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懐かしい夢を見た。
彼とまだ、仲が良かった頃の夢だ。
「好きだよ、ジュヌフィーユ」
ふわりと笑った少年は、そう言ってジュヌフィーユの頬に唇を寄せた。
ジュヌフィーユはくすぐったくて、でも、嬉しくて、小さく肩を震わせる。
少年はあふれんばかりの愛をジュヌフィーユに注ぎ、慈しんだ。ジュヌフィーユもまた、少年に精一杯の愛を返していた。
ジュヌフィーユは、少年が大好きだった。
二つ年上のその少年は、ジュヌフィーユの知らないことをよく知っていて、少しばかりおっとりしたジュヌフィーユをいつだって優しく導いてくれた。
ふたりは、親同士の決めた許嫁だった。
少年は、将来僕たちは結婚するのだと、家庭教師や召使やらに自慢していた。
誇らしげに、嬉しそうに。
それは今は昔。遠い日の記憶。
二つの家が敵対することになったのは、その翌年のことだった。
***
王宮の控えの間は、賓客とその従僕、それから案内役の召使とで賑わっていた。
女達は東洋製の団扇を見せびらかすように開き、男達は貼りつけたような笑顔で腹の内を探りあっていた。
そんな無垢とは程遠い談笑の前に、ジュヌフィーユの足は竦む。
社交界にデビューして五年。
ジュヌフィーユは、何度経験してもこの独特の雰囲気に馴染むこと出来ないでいた。おかげで、すっかり婚期を逃してしまっている。
今年で十九になるジュヌフィーユは、完全な嫁き遅れだった。
それでも義務を放棄するわけにはいかない。
ジュヌフィーユはひとつ深呼吸をすると、さざめきの中へ足を踏み入れた。客人たちの反応は、久しぶりだと破顔してくる者と、流行遅れのドレスに眉を顰める者とに分かれた。
──そうして彼は、後者だった。
「これはこれは」
つい一瞬前まで連れの令嬢に穏やかな笑みを浮かべていた青年は、ジュヌフィーユの姿を捉えた瞬間、真顔に変じた。声も一段、低くなる。
「ビヌジュエーブ嬢ではありませんか」
青年の冷ややかな視線に耐えられず、ジュヌフィーユは顔をうつむけた。社交界の華と謳われる美貌の青年エリクは、ジュヌフィーユのかつての許嫁であった。
ジュヌフィーユはエリクの首元辺りに視線を彷徨わせながら、なんとか淑女の礼をとる。
「ご無沙汰しております。 ハルグリード伯様」
声が、情けなく震える。
ジュヌフィーユは羞恥に唇を引き結んだ。
エリクを前にすると、いつもこうだった。
親同士の不和が起因して婚約が破綻したのはもうずっと昔のこと。
以来エリクは、ジュヌフィーユとその一族を目の敵にしている。ジュヌフィーユの出る夜会には姿を現さず、今夜のように仕方なしに会ってしまった日には目も合わさないか、こうした硬い態度をとられた。
一刻も早く会話を打ち切りたいのだろう。
エリクの言葉は早かった。
「お加減が悪いと伺っておりましたが、さすがに殿下からのお呼び出しとあっては顔を出さずにはいられなかったようですね。兄君共々ご健在のようで、何よりです」
ジュヌフィーユの隣で棒立ちになっていたカインが、困ったように頭をかく。
「ああ、まあ」
ジュヌフィーユの兄カインは、おとなしい、凡庸な男だった。ジュヌフィーユ同様社交が不得手で口下手で、二十の後半が終わるというのに未だ恋人のひとりもいなかった。
カインは、当たり障りのない文句を並べる。
「伯もご活躍のご様子、羨ましい限りです。宜しければ後程お話でも」
昨年、エリクがハルグリード伯爵家を継いでから、彼の家は益々勢いを増していた。反してカインの継いだビヌジュエーブ家は名ばかりの貴族家に落ち果てている。今は亡き父の無謀な投資と、カインの無欲が原因であった。それを誰よりも承知しているカインは、いつだって自信なさげだ。今、この時でさえも。
「ええ、勿論」
エリクが形ばかりの笑みを作り、作法通りの握手を交わした。と、その氷色の瞳が不意にジュヌフィーユに向けられる。
「ビヌジュエーブ嬢」
エリクはジュヌフィーユの右手をとると、絹の手袋越しに儀礼的な口づけを落とした。今夜は王弟殿下の催す晩餐会。周囲は大貴族ばかりだ。だからエリクは、しきたりを遵守しているだけ。そう分かっていても、ジュヌフィーユは動揺を隠せない。
昔むかし、エリクはそうやって幼かったジュヌフィーユを淑女のように扱って遊んだ。『僕の花嫁さん』と──。
「善い夜を」
エリクは連れの令嬢を伴って場を離れる。エリクに親しげに腕を絡めたその娘は、意味ありげにジュヌフィーユに一瞥をくれ、微笑した。エリクの恋人だろうか。紅い髪の、美しい子だった。
「……僕たちも行こうか」
「はい、兄様」
兄と共に、ジュヌフィーユも晩餐会場に向かう。
足取りは、ひどく重たかった。
仲直り、したい。
晩餐の席についたジュヌフィーユは、はす向かいに座るエリクをそっと盗み見た。エリクは、隣の男性と話しながら、ナプキンを折りたたんでいるところだった。冗談でも言われたのか、肩をゆすって笑っている。数か月ぶりに見るエリクの自然な笑顔はしかし、ジュヌフィーユの視線に気づいた途端、影をひそめてしまった。ジュヌフィーユはあわてて目線を手元に戻す。不愉快そうに細められたエリクの瞳が怖かった。
やはりもう、関係を修復することは不可能なのだろうか。
給仕がグラスにワインを注ぐのを見つめながら、涙ぐみそうになるのを堪える。
『泣き虫なんだから』
そう困ったように笑いながら、涙をぬぐってくれたエリクはもういない。
この恋が叶わないこともわかっている。
でも、せめて、和解したかった。
自分のためにも、ビヌジュエーブ家のためにも。
だからジュヌフィーユは、エリクが出席するであろうこの宴に、出席することにした。
彼に、許しを請うために。