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 懐かしい夢を見た。


 彼女を、無条件に愛していた頃の夢だ。




「好きだよ、ジュヌフィーユ」

 

 溢れる思いを口にすれば、ジュヌフィーユは決まって微笑んで「わたしも大好きよ」と返してくれた。

 その稚い笑顔が愛らしくて、小さな手が頼りなくて、エリクはこのか弱い生き物を守ってやらねばと思っていた。この子は将来、自分の妻になるのだからと。目一杯の愛情で包んで、幸せにしてあげたいと、思っていた。


 ジュヌフィーユは、父の決めた縁組の相手だった。

 エリクよりふたつ年下で、少々おっとりした性格をしていた。


「……は、はじめまして。エリク様」


 初めて交わした挨拶も、年のわりに拙く、ぎこちなかったような気がする。──きっとその挨拶は失敗だったのだろう。厳格そうな父親に睨み下ろされ、萎縮するジュヌフィーユが可哀想でならなかった。

 エリクは自分が父親だったらもっと優しく接してあげるのに、と童心ながらに思っていた。


 ジュヌフィーユは、婚約者という贔屓目を抜きにしても大変可愛いらしい容姿をした少女だった。

 ふわふわした薄茶色の髪、抜けるように白い肌、薄紅色のふっくらした唇、ぱっちりした二重の瞳は宝石みたいな美しい濃い金色をしていた。


「エリク様」


 と、無遠慮に自分を見つめてくるジュヌフィーユに、心臓が早鐘を打つ──こんなに可愛いらしい女の子を、エリクは他に知らなかった。

 仲良くなさい、と父に命じられるがまま、エリクはジュヌフィーユの小さな手を取った。


 そうして共に過ごすようになって数ヶ月。

 エリクはすっかりジュヌフィーユの虜になっていた。共に遊び、怒られ、昼寝をし、時々勉強もした。

 ひとりっ子だったから、妹が出来たみたいで嬉しかったのだと思う。ジュヌフィーユと寝食を共にできる実兄のカインが、羨ましくてたまらなかった。

 

 そんなふれあいの中で一点、気にかかることがあった。

 ジュヌフィーユは自分とふたりきりの時はよく笑いよく喋るのに、そこに父親が現れると別人のように固まってしまうのだ。よほど厳しく躾けられているのか。ジュヌフィーユの手の甲には、頻繁に鞭で打たれた痛々しい跡が残っていた。


「ねえ、ジュヌフィーユ。これはお父上にされたの?」


 ある日、見るに見かね尋ねてしまったエリクに、ジュヌフィーユは一瞬硬直し、おずおずと小さな顎を引いて頷いた。


「お食事中にスプーンを落としてしまったの。スープも飛び散ってしまって、それで、お父様がお怒りになって」

 

 困ったように笑って、ジュヌフィーユは腫れた手を背中に引っ込めた。


「……痛かっただろ?すごく腫れてる」


 眉を顰めるエリクに、しかしジュヌフィーユは「自分が悪いから」と笑ってみせた。


「次からは気をつけるわ。エリクが自慢したくなるような立派なお嫁さんになりたいもの」


 そのための〝厳しい淑女教育〟なの、とジュヌフィーユは微笑む。

 たまらなくなって、エリクは言った。


「……ジュヌフィーユは、今でも自慢したくなるくらい可愛いお嫁さんだよ。こんな罰、必要ない」

 

 今すぐにもお嫁さんにしてあげられたらいいのに。

 幼いエリクは、無力だった。

 エリクだって宿題を忘れたり粗相をしてしまった時に鞭を受けたことはある。けれど、ジュヌフィーユの手のように赤く腫れ上がったことはない──これはただの、暴力だ。


「好きだよ、ジュヌフィーユ」


 エリクは切なくなって、ジュヌフィーユを抱きしめた。ふわふわしたジュヌフィーユの薄茶色の髪が、首と頬にあたってこそばゆい。

 

「私も大好きよ、エリク」


 父親に、仲良くしろと言われているから?

 聞きそうになって、やめた。

 たとえそうだったとしても、ジュヌフィーユはエリクの許嫁だ。あと数年もすれば父親から引き離すことができる。助けてやることができる。本当に恋をしてもらうのは、それからでも遅くないはずだ。

  

 そう、思っていたのに。



 ジュヌフィーユの狡猾な父親は、エリクの父を裏切った。

 詐欺だった。


 婚姻を結ぶ際、親睦の証にと交わした契約書の中に、ハルグリード家の土地に関する記述があった──全権を、ビヌジュエーブに委任する、と、確かにそう記載された契約書には、父の署名サインが入っていた。ジュヌフィーユの父親が、言葉巧みにエリクの父を誘導したのだ。どの道、家族になるのですからと。


「何が家族だ……っ!」


 裏切りに気づいたエリクの父は激怒したが遅かった。

 いつの間にかハルグリードの経営していた農場はビヌジュエーブのものとなり、全ての権利を剥奪された。


 収入の半分以上を失ったハルグリードは、窮地に立たされた。

 父は資金繰りに奔走し、母はドレスや宝石を売り払った。

 召使の数も減り、華やかだった屋敷にはあちこちに埃が積もるようになった。

 カーテンを下ろされたままの室内は昼でも暗く、出される食事は薄い味のものばかりになった。


 全てビヌジュエーブのせいだ、と父はうめいた。

 突然話しかけてきて、おかしいと思ったんだと。

 そうして、エリクとジュヌフィーユの婚約話は、立ち消えとなった。


「二度とあの一族には近づくな」


 昏い目をした父にそう告げられた時、エリクは思わず反論していた。


「ジュヌフィーユにも?」


 あの子は関係ない。悪いのはあの父親だ。

 こんなにも好きになってしまったのに、仲良くしろと言ったのは父さんなのに。一方的に関係を断ち切るなんておかしい。エリクが、初めて父親に刃向かった瞬間だった。

 しかし、父はエリクがビヌジュエーブに近づくことを許さなかった。


「もちろんだ。あの娘にも薄汚い卑怯者の血が流れているんだからな」


 それこそひどい偏見だ。

 かっとなったエリクは屋敷を飛び出して、ジュヌフィーユの家に走った。

 今頃ジュヌフィーユは、どうしているだろう。

 またあの父親に暴力を振るわれているのではないか。痛い思いはしていないか。心細い思いはしていないだろうか。

 早く行って安心させてあげないと。



 ──しかし、汗だくになったエリクの葛藤の全ては、杞憂に終わった。


 迫りくる夕闇の中。

 ビヌジュエーブ家の古城には煌々と灯りがともり、たくさんの貴族の馬車が集まっていた。

 壮麗な音楽まで流れてきて、パーティーが開かれているのだと知った。

 

 どうして?


 エリクは巨大な門扉の前で荒い息を繰り返しながら、贅の限りを尽くしたようなビヌジュエーブ家の庭園を眺めた。

 と、その大きな城の二階、真っ白に塗られたバルコニーに、一人の少女が顔を出す。


 どうして……


 エリクは、信じられない思いで婚約者を見上げた。

 真新しい真紅のドレスに身を包んだジュヌフィーユが、にこにこと微笑みながら、客人に愛想を振りまいている。

 その細い首元を飾っていたネックレスを見た時、エリクは言葉を失った。


 あれは、母様の。


 母が寂しそうに売り払った、大切にしていた首飾りを、どういうわけかジュヌフィーユが身につけて笑っていた。まだ幼いジュヌフィーユには不釣り合いな、宝石の異様な大きさが目立っていた。   

 

 ──薄汚いビヌジュエーブ家の娘


 父の、呪いのような言葉が蘇る。

 古から続く名門貴族ビヌジュエーブ家は、狡猾な世渡りを繰り返し、生き残ってきた。今思えば、エリクとジュヌフィーユの婚約発表を焦らしたのも、計画の一端だったのだろう。ビヌジュエーブは自家の品位を貶めることなく、するりとハルグリードから全てを奪った。そうしてのうのうと贅沢を謳歌している。


 ジュヌフィーユも貴族の子息たちに囲まれ、嬉しそうに笑っていた。

 その中からまた、新たな獲物を見つける気なのだろうか。

 エリクは小さな拳を力の限り握りしめた。


 許さない。

 絶対に許さない。


 エリクはバルコニーから城の奥へと姿を消すジュヌフィーユを見つめて、怒りに震えた。

 ビヌジュエーブを必ず失脚させてやる。

 必ず。


 必ずだ。





 *




 朝日の眩しさに、エリクは顔を顰めながら目を開ける。

 嫌な夢を見たせいで、気分は最悪だった。


「……大好き、か」


 馬鹿みたいなセリフだ。

 エリクは広い寝台の中で寝返りを打ち、未だ夢の中にいる新妻を見つめた。

 横向きに寝ていた彼女は、身体を胎児のように丸めた体勢で、しずかな寝息を立てていた。そのまなじりに残る涙の跡を見ても、エリクの心臓はわずかにも動かない。むしろ、せいせいしていた。

 エリクたち一家の味わった屈辱はこんなものではない。

 この数年でハルグリードは息を吹き返し、エリクの目論見通りビヌジュエーブは没落していった。

 だが、そんなことでエリクの憎しみが薄らぐことはなかった。


 夜会や社交の場で彼女の名を耳にするたび、姿を目にするたび、今もなお、焼けつくような憎悪が蘇る。


 復讐はこれからが本番だ。


「楽しみだな、ジュヌフィーユ」


 エリクは独りごちて微笑む。

 彼女を解放するその日は、いつになるのだろう。

 エリク自身にも見当はつかなかった。


 

 

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