16(終)
――――ついにその時がきたのだと、ジュヌフィーユは悟った。
***
「もういい」
離縁状を突き出すと、彼女の表情は凍り付いた。
それをじっくり観察するつもりでいたのに、どうしてかエリクはまともに直視することが出来なかった。言葉に感情を乗せないように、それだけを考えて机上の紙切れを眺める。
「これにサインをして、ヴィドックにでも渡しておいてくれ。家に戻る時期は、君に任せる」
あとの処理は、有能な執事に任せてある。
エリクは用件を言い終えると、向かいに座るジュヌフィーユに改めて目を向けた。
ジュヌフィーユは紙切れを見つめたまま、微動だにしない。
「なにか、質問は?」
「……なにも」
やっとジュヌフィーユが口を開く。
それは、今にも消えてしまいそうなほどか細く、頼りなげな声だった。
「許してくれてありがとう、エリク」
向けられた寂し気な微笑みに、エリクの胸も、鈍く軋んだ。
その日の夕食後、エリクは彼女を私室に呼び出した。あの夜から、ひと月が経っていた。
――どんな風に切り捨てたら、彼女は一番傷つくだろう。
この一カ月、エリクはそんなことばかりを考えていた。
あえてアネットの話題を口にし、好意を示し、わざとらしく微笑んでも見せた。
ジュヌフィーユはその度に、力なく笑い返してきた――愚かで単純な彼女は計画通り、エリクの想い人はアネットだと信じてくれたようだった。そんなこと、あるわけがないのに。
「君に買った衣装も装飾品も、好きなものは持って行ってくれて構わない。 気に入っているなら、全部でも」
「ううん。 きっと使いようがないから置いていくわ」
ジュヌフィーユは言いながら、離縁状にサインをする。
彼女の言う通りだった。
どんな建前を用意しても、円満な離縁などあり得ない。
噂好きの人々は、好き勝手に憶測を立ててくることだろう。
地位を確立しているエリクはともかく、ジュヌフィーユはしばらくの間、社交界に顔を出すことすらできないはずだった。再婚に至っては、絶望的だろう。つまり彼女の未来はここで終わるのだった。
――ねえエリク。エリクは、私の旦那様になるのよね。
――そうだよ。世界で一番幸せな花嫁さんにしてあげる。
そう誓った無垢な少年を殺したのは、間違いなく彼女だった。
「書いたわ。 ヴィドックさんに渡しておくわね」
ジュヌフィーユはペンを置くと、用紙を手に取り、立ち上がった。
「これからすぐ、出ていくわ」
「……これから?」
エリクはにわかに顔をしかめる。
いくらなんでも早すぎる。
「もう遅い。 そんなに急がなくても」
「平気よ。 兄様のところに戻るだけだもの。 荷物だってそう多くはないから」
背を向けようとするジュヌフィーユの肩を、気づけばエリクは掴んでいた。
「危ないだろう。 せめて明日にしてくれ」
懇願するような声は、まさか自分のものだろうか。
あっさりと離縁を受け入れ、屋敷を出ていこうとするジュヌフィーユがエリクは信じられなかった。
違うのだ。
渇望していた状況と、まったく。
エリクはもっと彼女に取り乱して欲しかった、捨てないでとすがって欲しかった、そうすればきっと自分の心は満たされた。恨みを晴らすことが出来た。そのはずだった。なのに。
「離して……!」
腕を振り払われる。
初めての抵抗に、エリクは茫然と彼女を見つめた。
「ジュヌフィーユ」
彼女は、ぼろぼろと泣いていた。
エリクを見つめて、歯をくいしばっている。泣くまいかとするように。
「お願いエリク……もう行かせて」
ああ、そうだ、これだ。
この顔が見たかったのだ、とエリクは思った。
エリクは、あの日の自分と同じ顔をしたジュヌフィーユを見たかったのだ。
絶望し、苦しみにのたうつ彼女を望んでいた。
「駄目だ」
しかし、とエリクは思う。
やっとそのジュヌフィーユを目の前にしたというのに、どうして自分の心は晴れないのだろう。
エリクは、泣きじゃくるジュヌフィーユを引き寄せると、腕の中に閉じ込めた。
慰めるように彼女の髪を撫でつける。
「……なあ、君は、僕のことが好きなのか?」
だったら、一生そばにおいて苦しめてやればいい。
永遠に叶うのことない恋を与えてやればいい。
エリクの耳に、悪魔がささやく。
泣きながら自分の胸を押し返してくるジュヌフィーユを、エリクは見下ろした。涙で濡れた瞳がすぐそこにある。
「答えて、ジュヌフィーユ」
ジュヌフィーユは唇を震わせていた。
エリクを見上げたまま、迷うように瞳を揺らがせている。
やがて、言った。
「好き……エリクがずっと、好きだった」
エリクは仄暗い安堵に包まれ、微笑んだ。
「そうなんだ。 ……ずっとって、ずっと?」
ジュヌフィーユは震えながら頷く。
「ずっと、ずっとよ。 子供の頃から、ずっと。 だから、許して欲しかった」
「……そう」
勝手だな。
エリクは嗤って、ジュヌフィーユの髪を梳き続けた。
「わ、わかってるの、あなたが私を嫌いだって。 だから、どんな罰でも受けるつもりだったの、でも……でもエリクは他に好きな人がいるんでしょう? だから結婚はもう……」
「僕の好きな人って? アネットのこと?」
「……違うの?」
ジュヌフィーユがおそるおそる尋ね返してくる。
エリクはその頬を撫でた。
「違うよ」
好きな女なんて、ひとりもいなかった。出来なかった。
幼い頃の手ひどい裏切りに、エリクの恋心はズタズタになってしまったから。
だから自分はもう、一生誰も愛せず、愛されないのだと思っていた。
けれど。
「……僕も、君が好きなんだよ、ジュヌフィーユ」
ジュヌフィーユが、不思議そうに見上げてくる。
そうだろう。エリクだって、不思議で堪らないのだから。
「ずっと君が好きだった」
だから悲しかったのだ。
ジュヌフィーユの裏切りが。婚約を解消されたことが。
「……嘘」
ジュヌフィーユは信じられないと呟く。
エリクはそんな彼女をゆっくりと見下ろした。
彼女には、ひどい態度ばかり取ってきた。だから、すぐに信じてもらおうなんて方が、無理な話だった。
「本当だよ」
――好きだよ、ジュヌフィーユ。
エリクは告白しながら、ジュヌフィーユの手から離縁状を奪い取った。そうして、ビリビリに破り捨てる。
「君の父上のことは一生許せない。 でも君とカインのことは、もう怒ってない」
「……本当?」
「相変わらず、頑張り屋さんだって知ってしまったからな。 それに僕の助言がないと、君のお兄さんはやっていけなさそうだし」
寝不足気味のジュヌフィーユの顔を撫ぜて、微笑む。
「……本当に、許してくれるの」
「うん。 これからは本当の夫婦になろう。 ――愛してるよ」
エリクは言って、ジュヌフィーユに口づけた。
人を許すということは、なんて難しく、あっけないのだろう。
あんなにも燻っていた怒りと恨みが、胸の内から消えていく。代わりに、これまで感じたことのない高揚感がエリクを満たしていった。
人は人に復讐を果たしても、幸福にはなれないのだ、とエリクは思った。人が幸福になる方法はたったひとつ――人を愛することなのだろう。
馬鹿みたいだ。
エリクはかわいい妻を見つめながら、微笑む。
「好きだよ、ジュヌフィーユ」
そして誰よりも愛している。
だからもう、離せないと、その手を握りしめた。
***
それから、数か月が過ぎた。
今でも時折ジュヌフィーユは、夢を見ているのではないかと思う瞬間がある。
エリクが毎日やさしくて、甘くて、そして――別人になってしまったかのようだったから。
「あまり妻に飲ませないで貰えるか、フランツ」
「堅いことを言うなよ」
遊びに来ていたフランツが、顔をしかめてエリクを見返す。
久しぶりに異国から帰国したフランツは、土産を持って立ち寄ってくれたのだった。
「君が喜ぶと思って珍しいワインも手に入れてきたのに」
「それは助かる。 でもジュヌフィーユは酒に弱いんだ」
ジュヌフィーユはそんなふたりのやり取りを見つめながら、酒に合うチーズとハムを運んできたヴィドックに顔を向けた。
「ありがとう。 ヴィドックさん」
「いえいえ。 ああ、そうです奥様。 例のものが届きましたよ」
「本当?」
ジュヌフィーユは驚いて、客間の椅子から立ち上がる。
「どうした? ジュヌフィーユ」
尋ねてきたエリクに、ジュヌフィーユはちょっと、と言葉を濁す。
「ヴィドックさんに取り寄せてもらったものが届いたの。 見てきてもいい?」
「ああ」
ジュヌフィーユはエリクとフランツに断って、客間を後にする。
まさか、本当に手に入るとは思わなかった。
ヴィドックに案内された一室に、その荷物は届いていた。薄い箱を開けて、ジュヌフィーユは中を確かめる。
「ああ、間違いないわ」
緑色の大きな宝石のついた首飾り――。
ジュヌフィーユはそれに触れぬよう箱を戻して、エリクの元へ戻った。
「エリク!」
「そんなに興奮して、どうしたんだ」
珍しいな、とエリクが微笑む。
が、ジュヌフィーユから首飾りを受け取った時、その表情は一変した。
「これは」
「あなたのお母さまの形見だと思うの。 違うかしら」
「いや。 間違いない――母のものだ。 でも、どうして君が?」
生活に困った時、ジュヌフィーユは持っていた宝飾具の全てを質に入れた。
これは、そのうちのひとつだった。
「兄様とヴィドックさんにお願いして探してもらったの。 私も質屋さんにも色々と回ってたのだけど、やっと見つけられて」
ジュヌフィーユは言って、壁に掲げられたエリクの母親の肖像画を見やった。
その白い首筋に、同じものが光っている。
「……これね、子供の頃、お母さまにねだって宝石屋さんから買ってもらったの。 ……この首飾りをつけたら、私もエリクのお母さまみたいになれるかと思って」
その首飾りが、本当にエリクの母親が所有していたものだと気づいたのは、エリクに嫁ぎ、この肖像画を目にしてからだった。
おそらくエリクの母親は、生活に困窮した時に売り払ったのだろう。そうとは知らず、ジュヌフィーユは首飾りを買った。――その後、結局ジュヌフィーユも生活苦のために手放すことになってしまったけれど。
「どうしても、エリクに返したくて」
エリクは光り輝く首飾りを見つめて、儚く笑った。
「そうだったのか……ありがとう」
そうしてジュヌフィーユの額に口づける。
フランツが見てられないと肩をすくめていた。
エリクは構わず、ジュヌフィーユを甘く見つめた。
「母もきっと喜ぶ。 君にも似合うと思うよ」
「ううん。 昔一度だけつけてみたんだけど、全然似合わなかったの。 だからこれは、お母さまに返すわ」
エリクはほんの少し複雑そうな顔をした。
「……他にも質に入れたんだったね。 君の母上の肖像画も取り戻そう。 ――ヴィドック」
「はい。 そちらはカイン様と共同で動いておりますよ」
ご安心を、と言って、やはり有能な執事は微笑んだ。
その夜。
ジュヌフィーユは、懐かしい夢を見た。
幼い頃の夢だ。
――好きだよ、ジュヌフィーユ。
かわいい顔をした少年が、そう言ってジュヌフィーユの頬に口づける。
ジュヌフィーユはくすぐったくて、でも、嬉しくて、小さく肩を震わせる。
――私も大好きよ、エリク。
当たり前のように言って、ジュヌフィーユも彼に口づけを返した。
温かくて、少し硬い。
……硬い?
あれ?と思い、ジュヌフィーユは目を覚ます。
朝日の中にいたのは、大人になった少年だった。
こちらを見て、柔らかく微笑んでいる。
「おはよう」
いい夢を見てたんだな。
エリクがからかうように笑って、ジュヌフィーユを抱き寄せた。
ジュヌフィーユは、恥ずかしさにうずくまる。
夢の続きが、今日もはじまる。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました**koma