、エリク様」


 その高音の可愛らしい声の持ち主には、見覚えがあった。


「こんばんはアネット」


 そう言って微笑んだエリクの態度は、他の客人に対するそれよりいくぶん柔らかい気がした。

 きっと親しい間柄なのだろう。

 母親と思しき女性と連れ立ったその令嬢は、あの晩餐の夜、エリクがエスコートをしていた娘だった。

 艶やかな紅い髪を、今夜は丁寧に編み込んで、金細工の飾りで留めていた。相変わらずの美人だった。


「紹介するよアネット。 妻のジュヌフィーユだ。 ジュヌフィーユ、こちらはフィーマン男爵の御令嬢のアネット」


 エリクに促され、ジュヌフィーユは慌てて笑顔を取り繕う。

 

「はじめまして、アネットさん。 ゆっくりしてらしてくださいね」


 アネットはわずかに首を傾げながら、小さな唇を開く。


「ええ。 楽しませていただきますわ。 でも一つ修正させていただいてもよろしい? 奥様」


 ジュヌフィーユが口を挟む間も無く、アネットは哀れむように眉尻を下げて囁いた。


「私たち、はじめましてじゃないんですよ? 先日、王弟陛下の晩餐会でお会いしていますわ。 ご挨拶は出来ませんでしたけれど、ちょっと失礼なんじゃ」  

「アネット」


 エリクがたしなめるよう声をあげる。


「あの時は一瞬だったろう。 妻を虐めないでくれ」

「あら私、虐めてなんか」

「君の悪いところだよ。 さあ、会場にお行き。 君の好きなプディングがあるよ」


 アネットは渋々と言った様子でエリクの元を去る。

 ジュヌフィーユは蒼白になりながら、エリクに言った。


「ごめんなさい。 覚えていないわけじゃなかったの。 ただ、つい」

「いいよ。 次からは気をつけてくれれば」


 アネットに対するものとは打って変わった冷淡な声に、ジュヌフィーユは視線を下げてしまいそうになる。


「下を見るな。 君の悪評が立って困るのは僕なんだ」


 厳しく言われて、ジュヌフィーユは顔をあげる。


「……ごめんなさい」  


 そうこうしているうちにも新たな来訪が告げられた。

 ジュヌフィーユは懸命に顔を上げて笑顔を浮かべる。


 貴族の間でエリクは今、困窮するビヌジュエーブ家に手を差し伸べた、心やさしい青年と評されていた。

 哀れな兄妹を救った、感心な若者だと。


 ──かつてハルグリードとビヌジュエーブの間に起こった不和を知るものは少ない。ビヌジュエーブ家が奪いとった財力と権力で、真実を巧みに打ち消したためだ。

 

 奈落の底に叩き落とされ、そこからエリクは自力で這い上がった。

 そうして今、圧倒的な力の差を以て、ジュヌフィーユの人生を奪うつもりでいる。

    

「ほら、ジュヌフィーユ。 彼は覚えているだろう」


 突然姿勢を低くしたエリクに耳元で囁かれ、ジュヌフィーユはびくりと肩を震わせた。

 エリクはジュヌフィーユの怖がりようを嗤いながら、視線を正面から近づいてくる男へと投げる。


「フランツだ」


 フランツ──。

 ジュヌフィーユは弾かれたように顔を上げた。

 あの晩餐でワインを飲みすぎたジュヌフィーユに、水をくれた親切な男性だ。

 エリクを見つけたフランツが、軽く片手をあげる。


「やあ、エリク。 今夜は誘ってくれてありがとう」

「君の好きな酒をたっぷり用意しているよ。 楽しんでいってくれ」

「もちろんだ」


 爽やかに笑ったフランツはエリクと握手を交わすと、笑顔のままジュヌフィーユを向いた。


「ご無沙汰しております。 ジュヌフィーユ様」

「……こんばんは。 あの、先日はありがとうございました」


 改めて礼を述べたジュヌフィーユに、フランツは軽く首を振る。


「大したことはしていません。 でも、今夜は飲みすぎないように気をつけてくださいね。まあ、しっかり者の旦那さんがついているから、大丈夫でしょうが」


 言ったフランツは、ジュヌフィーユとエリクを交互に見やる。


「結婚なされたのですよね──おめでとうエリク」

「ああ、ありがとう」

「式に参列出来なくて悪かった。 急だったから驚いたよ」

「他の奴にも散々言われた」


 エリクが、面倒そうに、けれど砕けた調子で笑う。

 ジュヌフィーユには向けられることのない親愛を、エリクは他者には惜しみなく振る舞う。


 ここ一ヶ月で分かったことだが、エリクはその人脈もさることながら、友人も随分多いようだった。

 だからこそのこの繁栄なのかもしれない。


 エリクは、人付き合いを大切にしていた。

 毎日誰かしらと会い、遠方の領地に足を運ぶことも厭わず、領民の懸念にも真剣に耳を傾ける。

 彼に同行する度、ジュヌフィーユは彼が社交界で持て囃されているワケを理解した。

 約束を決して破らず、どんな些細な相談もないがしろにしない。

 その誠実さに、人々は惹かれていた。


 ジュヌフィーユの父とは、正反対だった。

 

「じゃあ、また後で」

「ああ」


 手を振って別れたふたりを見つめながら、ジュヌフィーユはそっとエリクに尋ねてみた。


「……親しいのね」


 ちらとこちらを見たエリクは、いつもの冷淡な表情に戻っている。


「寄宿学校が一緒だったんだ」


 そうなのか。

 ジュヌフィーユは、珍しくエリクが応えてくれたことを嬉しく思ってしまいながら、緩みそうになる口元を必死に引き締める。


「……そんなに、あいつに会えて嬉しいのか?」

「え?」


 エリクは言って、正面を向く。

 

「残念だったな。 君の夫は僕だ」


 言ったエリクは、ジュヌフィーユがフランツに好意を持っていると勘違いしているようだった。そうして、ジュヌフィーユの叶わない恋を、喜んでいる。

 

 全く私は、どこまでも嫌われている。


 ジュヌフィーユは寂しさを押し隠して、新たな客人に微笑みかけた。

 

 

 

 

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