落ちたフィサリス
遠くで、扉の閉まる音がした。
エーディットは、静かに顔を上げる。手元を照らすランプは、本の文字を明確にするには暗すぎる。ずっと開いていた本の文章を、その実、エーディットは読んでいなかったのだ。
騎士の妻に必要な行事や伝統を書かれた本だったが、義母・ヒルベルタは必要ないと言っていた。
「お帰りなさいませ、ラウレンス様。」
「ああ、戻ったよ。先に休んでいてよかったのに。」
夫は必ずこう返す。仕事で遅くなる時には、必ず、先に休んでいてと言伝がされる。
この家で気づいたことは二つ。
一つは、この家には香りがないこと。夜着に感じたユリの甘い香りは、その一度きりで、それ以降、そんな香りが鼻腔をくすぐることはなかった。食事のにおいも、食堂に入って初めて、わずかに香るだけ。
それは、夫からも同じだ。外の匂いも、風の香りも、土ぼこりの煙たさも感じることはない。
「君の負担にはなりたくないんだ。」
そして、もう一つは、ラウレンスが何かを偽っているということ。さっきの言葉もそうだ。
小さな偽りを、ラウレンスは重ねていく。その意味が、エーディットにはわからなかった。
最初は、その嘘に気づけなかった。でも、次第、次第にそれは、澱のようにエーディットの心の中にたまっていった。
一度目を閉じて、そしてもう一度目を開ける。そうすると、優しくて柔らかな笑顔がある。でも、それを見ると強く感じるのだ。
嘘つき
この笑顔が嘘ならば、エーディットの前で見せる笑顔のすべてが嘘だ。
この人の、本当の笑顔は、どんなものなのだろうか。どんな時に、誰に見せるのだろうか。
想像すると、エーディットは、なぜか動けなくなった。ランプに照らされた足元が、全く見えなくなってしまったように、動けなくなってしまうのだ。
だから、エーディットもほほ笑み返す。わずかでも、足元を照らせるように。
ラウレンスの嘘は、何のためなのか、エーディットには分からない。
だが、嘘をつく瞳が、どこか寂しそうなのは分かった。エーディットを見つめている瞳は、いつも誰かを探しているようだ。それは、迷子の子どもの瞳に似ていた。
眩しそうに、時折、細められる瞳は、何かを拒絶し、何かから逃れようともがいている瞳だった。
この人は、誰のために偽り続けているのだろうか。
ラウレンスはいつだって、エーディットに微笑む。その微笑は、いつもエーディットに境界線を越えさせてはくれない。それは、エーディットが夢で見る霧のようだった。
そこを超えた先には、澄んだ場所があるのだろうか。
それを、想像してから、エーディットはラウレンスを嫌うことができなくなった。
ラウレンスはエーディットを簡単に絶望させるけど、それでも、エーディットは微笑んでいようと思った。
何のためかは分からない、純粋に自分を想ってくれたわけではない。それでも、他の誰でもないエーディットを選んでくれた人のために笑っていようと思った。