3
「ジュヌフィーユ、大丈夫か」
談笑に必死だったカインが、妹の異変に気づいて、低い声をあげた。
ジュヌフィーユは頷くのが精一杯で、もうここには数秒だっていられないような気がした。
エリクはまだ、怒っている。許されようなど、とんでもない話だった。
「兄様、ごめんなさい。私やっぱり、今夜は」
妹の言わんとしていることを理解して、カインは素早く了承した。
「いいよ。終わったらすぐにお帰り。僕はまだ用事があるから送れないけど、アルバもいるし、大丈夫だね?」
「はい、兄様」
傾きかけているビヌジュエーブの立て直しの為、兄は日々資金繰りに奔走していた。
慣れぬ社交にも連夜顔を出し、横の繋がりを広げようとしている。
しかし、古い家柄と骨董品のような城だけが財産と成り果てているビヌジュエーブに出資しようとする者はそうそう現れず、兄の努力は大半が徒労に終わっていた。
ビヌジュエーブの前当主──ジュヌフィーユたちの父が遺した借金は、兄妹に重くのしかかっていた。
税を上げれば、と家令に進言されるも、臆病なカインは踏ん切りをつけることが出来ず、結局は自分たちの生活水準を引き下げるに留まっている。よく言えば心優しい領主、ということになるのだろうが、結局は問題を先延ばしにしているだけで、根本の解決には至っていない。一点一点家財を売り払い、断腸の思いで召使を解雇し、なんとか体裁を取り繕っているのが現状だった。
──先日ジュヌフィーユは、有名画家が描いた、母との肖像画を売り払った。
それは、まだ幼かったジュヌフィーユが、母の膝に抱きついて微笑んでいる油彩画だった。
パステル系の優しい色合いで描かれたそれは、早くして母を亡くしたジュヌフィーユにとって大切な大切な宝物だった。
だからだろう。絵を売り払った時、まるで二度母を失ったような気がして、寂しくてたまらなくなった。
肖像画の取り外された四角に日焼けの跡がついた壁を見つめた時、ジュヌフィーユは、これは罰だと理解した。エリクたち一家を苦しめた罰なのだと。
どうしたら許して貰えるのだろう。
少なくとも、このまま逃げ続けているだけではいけない。
エリクの怒りは収まるどころか、埃のように蓄積されるばかりだ。
『ジュヌフィーユは僕が守るよ』
そう微笑んでくれた、あんなに優しかった少年はもういない。
傷つき、消えてしまった。
傷つけたのは、ジュヌフィーユたちだ。
だからジュヌフィーユは、罪悪感と恐怖に打ち勝たねばならなかった。
本当に苦しいのは、未だ恨みの中にいるエリクなのだから。
「ジュヌフィーユ様?お水、来ましたよ」
ふと降りてきたフランツの声に、ジュヌフィーユははっとした。
「あ、すみません」
つい、ぼんやりしてしまっていた。ジュヌフィーユは慌ててフランツが用意してくれた水に口をつけた。ほのかに、檸檬の香りがする。
「すっきりするでしょう?飲みすぎた夜はこれに限ります」
「本当……美味しいです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
にこりと微笑んだフランツは、ジュヌフィーユからゆっくりと視線を外し、会話の輪に戻った。
水の冷たさのおかげで、ジュヌフィーユは幾らか気分を落ち着かせることが出来た。
もう一度エリクを見やる。声をかけるチャンスはきっと一度きり。
ジュヌフィーユは、兄にこそりと耳打ちした。
「兄様、私やっぱりエリクと話してみます」
兄は不安そうに眉を顰め「わかった」と短く答えた。
*
「──手短にお願いします。この後予定がありますので」
エリクは、明らかに苛立っていた。
「ご、ごめんなさい」
氷色の瞳が恐ろしくて、ジュヌフィーユはつい下を向いてしまう。
晩餐がお開きになり、気分良く帰り支度をしていたエリクは、背後から声をかけた人物がジュヌフィーユとその兄だとわかると、途端に表情を無くした。
「何か?」
冷たく問われ、ジュヌフィーユは震える声を情けなく思いながら「少しだけ、お時間をくださいませんか」と言葉を紡ぎ出した。エリクは面倒そうに片目を歪ませたけれど「ここは皆さんの邪魔になるので、あちらへ」と壁際へ誘導した。
「で?なんですか」
冷たく言い放ったエリクを前に、カインがしどろもどろに口を開いた。
「その、すみません。急にお呼び立てしてしまって」
エリクは荒く息をつく。
「ですから、要件はと聞いているんです。何もないのでしたら、失礼しますよ」
「!待ってください……!」
踵を返そうとしたエリクを、ジュヌフィーユは叫ぶように呼び止めた。
「要件はあります……!あなたと、仲直りしたいの」
逼迫した声に動きを止めたエリクが、訝しむように聞き返す。
「仲直り?」
音に出すと、なんて幼稚な言葉だろうか。
エリクもそう感じたのだろう。はっと鼻で笑われた。
「あなた方と、僕が?」
改めて向き直ったエリクに、きっぱりと言い渡される。
「いやですね。お断りします。僕はあなた達を許すことは出来ないし、許したいとも思っていません。ビヌジュエーブなど、勝手に潰れてしまえばいい」
鋭い瞳は、やはりジュヌフィーユを許さないと物語っていた。ジュヌフィーユは怯みそうになるのを堪えて、言いすがる。
「お願いエリク。許してくれるならなんでもするわ。だから」
「そんなに困窮しているのか?」
ジュヌフィーユとカインを交互に見つめ、面白がるようにエリクは微笑んだ。
「おかしいと思ったんだ。急に仲直りなんて──ああ、もしかして、僕の財産を狙ってる?」
「エリク……違」
「フランツにも目をつけていたな。父親に似て、嗅覚はいいらしい。彼も随分な資産家だものな」
小馬鹿にしたように笑われて、ジュヌフィーユは唇を引き結んだ。
「彼は、飲みすぎた私に親切にしてくれただけよ」
「だが、あいつは君のことを気に入ったみたいだ。さっき、君のことを聞かれた。うまくいけば、伯爵夫人になれるかもしれないな」
くすくすと笑ったエリクは「でも」と呟く。
「そうはさせたくないな。ああ、絶対に嫌だ。君たちが幸せになるなんて、死んでも許さない」
そうしてエリクは、いいことを思いついた、というようにジュヌフィーユを見下ろした。
「なんでもする、と言ったな。ジュヌフィーユ」
「……ええ」
急に真顔に戻ったエリクが今、何を考えているのか分からなくて、恐ろしくて、ジュヌフィーユは思わず兄の腕を掴んだ。
「そうだな。だったら僕の花嫁にでもなってくれないか。僕の気が済むまで、僕のそばにいて欲しい。幸せになんて、絶対にさせない」
凄むエリクに、ジュヌフィーユとカインは息を呑んだ。
カインが、妹を庇うように背に隠す。
「エリク、そんな条件は呑めない。不幸になるとわかっていてジュヌフィーユを嫁に出すなんて」
「だったら〝仲直り〟は永遠に無理だ」
エリクは言い切って、カインを睨みあげた。
「どうする?ああフランツと結婚しようなんて考えも無駄だからな。全力で阻止してやる」
「エリク……」
カインが、困り果てたように掠れた声をあげる。
ジュヌフィーユは兄の背に隠れながら、エリクを思った。
エリクはずっとずっと苦しんできた。
ジュヌフィーユはその苦しみを少しだけでも晴らしたかった。大好きだった、初恋の少年だから。
「いいわ」
ジュヌフィーユは兄の影から出て、真っ直ぐにエリクを見上げた。
変わらずの冷淡な瞳が自分を見下ろす。カインが驚愕して両目を見開いた。
「ジュヌフィーユ、何を」
「私、なんでもするって言ったもの」
「駄目だ、そんなことは許せない。悪いがエリク、この話はなかったことにしてくれ。時間をとらせて悪かった」
ジュヌフィーユの腕を掴み、カインが立ち去ろうとする。ジュヌフィーユは兄に抵抗し、踏みとどまろうとした。
「兄様、待って」
「僕は頼りないかもしれないけど、妹を犠牲にするような卑怯者じゃないんだ」
と、エリクが引き止めるように言った。
「もしもこの条件を呑むのなら、ビヌジュエーブに少しだけ出資しても構いませんよ」
カインが不可解そうに眉を寄せる。
「何を」
「その代わり、僕たちの結婚生活には口出しをしないで頂きたい。それに、あくまで僕の気が済むまでのことです。一年後になるか、一ヶ月後になるかは分かりませんが、悪い話ではないと思いますよ」
挑発するように、エリクはジュヌフィーユを見つめた。
「どうする?」
返事は、今ここで、とエリクが迫る。
ジュヌフィーユは、浅くなっていた呼吸を繰り返す。目眩がした。




