12
***
素敵な奥様ですね
そう、声をかけられることが多くなった。
最近とみに。
エリクは幅広の執務机に頬杖を突きながら、見るとはなしに窓の外を眺める。
美しく整えられた庭園が、午後の陽光を受けて燦然と輝いていた。
いい天気だな、などと他人事のように思いながら、そこを歩く妻を見下ろす。ジュヌフィーユは、白いレース飾りのついた日傘を手に、先刻訪れた客人の案内をしていた。
茶会で知り合ったというその令嬢に何事か話しかけながら、奥の生垣へと消えていく。
その後ろ姿を見送って、エリクは、手元の書類へと視線を戻した。羅列されている文字を目で追いながら、頭の片隅で思うのは、やはり妻のことだった。
──領民の嘆願書に目を通し、署名を入れ、済んだ書類の上に重ねる。
それを繰り返すうちに陽が傾いて、書斎はオレンジ色の光に満たされた。
今日はここまでにするかと区切りをつけてペンを置くと、エリクは、布張りの椅子の背もたれに、ゆっくりと体重を預けた。
そうして天井を仰ぐように見上げながら、復讐の仕上げについて思案する。
妻を、どう地獄へ突き落とそうかと。
考えながらエリクは、先日の夜会のことを思い返した。
『素敵な奥様ですね』
流行の最先端をゆく、そのドレスの効果があったのだろう。エリクはあの夜、そう何度も声をかけられた。
急ぎ作らせた淡いグリーンのドレスは、正直驚くほど彼女に似合っていて、エリクの目論み以上に衆人の目を惹いてくれた。有力貴族とも話す機会が増え、会話は弾み、おかげで停滞していた案件まで動かすことができた。高い買い物ではあったが、効果は十分にあったと言えるだろう。
しかし、エリクはその功績が、ドレスのせいばかりでないことも知っていた。
天井から、執務机の端にある文箱へと視線を移す。
懇意にしている貴族からの手紙にはこの頃、必ずと言っていいほどジュヌフィーユの名が添えてあった。茶会でのもてなしを妻が喜んでいました、とか、化粧を見本にしたいと娘が言っている、とか。どれもとるに足らない、直接の利益になるような話題ではなかったけれど、繋がりを持つという点では、非常に役に立っていた。
伯爵家の妻として、彼女は十二分に役目を果たしてくれている。
エリクはため息を堪え、眉を寄せた。
もしもこれがビヌジュエーブ家の血がなせる技ならば、大層なものだった。
「くそ……」
エリクは、気持ちをごまかすように悪態をつく。
あんなにも──あんなにも胸の内を巣食っていた憎しみが薄れていくのを自覚し、恐怖に慄いた。
彼女が毎晩、遅くまで夜会の対策を練っていることは知っていた。しかし、それくらいのことで心動かされるエリクではなかった。それは貴族ならば当然知っているべき事柄で、むしろ今更といったところだった。
けれど──エリクは苦々しく、眉を寄せる──彼女の無知や臆病が、あの性悪な父親による抑圧のせいだと勘付いているエリクは、今、必死に遅れを習得しようとするジュヌフィーユを、心の底から憎むことも出来ないでいた。
だからあの夜エリクは、少しくらいは彼女の努力に報いてやってもいいかと思ってしまったのだ。
そう。
なんてことはない。
たった一言、ダンスが上手くなったと褒めてやっただけ。それだけだ。
それでもエリクは、見てしまった。
ジュヌフィーユがひどく動揺して、顔を真っ赤に染めるのを。
『……っ』
そうして堪えきれなくなったように顔を背けたジュヌフィーユから、エリクは目を離すことが出来なくなった。
その初々しい反応は、幼い頃のジュヌフィーユを思い起こさせたからだ。
エリクの心臓が甘く疼き、もっとそんな彼女を見たいと望んでしまう。
そうしてまずいと思った。
この女は、近いうちにボロ雑巾のように捨てるはずの妻なのに、と。
その時ふと、執事から言われた言葉を思い出した。
『妙な情が移りでもしたら、後にお困りになるのは旦那様です』
エリクは眉間の皺を深くした。
ヴィドックの忠告に、自分はもっと耳を傾けるべきだったのだ。
これ以上ジュヌフィーユに近づいてはいけない──復讐が成し得なくなる。
エリクはだから、仕上げを急ぐことにした。
憎悪が消えないうちに、早く、ジュヌフィーユを切り捨てる。
エリクは決意し、ヴィドックを呼び寄せた。
「お呼びでしょうか」
執務机の正面に立ったヴィドックに、エリクは言った。
「男を呼べ。 ジュヌフィーユに会わせるんだ」
命令に、ヴィドックは両目を見開く。
皆まで言わずとも、主人の意思を悟ったのだ。
「……それでよろしいのですか」
老齢の執事は、絞り出すような声を上げた。
「奥様は確かに、あの男の血を引いておられます。 ですが子とは親を選べぬもの。 奥様ご自身に罪はございません。 せめて、穏便な離縁を──」
「罪ならある」
エリクは冷たく言い放った。
いつの間にか陽は落ちきり、蝋燭も灯っていない部屋は真黒な闇に覆われていた。
「彼女はあの男が父や母から搾り取った財産で、贅沢をした」
母の首飾りを我が物顔で身につけ、嗤っていた。
エリクは硬く表情を凍らせたまま、ヴィドックを見据える。
「旦那様……」
「噂を立てるだけでいい。 それで彼女も、彼女の家も仕舞いだ」
エリクは言って、小さく微笑んで見せた。
貴族女性に対しての一番の不名誉、それは不貞だった。多数の男と逢引きをしているなら、なお都合がいい。彼女を悪女に仕立て上げ、同時にエリクは、絶対的な被害者となる。
一時的に情けない男だと蔑まれるだろうが、それも計算のうちだった。
エリクは、最愛の妻に裏切られた男として、悲壮感を漂わせ、偽善的な貴族たちを味方に取り込む。
あまりの醜聞に、ビヌジュエーブ家は消え去るだろう。そして市井に落ちたあの兄妹が、まともに暮らせるわけがなかった。職にあぶれ、食べる物に困ったジュヌフィーユが行き着く先は娼館だろうか。荒々しく男に組み敷かれ、泣き叫び、絶望する彼女を想像しーーエリクは息が詰まった。
「……」
だめだ。
少しも心が晴れない。
「旦那様」
暗闇の中、ヴィドックが重々しく声を上げた。
「……なんだ」
思い通りに行かない心に苛立ちながら、エリクはヴィドックを睨むように見つめる。
ヴィドックはいつものように背筋正しく主人を見つめ、口を開いた。
「この老ぼれめに、ひとつ案がございます。 奥様への復讐ならばおそらくはこちらの方が効果的かと」
「……僕の計画よりもか?」
「間違いなく」
エリクはわずかに首を傾げ、先を促した。
「なんだ」
「簡単なことでございます。 旦那様が、他の女性に恋をなさるのですよ」
エリクは思わず、瞬きを繰り返した。
「…………は?」
「ですから、奥様の他に恋人をお作りになってください」
「……お前、ふざけてるのか」
この後に及んで、と立ち上がりかけたエリクに、ヴィドックは真剣な声色で続ける。
「冗談ではございません。 とにかく騙されたと思って親しい女性をお作りになってください。 お可哀想なことでございますが、すぐに奥様は根を上げられるでしょうから。 ああ、お泣きになられるかもしれませんね」
エリクは、あからさまに動揺した。
「……まさか、そんなことで。 どうして」
「奥様が、旦那様を好いていらっしゃるからですよ」
半ばヤケクソのように言った執事に、エリクはやはり瞬きを繰り返す。
「……あり得ない」
そうして、乾いた声を漏らす。
「彼女が僕を好きなわけがない」
こんな男を。
言ったエリクから、ヴィドックはそっと視線を落とした。
「ものは試しでございます。今に私の言葉が真実だとお分かりになるでしょう」
それでは、と一礼したヴィドックが部屋を退室する。
取り残されたエリクは一人、頭を抱えた。
まさか、そんな、あり得ない、と、同じ言葉をぐるぐる、繰り返しながら。




