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月日は過ぎる。
気づけばジュヌフィーユがエリクの元に嫁いで、三ヶ月が経とうとしていた。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
その朝もジュヌフィーユは外出するエリクを見送りに出て、冷ややかな視線を浴びてしまった。
美貌の夫は、変わらずすげない。
けれどジュヌフィーユがその態度に怯える回数は、極端に減っていた。
きっかけは、あの詐欺未遂事件からだった。
エリクからすれば嫌々の対応だったのだろうけれど、彼は迅速かつ見事に事件を解決し、カインが失くした寄付金の全てを取り返してくれた。それどころか、今も立て直しに力を貸してくれている。
そんなエリクに感謝こそすれ、恐怖など抱けるはずもなかった。
しかし、だからといって心の距離が縮まるわけでもなく、見送りに出るジュヌフィーユを振り返ったエリクは、今日も無言のままに背を向けると、屋敷を後にした。
閉じられた白塗りの扉を見つめて、ジュヌフィーユは小さく肩を落とす。
許して貰うには、まだ、時間が必要らしい。
気分は浮かないが、この三ヶ月で以前よりも耐性がついたジュヌフィーユは、すぐに気持ちを切り替えることが出来た。落ち込んでいる暇があれば、山のように届いている招待状の返事書きでもしている方がずっといい。
ジュヌフィーユはそばに立つ執事のヴィドックを見上げた。
「ヴィドック、今日は午後まで部屋に篭ります」
ヴィドックが「かしこまりました」とひとつ頷く。
「後ほどお紅茶をお持ちしましょう」
「ありがとう」
微笑めば、ヴィドックも温かな眼差しを返してくれた。
一礼して立ち去る有能な執事を見送り、ジュヌフィーユも私室を目指す。
──今でこそこうして気兼ねなく話せるようになったが、結婚当初ジュヌフィーユは、ヴィドックのことも恐ろしくてたまらなかった。
彼がエリクの忠実な家来だと知っていたし、何よりもジュヌフィーユは子供の頃、彼と話したことがあったからだ。
おそらくは、この結婚の実態も把握されているのだろう。
故にジュヌフィーユは彼の前でも少しも気を抜くことが出来なかった。少しでも淑女らしからぬ行いをすれば、エリクに報告されるかもしれない──そう思うだけでジュヌフィーユは、緊張で息が苦しくなっていた。
しかしひと月ほど前、そんな彼との関係に変化が訪れた。
あれは確か、エリクの帰りが遅かった夜のことだ。
主人の部屋の、いつまでも消えない灯りを不思議に思ったのだろう。
侍女を伴ったヴィドックが、ジュヌフィーユの私室を訪ねてきた。
開いた戸口の側で、何をしているのかと問われ、夜会客のリストを見返しているのだと伝えると、ひどく心配そうに顔をしかめられた。
『お顔の色を悪くしてまでなされることではございません。 少しずつで宜しいのですよ』と。
たぶんその時だ、ヴィドックがジュヌフィーユを女主人と認めてくれたのは。
以来彼は絶妙なタイミングで休憩を促してくれたり、ジュヌフィーユの好きな紅茶を手配してくれるようになった。今では、相談に乗ってもらうこともある。ハルグリード家の内情に詳しいヴィドックは大変心強い味方で、ジュヌフィーユの勉強も非常に捗るようになった。
このことも、きっとエリクは快く思っていないのだろうけれど、恥をかかされるよりはと考えているのか、黙認されていた。
ジュヌフィーユは私室に戻ると、文机の椅子を引いて腰掛ける。
開け放たれた窓から風が舞い込み、白いレースのカーテンがふわりと揺れた。窓の外に広がる、美しく整えられた庭を眺めて、ジュヌフィーユは両眼を細める。
この景色にも、随分と慣れてしまった。
でも、いつまでいられるのだろう──。
一瞬感じた切なさを呑み込み、筆記具を手に取る。
文章は、すらすらと浮かんだ。
*
そうしてその夜、帰宅したエリクを前に、ジュヌフィーユは固まってしまった。
「あの……エリク、これは」
呼び出された彼の部屋にあったのは、トルソーに飾られた新品のドレスだった。
それは、少し前の茶会で話題に出たデザインで、流行色の緑も取り入れてある。ふんだんにあしらわれたリボンとレースが可愛らしくて、ジュヌフィーユは思わず見惚れてしまった。
その横でエリクが袖のボタンを外しながら、淡々と口を開く。
「明日の夜会用だ。 いつもの針子にオーダーしたからサイズは問題ないと思うが、一応確認しておいてくれ」
「かしこまりました」
メイド頭の女が頷き、二人がかりで慎重にドレスを衣装部屋へと運び出す。
ジュヌフィーユはそれを信じられない思いで見送った。
ドレスなら袖を通していないものも含めて、まだ衣装室にたくさんある。わざわざ新しい物を作る必要なんてないと思うのに──嬉しかった。
エリクとしては、ただ、流行のドレスを妻に着せることで箔をつけたいだけなのだろう。それ以上でもそれ以下の思いもなく。そうわかっていても、明日、あのドレスを纏えるのだと思うと自然と口元が緩みそうになった。
しかしそんなジュヌフィーユの様子をエリクは、不満と感じとってしまったようで。
「……気に入らないか?」
低い声で言われて、ジュヌフィーユは慌てて否定した。
「とんでもない。 素敵だわ、すごく」
思わず本音がこぼれ出て、しまったと口を押さえる。
エリクは自分を喜ばせたいわけではないだろうに。
しかし。
「……それならよかった。 正直、女性の好みはよくわからないから」
エリクは意外にもそれだけ言うと、着替えのために奥の部屋へと消えてしまった。
また不愉快そうに顔をしかめられるとばかり思っていたジュヌフィーユは、戸惑い、エリクのいた空間を見つめる。
もしかしたら、彼にも少しは、認めてもらえているのかもしれない。
そう思うと、ひどく心が温かくなってしまった。
人間は、置かれた環境や関わり合う人によって、いくらでも変わることが出来るのかもしれない。
ジュヌフィーユはこの頃、そんな風に思うようになっていた。
──夜会の前日も緊張しなくなったのはいつからだろう。
エリクの口添えがあったからなのだろうが、最近は友人と呼べる知り合いも出来、様々な料理にも詳しくなり、ダンスの間違えも少なくなった。
年の近い令嬢たちと流行りのドレスや話題の本の話をするのは楽しく、着ているものや髪型を褒められると嬉しくなった。
あんなにも苦手だった夜会が、今では待ち遠しいと思う瞬間すらある。
それもこれも全ては、エリクのおかげだった。
最初は、彼に恥をかかせないよう、彼の逆鱗に触れないようにと、それだけを考え、脅迫観念に駆られて始めたことだったけれど──今は違う。純粋に、人と話すのが楽しかった。
翌日の夜会で、ジュヌフィーユはドレスを賞賛された。
これでエリクも満足するだろう。
ジュヌフィーユは思いながら、今夜もアネットと踊っているエリクを見守る。
彼と暮らし過ぎたせいだろう。ちくりと針の先で刺されるようだった胸の痛みは、今や刃物に貫かれたような鋭さをもってジュヌフィーユを襲っていた。
早くこの恋心に終止符を打ちたい。
けれどエリクはまだ、自分を解放する気にはならないようだった。
痛みを甘んじて受け入れながら、ジュヌフィーユは友人たちとの談笑に相槌を打った。
と、踊り終えたエリクがジュヌフィーユの元に戻ってきて、俄にふたりになる。
「エリクは本当にダンスが上手ね。 羨ましいわ」
囁くように言えば、エリクが「そうかな」とわずかに身じろいだ。数秒の沈黙の後、そっと口を開く。
「……君も上手くなったよ。 驚いた」
そうしてほんの少し────本当にほんの少しだけ、微笑まれる。
「よく出来たね」と言うように、目を細めて、唇で柔らかく弧を描いて、エリクが笑った。
嘲笑でない笑顔を向けられるのは、いつぶりだろう。
なんて、懐かしい。
「……っ」
ジュヌフィーユは不意に息を止められたみたいに苦しくなって、顔を背けた。
義務感からだろうとその力を貸してくれて、憎いだろう自分の努力を認めてくれるエリクを、どうしようもなく好きだと思った。
そして同時に、胸を強く締め付けられる。
こんなにやさしい人が復讐に縛られているなんて、許されることじゃない。
彼には、本当の幸せを掴んで欲しい。
自分のことなど、早く忘れて。
おこがましくもジュヌフィーユはそう、願った。




