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人魚の冷えた恋  作者: 東屋千草
人魚の錆びた泡
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手の内の泡、握りしめた破片




目を開けると、ラウレンスの腕の中にいた。体をベッドボードに預けるラウレンスの体勢は、休まっているとは思い難い。

左手は力なく体の脇に収まっていたし、そのシャツは赤黒い色をしている。その乾いた色から、血は既に止まっていることが分かった。

エーディットは少し顔をしかめてから、その腕から抜け出して、朝日をすかしているカーテンを開ける。夏の日の気持ちのいい青空が見えた。




「おはよう。」

「……ラウレンス様、おはようございます。ホフマン先生をお呼びしますね。それまで、ちゃんとお休みください。」

「ちゃんと?休んだよ?」

「その体勢では、しっかりとした休息がとれたとは言い難いですわ。」

「エーディットを抱きしめて寝ると、熟睡できるんだ。」




ラウレンスのおふざけに付き合っていられなくて、エーディットは私室に繋がる部屋の扉を開ける。

すでにフランカとエルマが水盆を持って立っている。




「ホフマン先生をお呼びして。」

「すでに、手配しています。」

「ありがとう、エルマ。あなたは、本当に優秀だわ。」




エルマは嬉しそうに顔をほころばせて、新緑色のワンピースと青のワンピースを見せた。

新緑色を指さして、エーディットは、鏡台に座る。前は、この鏡台に座ることすら嫌だったのに、今は、さほど迷うこともない。




「エーディット様、ホフマン先生のご到着です。」

「まあ、早い。」




着替えて、髪を整え、髪飾りとそろいの耳飾りを選んでいる間に、ホフマンが着いてしまった。慌てて夫婦の寝室に向かうと、白いひげを蓄えたホフマンに対して嫌そうな顔を隠さない夫がいた。




「ホフマン先生、おはようございます。」

「おはようございます、奥様。本日も麗しい。」

「ありがとう。」

「俺の妻を、俺より先に褒めるな。あっちへ行け。」




ホフマンの前だと、途端に子どものように夫が振舞うのはなぜなのだろうか。エーディットはいさめるために、夫の右手を取る。




「そのように、先生に言ってはいけませんわ。ホフマン先生に治療をしていただきましょう?」

「そうですぞ。肩の脱臼も放置すれば、そのまま固まってしまいますからな。若造なら、自力で治せそうだが。」

「放っておけ。」

「だめです。お願いですから、治してください。ね?」

「……わかった。」

「ほんに、若造は奥様に弱くてらっしゃる。面白いものが見れたから、治療をして存じ上げよう。」




ラウレンスは、ホフマンを睨みつけたが、白髭を蓄えた老人はどこ吹く風だ。年を取って、目が悪くなったようだ、なんて言いながらホフマンは治療の道具を取り出した。




「エーディット様は、」

「手を握っていればいいのね?」

「ええ。」




ホフマンに促されるよりも先に、夫の手を取ろうとした瞬間、自由な右手で捕まえられてしまう。明け方と同じ、夫の膝の上に乗せられて、エーディットは眉をひそめる。




「ラウレンス様、」

「抱きしめてよ。どうせ、痛み取ってくんないしさ。」

「……ラウレンス様、」




ホフマンの好きにさせろという合図に、静かに頷きを返した。




「肩の脱臼は、前方になりやすい。」

「……それで?」

「反対からの力を入れれば、はまる。」




ぐっと力を入れられたらしく、夫が声を漏らした。




「まあ、周囲の筋肉が発達していればいるほど嵌めるのは難しいものですぞ。力を抜いてください。さもないと、このじじいの腕が折れます。」

「……抜いてる。これ以上、ないほどには、抜いてる。」

「じゃあ、もう一度。」




腹に回されたラウレンスの手が、ぎゅっとエーディットを握りこむのを感じて、痛みが相当なものなのだと分かった。




「これでは、じじいの体力が持ちません。」

「知るか。」

「力を抜いてくだされ。」




ラウレンスの顔は苦痛からか汗がにじんでいた。エーディットはその汗を、そっとハンカチで拭う。




「エーディット、キスして。」

「……え?」

「エーディットがキスしてくれたら、力も抜けると思う。」

「なにを、おっしゃってるのです。ホフマン先生の前です。」

「じじいは、目が悪いし、見えない。」

「そ、そんなわけ、ありません!」

「キスしてくれないと、終わらない。」




エーディットは、迷ったように瞳を動かした。人前で、しかも、自分から口付けるなんて、考えられない。

エーディットは、夫の催促するまなざしに、嫌な汗が噴き出るのを感じて、ハンカチを握りこんだ。




「むりです。」

「夫の治療のためだよ?」

「そんな!」

「ね?少しキスしてくれたら、力も抜けるし、治療も終えられる。」

「……目を、閉じて下さい。」




エーディットは夫の頬に手を添えて、少し迷う。ゆっくり、唇を近づけようとして、ホフマンの視線に気づく。顔が燃えるように熱くなるのを、感じた。




「エーディット、まだ……っ!!!いっ」




ぼきっという音と共に、下がった位置にあった肩が元に戻る。




「戻しましたぞ。」

「くそじじい。」

「ほら、エーディット様、おりてくださいませ。」




ホフマンに促されて、エーディットはベッドから下りた。




「まだ、治療の途中だろう?」

「気が散りますゆえ、エーディット様は隣の部屋にいて下さい。終わったら、お声がけします。」

「はあ?お前が、エーディットに手を握れって言ったんだろ?」

「気が散って、その傷を間違った形に縫い留めてしまうかもしれません。」

「目も見えねえ耄碌じじい。頭までいかれたか?」

「気が散るのです!こんな間近でいちゃいちゃと!」




エーディットは、首まで真っ赤にして、ホフマンに謝罪の言葉を口にする。




「え、なに。俺の奥さん、まじで可愛くない?」




恥ずかしさに消えたくなって、退室の言葉を口にして足早に隣の部屋に逃げる。

ラウレンスは、エーディットへの言葉を惜しまなくなった。何を考え、何を思い、何のために行動するか、余すことなく教える。でも一つだけ、教えてくれないことがある。

ラウレンスが、書きなおした結末だ。

その答えを知ってしまったら、エーディットはどんな感情を抱くだろうか。失望するか、恐怖するか、身動きが取れなくなるか。

あれほど知りたいと思っていたのに、今は知りたくないと思う。知らずにいられたら、この夢とも現実ともつかない場所に、ラウレンスといられると思うからだ。

エーディットは、あの時、確かに、ラウレンスのために泡になれると思った。でも、今は、即答できない。たとえ、エーディットが、泡になったとしても、ラウレンスはその泡を壊さないように懸命に手の内で守り通してしまいそうだ。

エーディットが、錆びた泡になったとしても、その手の内側に握りしめる。決して、強く握りすぎず、壊さないように。

だから、泡になると、即答できない。泡にならずに、その手の内で、大切に握っていてほしいと思うから。





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