呪う香り、呪われた香り
エーディットは、わずかな荷物が置いてある自室で、本を読んでいた。内容は、退屈なおとぎ話だった。目線は、ずっと同じ文を行ったり来たりしていて、さほど意味はない。
「エーディット様」
「フランカ、」
「エーヴァウト・ケンペル伯爵が、また、いらっしゃっています。お断りしますか?」
「……いいえ、中に入れて。お茶はいいわ。」
ケンペル伯爵は、同じ伯爵でもファンデルよりも宮廷での地位が高い。断り続けることはできない。
「エーディット様!ご機嫌麗しゅうございます。」
「ケンペル伯、ごきげんよう。」
地位の低いはずのエーディットに、この中年の太った男がへりくだるのは、呪いのせいだ。強くチューベローズの香りを感じて、嫌になって一瞬目を閉じた。
「なにか、ご用でしょうか?」
「そのように、連れないことをおっしゃいますな。エーディット様にご不便がないか、よく気を払うようにと、レオナルト様からも言われております。」
「それはお心遣いいただきありがとうございます。でも、必要なものは全て、ファンデルより持ち込んでおりますから。」
「何をおっしゃいますか!ドレスに宝石、王家の財力をもって、新たなものを作りましょう。予算も、そのために、」
「ケンペル伯。エーディット様は、お疲れのご様子です。今日は、これで。」
「……おお。それは気づかず、申し訳なかった。また、伺わせていただきます。」
扉が閉まった瞬間に、エーディットはこめかみに手を軽くあてた。
妊娠中の妻のもとに、話し相手としてあげられた夫人に、どんな役割が求められているのか、ラウレンスは本当に想像しなかったのだろうか。現に、宮廷でエーディットは、ファンデルの嫁としてではなく、別の女として見られている。
だから、エーディット自身も、強く自分にチューベローズの香りを感じるのだ。香らないはずのその香りは、エーディット自身がかけた呪いなのだ。
これが、夫自身が書いた筋書きだとするのならば、なんと巧妙で、憎たらしいのだろう。
エーディットの夫は死地、レオナルトの妻は妊娠中、ならば、この時期に宮廷に入ったエーディットの役割は何か。全員が何を想像し、誰の機嫌を取るために行動するかは、社交に疎いエーディットですらわかる。
だから、地位の低いはずのエーディットにへりくだるのだ。
女というだけで下に見られるのは、腹立たしいことではあるが、下心を丸出しにされて、へりくだられるのは、より胸の底を土足で踏みにじられるような感覚だ。
「エーディット様、紅茶を」
ふわりと爽やかな茶葉の香りがして、エーディットはこめかみに触れていた手をおろして顔を上げた。
「ありがとう、フェナ」
王宮でもともと仕えていたフェナ・クラウフェルトは、クラウフェルト男爵家の次女だ。行儀見習いとして王宮に出仕したものの、途中で実家が没落したため、年金を得るために王の代替わりまで奉公することを選んだらしい。
『話し相手』として、エーディットが出仕した日から、フランカと共に仕えてくれている。
「お疲れでしょう。少し、横になられては?」
「いいえ。午後にも、エフェリーネ様とお約束があるから。」
「……あの男、しつこいですね。財務を担当しているわりに頭の中身は空っぽの様子。」
「だから、予算なんて言い出したのね。」
困ったわ
ため息とともに言葉を吐き出して、今度は深く、紅茶の香りを吸い込む。だが、そこには、チューベローズの香りがあるだけだった。
「エーディット様?」
「ねえ、フェナ。」
「はい。」
「私から、チューベローズの香りはする?」
「え?」
エーディットの質問に、確かにフランカは眉をひそめた。フェナには、その質問の意図はきっと伝わらないだろう。
「……いいえ。そのような香りは致しません。ただ、エーディット様の優しい香りが致します。」
「……そう」
「エーディット様、そのように思いつめないでください。鎮圧さえ終われば、ファンデルに帰れるのです。そうすれば、こんなバカげた噂も消えてなくなります。」
「……ファンデルに帰れるかしらね。」
「エーディット様!」
エーディットは、唇にそっと指を添わせた。指でたどれば、ラウレンスの冷たい口づけを思い出す。
確かに、あの日、ラウレンスは口づけた。その口づけは、冷え切っていたし、その唇は氷のようだった。そして、次の瞬間には、同じ唇で、ただ謝ったのだ。
「これも、あの人の筋書きなのかしら。それならば、なんと残酷なことかしら。私は、帰れなくなってしまうのね。」
春の庭も見ることもなく。
「でも、これで、フランカの望むとおりになるのではない?」
「エーディット様……私は確かに屑以外の男もいると申しました。でも、それはあなたに選択権があるとお話ししたまでです。天使には、選ぶ権利があると、屑と屑以外を。でも、これは、あなたが選びだしたことではない。レオナルトなんて、エーディット様が望んだものではないです。」
エーディットは静かに唇から手を離した。
夫の謝罪の言葉を、もう一度思い出した。その言葉を、その唇が吐き出した、理由はいまだ分からない。
「そうね、フランカ……でも、次代の王を呼び捨てにしてはだめよ。」




