ゼラニウムの憂鬱
ラウレンスは、エーディットと初めて会った日のことを意外にも覚えていた。
自分でも、意外だと思ったが、デビュタントのバラを付けたエーディットを覚えていた。その娘が、自分の妻になると想像したことは一度もなかった。
イレギュラーの連続で妻になることに決まったエーディットを、そのデビュタント以外で見たことはない。社交場に顔を出すことはなく、静かに領地で過ごしている、特筆することのない娘だった。
「お父様、」
「エーディットは心配せずに、踊っておいで。」
「……いいえ、お父様」
「踊らなければ目立ってしまう。」
「足をくじいてしまったの。きっと、慣れない靴を履いたせいね。」
「エーディット」
利口な娘だと思った。目的のために、美しい嘘をつく。その嘘と相手が踊るのを待っているだけで、それ以上、仕掛けたりはしない。
「……そうか。ならば、今夜は早めに帰ろう。」
「そうね。田舎娘には眩しすぎて、足元が見えなくなっちゃうもの。」
フリット・デ・メイが嘘と踊ったのを見て、ラウレンスは視線をそらした。これ以上、メイ家の話を伺ったところで、有益な情報は得られないだろう。
メイ家にとっては、社交場は決して居心地のいいところではない。そこで、余計な口を滑らせるのは、メイ家を見下す周囲の人間だけで、肝心のメイ家は口を閉ざすだけだ。
赤毛に不思議な灰色の瞳をした娘は、幼さを装うように笑った。その瞳は恋情も慕情も知らない色をしていたが、それが演技なのか本当なのかは分からない。
この瞳に自分が狂わされるとは、思いもよらなかった。
執務室で、ラウレンスは資料を静かにめくっていた。先ほどまでは、第一王子がいたから進んでいた仕事が、止まってしまっていた。王子妃の体調が優れないと聞けば、役にも立たないくせに飛んでいくのだ。
帰る刻限が近づいている。どうせ、仕事は進まないのだからと、ラウレンスは帰り支度をしようと椅子から立ち上がる。
「いつになったら、気づくだろうか。」
部屋に残っていたエデゥアルトが、突然口を開いた。
「さあ?そろそろ本気になる頃合いだと思うけど。俺から、何も言えないからね。」
「気づかせなくていいのか。第二王子が先に気づけば、あの凡庸な男がこの国の王になるぞ。」
「それは、それで構わないよ。凡庸なのは悪いことじゃない。でも、たぶん凡庸だから気づかないよ。」
ラウレンスは、エデゥアルトとの会話の凡庸さに辟易していた。何もせずとも、おそらくレオナルトは気づく。その優秀さを落ち着きのなさというつまらない演技で塗り固めているのは、妻を守るためだったのだから。妻に子どもという盾ができれば、その演技を続ける必要はなくなる。
「レオナルト様は、凡庸なのか。」
「違うね。あの人、鷹だから。そんなこと、アルトの方が分かってるんじゃない。」
「だから、不安なのだ。」
「アルトは、甘ちゃんだね。」
エデゥアルトが、静かに顔を上げた。
「なんのまね?」
「なんの話だ。」
「お前、自分が思うほど、無感情じゃないよ。すぐ、顔に出る。」
ラウレンスは、部屋を出るために、一歩足をすすめた。
「待て、少し続きを、」
「何を待つの?いや、何を待ってるの?アルトがさっきから、時間を気にしてることくらい分かってるよ。てっきり、帰りたいのかと思ってたけど、違うみたいだ。」
俺を、帰したくないんだね。
ラウレンスが簡単に答えを導き出せば、エデゥアルトは瞳を歪める。アルトは甘い。
「約束した。」
「誰と」
「……エーディット殿だ。」
ラウレンスがエーディットに狂ったのは、いつからだろうか。自分では、全く分からない。自覚がなく暴力的に狂ったラウレンスは、エーディットを傷つけた。自覚を持ってからは順調に狂っていた。ほかの男からエーディットの名前を聞いただけで、頭のどこかが焼ききれそうなくらいには狂っている。
「なにそれ。」
「殺気を向けるな。今日、エーディット殿は実家に戻り、メイ家の養子になったディアナがお前に代わりに嫁ぐことになっていた。書類はまだ揃ってはいないが、フリッツ・デ・メイは承知した。」
「なにそのくだらない筋書き。へたくそすぎて冗談にもならない。」
「エーディット殿が書いた筋書きだ。」
ラウレンスが部屋を出ていこうとするのを見て、エデゥアルトは慌てたように大声を出した。暴力的な狂気がエーディットに向くことを恐れたのだろう。
「ラウレンス、待て!確かに、これはエーディット殿が書いた筋書きだ。でも、エーディット殿は、お前との離縁を望んでいるわけじゃない。」
「じゃあ、なに?」
「おそらくはお前への愛ゆえだ。」
「おそらく?笑えるね。」
「ハッピーエンド、そう言っていた。お前にハッピーエンドを贈るつもりなんだ、あの人は。」
ハッピーエンド。エーディットのいないハッピーエンドの続きを、ラウレンスは簡単に想像できた。この抑えられない狂気が、ラウレンスも、エーディットも殺しかねない。
「お前は、俺が、何に狂ってるか知ってたはずだろう。」
「知っていた。でも、お前は、ディアナを逃がした。だから狂気よりも、ディアナへの愛情が勝ったのだと思った。」
「……本当に、そう思うか。」
「いや……思わない。すまん。」
ラウレンスは、いつからか狂った。そして、この先も狂い続けることになる。ラウレンスは、それでもいいと思った。傷のなめあいだけで成立した愛情よりも、ラウレンスの妄信的な狂気の方がずっと穢れていて汚濁のようだったが、自分には、その感情の方がずっとふさわしく思えた。
エーディットがオルゴールの上で踊るのを想像する。その足は、折れていて、痛々しく包帯が巻かれている。だから、ラウレンスは支えるために、その手を取るのだ。
手を取るためなら、足を折ったってかまわない。踊り子のエーディットは、ラウレンスなしでは踊れない。
それでいい。それがいい。ラウレンスは真実そう思っていた。
祈ること、それは、罪




