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──彼女は馬鹿だ、本当に。
私室に戻ったエリクはタイを外すと、長椅子の縁に放った。
そばに控えていた執事がそれを拾いあげながら、静かに問う。
「奥様を、お許しになるのですか」
エリクは白髪の老執事に顔を向けた。
「まさか……どうして?」
「お助けになるのでしょう」
言って執事は──ヴィドックは、微かに微笑んだ。
エリクは思わず、顔を顰める。
エリクが生まれてくる前からハルグリード家に仕えているその執事は、非常に優秀な男だった。出過ぎず、かといって控えめ過ぎず、使用人の長として屋敷の一切をそつなくとり仕切っている。両親亡き後、エリクが仕事に専念することが出来ているのも、この有能な執事のおかげだった。彼なくして今の自分はありえなかったと思っているし、彼には全幅の信頼を寄せている。
そして、その優秀な執事はこの結婚を快く思ってはいなかった。
ジュヌフィーユへの復讐を打ち明けた時、彼は珍しく声を荒げて言った。
『差し出がましいことを承知で申し上げます。 しかしどうかお考え直しください。 そのようなことをなさっても、互いに不幸になるだけでございます』と。
けれどエリクは、忠告を受け入れなかった。
十年前、ビヌジュエーブ家に騙され、財産のほとんどを失ったハルグリードは、当時雇っていた召使いのほとんどを解雇しており、幼少のエリクを知るのは、今やこの老爺を残すのみとなっている。
ジュヌフィーユへの怨讐に囚われ続けている主人が気の毒でならないのだろう──ヴィドックは、ことある毎にジュヌフィーユへの態度を改めるか、夫婦関係を解消すべきだと進言してきた。
そうして今日、ビヌジュエーブを手助けしようとしているエリクを見て、ヴィドックはようやく主人が復讐を止めようとしてくれると思ったらしい。
エリクは顔を背けて、シャツのボタンを外しにかかった。
「勘違いするな。 さすがに放置しておけないだけだ」
言って卓上に置いた書類の束を見、重いため息を飲み込んだ。
──全く七面倒な案件を抱えてしまった。
ビヌジュエーブ家の財政状況は、エリクの予想を遥かに超えていた。
あんなにも栄えていた家が、よくこれだけ落ちぶれることが出来たものだと、乾いた笑いが漏れる。
強欲だった先代もさることながら、カインの手腕も中々のものだった。
エリクは眉を寄せたまま水差しを手に取り、グラスに注ぐ。
「必ずうちにも利益は出るようにする」
無償奉仕など、死んでもするものか。
呪うように言って、冷たい水を喉奥へと流しこむ。
熱っぽくなっていた頭が冴えていくのが心地よかった。
と、ヴィドックが気落ちしたように目を伏せる。
「……しかし、それではかえってお困りになるのではございませんか」
「は? どうして」
「気がお済みになられたら、離縁されるおつもりなのでしょう。 でしたらあまり関わらぬ方がよろしいのでは。――妙な情が移りでもしたら、後にお困りになるのは旦那様です」
エリクはとたん、表情を無くした。
「そんなことあるわけないだろ」
少し助けたくらいで、この憎しみが消えるわけがない。
エリクは、復讐の仕上げとして、最後にはジュヌフィーユを手ひどく捨てるつもりでいた。
あらぬ汚名を着せ、上流社会から突き落とし、二度とは上がって来られないようにする。
そうすればきっと、長年自分を苦しめるこの胸のつかえも取れるはずだと、エリクは信じていた。
「……失礼をいたしました」
主人の怒りを察し、ヴィドックは静かに頭を下げた。
エリクは唇を引き結んだまま、憎い妻を思う。
本当に馬鹿な女だ、その兄も。
全ては復讐だというのに、少しも疑わないで、言われるがままに動いて。
彼女たちを絶望に突き落とすその瞬間が今から楽しみでならない。
そうだ。
信用させ、懐の奥深くに潜り込み、最後の最後に裏切るのだ。
かつて、あの男がやって見せたように。
エリクはその時を思い浮かべようとして──失敗した。
『ありがとう、エリク』
先ほど、馬車の中で見たジュヌフィーユの笑顔が、目に焼きついて離れない。
自分は昔、確かにあの少女を好きだったのだと、思い知らされた。
「……しかしジュヌフィーユ様はお美しくなられましたね。 ご幼少の頃も愛らしい方でございましたが」
懐かしむように言ったヴィドックを、エリクは睨み上げた。
ヴィドックは再び「失礼いたしました」と丁寧に頭を下げる。
わざとやっているのだろうか。
──思考を切り替えよう。
ビヌジュエーブを立て直すのは、事実、生半可な作業ではないのだから。
エリクは妻の笑顔を振り払うように、冷たい水を飲み干した。
ヴィドックが「手伝います」と卓上に置かれた書類の束を手に取り、パラパラとめくる。そうしてすぐに閉じると、主人に言った。
「これは……中々の難題でございますね」
エリクは深く頷いた。




