チューベローズの夢を見る
ぼんやりと外を眺めていたエーディットは、ノックの音で頬のなみだを拭った。
「馬車の準備はできた?」
「……はい。奥様」
侍従のトビアスが、わずかな荷物を持ってくれた。
「ありがとう、トビアス。」
もう、思い残すことはない。芝居は失敗したけれど、筋書き通りに動き出した。もう、その結末が変わることはないだろう。
「奥様、手を」
「え?」
「手を、とっていただけませんか?」
段差も何もない場所だったが、トビアスは、エスコートのための手を伸ばしていた。
おかしいと思いながら、エーディットはその親切に手を重ねようと伸ばす。
「私の、手を」
あと少しのところで、そう言葉を重ねられて、エーディットはぴたりと止まった。
「悲しませることも、泣かせることも、しません。」
「トビアス」
ずっとそばにいてくれたけれど、こんな風に話すトビアスを初めて見た。
「奥様が、泡になる必要なんてない。僕がハッピーエンドに連れていきます。」
「トビアス」
「だから、僕の手をとってください。」
ラウレンスは、きっともう戻らない。きっと、もう二度と会うことなどない。なのに、どうして、今、ラウレンスの姿を思い浮かべるのだろう。もう、夫でもなくなる人を思い浮かべる行為は、みじめだった。
「ごめんなさい、トビアス」
「奥様、」
「私は自分で、泡になることを選んだの。」
「それでは、奥様が、あまりに……っ!」
トビアスの唇が続きを紡がないように、人差し指を当てた。レース越しに触れた唇は、夫のそれよりも熱かった。
「好きなの。ラウレンス様が……好き。」
エーディットは、初めて迷いなく言葉にした。演技でも、必要だからでもなく、初めて口にしたエーディット自身の言葉な気がした。
「だから、泡になるの。」
トビアスは、エーディットの空中に止まっていた左手を見つめた。そして、捕まえるために手を伸ばす。触れた瞬間に、トビアスが本気なのだと分かった。
「トビアス、そこまでだ。手を、離せ。」
エーディットもトビアスも飛び上がるようにして、扉の方に目を向けた。そこには、もう二度と会うことはないと思っていたラウレンスが立っていた。
「狂わされたのだと思って、一度だけ目をつむってやる。だが、一度だけだ。」
トビアスは、ゆっくりと名残を惜しむように、エーディットの左手を離した。
こんな浅はかな夢を見るなんて、いつの間に、眠っていたのだろうか。早く夢から醒めなければ、傷つくのは自分なのに。エーディットは、一つこぼれ落ちて頬を濡らした泡を手で拭った。
「エーディット、こっちに来て。」
導かれるままに手を伸ばすと、夫はエーディットを抱きしめた。何もかも知りたくない、そう思った。
「どうしてですの?」
「まあ、ちょっと、後始末に時間がかかっちゃったって感じ。」
ほら、外套、脱いで
そう言って、紺色の外套を脱がせて、ぼんやりと立っていたトビアスに渡す。トビアスは、ここに残って働くことを選んだのか、頭を下げて、部屋を出た。
「やっぱり、このワンピースがよく似合う。とっても、かわいい。」
「……筋書きは?」
「うーん、気に食わないから変えたんだ。」
「そう、でしたの。それでしたら、私は、どうすれば?」
「結末を、変えたんだ。」
「どうして?」
エーディットは、自分の体が震えていることに気づいた。抱きしめられて、温かいはずなのに、寒い気がする。
エーディットは思い出す。
強く握ってはいけない。愛は壊れやすい。
エーディットも、そうだ。エーディットは泡と同じ、壊れやすい。抱きしめられた記憶に縋る泡は砕けた後、痛みに苦しむことになる。
「エーディットと同じだ。好きだからだよ。」
エーディットのことが
そう続いた言葉は、自分の想像の中のものだったのだろうか、それとも夫の言葉だったのだろうか。分からなくなって、顔を上げる。
「エーディットが、好きだから」
エーディットは微笑んだ。一瞬、霧が晴れたのではないかと思ったけど、エーディットには分かった。
「嘘つき」
「嘘じゃない」
「うそ。ラウレンス様は嘘つきよ。今まで、私に嘘ばかりついてたわ。」
「嘘じゃない。エーディットを愛してるから、泡にはしない。今更だ、わがままだ、そういわれても、泡にはさせない。絶対に。」
嘘ならばよかったのに。エーディットはそう思った。
そうすれば、また、わたしもです、と芝居をすればいいだけだ。でも、ラウレンスの瞳は、嘘をついていなかった。
「間違えたのは、俺だ。だから、俺から始めることはできない。許してほしいとも、愛してほしいとも言えない。だから、いつか、許せる時が来たら、エーディット、君から始めてくれないか。」
それだけで、構わない。いくらでも待てる。
夫は、抱きしめた力を緩めた。力強く握り過ぎないのは、愛を壊さないようにだろうか。
「許せないわ、たぶん。」
ラウレンスの腕に一瞬、力がこもって、そして緩む。
「今、始めてくださらないなら、絶対に。」
エーディットの答えは、正しいのだろうか。自分は道を間違えてはいないのだろうか。筋書きから外れてはいないだろうか。
そんなことが頭をよぎったけれど、今だけは、今この瞬間だけは、エーディットはラウレンスと夢を見たかった。
これが、ラウレンスが見せた夢なのだとしても、二人で見られるのならばそれでも構わないと思った。
「エーディットが、望むなら」
そう言って、ラウレンスはエーディットの唇に唇を近づける。
「今度は、目を閉じて。エーディット」
エーディットは、ふふっと笑って、目を閉じる。甘い香りもチューベローズの香りもしないキスだった。
目を閉じてみる夢は、いつか醒めてしまうだろう。
でも、今だけは、何も知らずに夢を見たい。ラウレンスの生きる現実を知らずに、夢を見ていたい。
冷たい唇の感触に、エーディットは微笑んだ。
泡になるのは、少し後にしよう、そう思った。
君と、いつか醒める、夢を




