握りしめたオミナエシ
愛は泡のように壊れやすい。だから、強く握ってはいけない。強く握れば握るほど、割れた泡の破片は手のひらに突き刺さって、離すときに痛みを増す。
だから、強く握ってはいけないのに、ラウレンスと握り合った右手は、離した痛みを克明に覚えてしまった。
痕になってしまった傷は、強く握った代償だ。手離すときに、痛くなった。
「っ、」
ラウレンスは、ベッドの上で、傷口を消毒されている。ホフマンは、迷いなく傷口をえぐるように拭った。ラウレンスの両手が、ベッドのシーツをしわになるほどに掴んでいるのを見て、エーディットの傷が痛んだ。
「だから、お前に治療されるのは嫌なんだ。痛みを取らなかったのもわざとだろう?」
ラウレンスの傷は、まだふさがり切っていなかった。ガーゼの向こうに見えた盛り上がった肉は、生々しい。
「やだ、やだ、疑い深い若造め。わざとではなく、あえてだ。」
エーディットは、壁際に立っていたトビアスに目線を向けた。察したように、ホフマンの荷物を片付けはじめ、まとめたカバンを手に持った。
「……」
横に静かに立ったトビアスを、白髪のホフマンが見上げる。
「奥様、」
ホフマンの呼びかけに、エーディットは微笑んだが、本当は早く帰ってほしかった。
「今日こそ、治療を、」
「先生、ありがとうございました。トビアス、」
トビアスは無言で、ホフマンの腕をとり、有無を言わせず、さりとて無理やり過ぎない力加減で立たせた。
「おい!老人扱いするな!自分で立てる!」
「治療って、なんのこと?」
騒いでいるホフマンを無視して、エーディットに、ラウレンスは目を向けた。ベッドサイドの椅子に座っているエーディットはレースの手袋をしていた。ラウレンスが傷を目にしたことはない。
「さて、何のことだか。」
「小僧め!年長者を敬わんか!おい!離せ!」
扉の近くまで強制的に連行されているホフマンは、細身のトビアスに敵わない様子だ。
「おい、若造!」
「……なに?」
「いい加減、自覚させた方がいいぞ。」
ホフマンは、扉の枠に両手をついて、トビアスに抵抗していた。さすがに礼を失していたので、トビアスにわずかに首を振った。トビアスが、手をゆるめる。
「ほら見ろ。」
エーディットはわずかに首をかしげた。ラウレンスは、ホフマンを見て、小さくため息をついた。
「トビアス」
ラウレンスは、ただ、トビアスの名前を呼んだだけだったが、先ほどよりも強い力でホフマンをお見送りし始める。
「若造!」
ホフマンの叫び声が響き渡っていたが、だんだん遠ざかり玄関に消えていった。
「……エーディット、それで、何を隠しているの?」
「隠し事?私がですか?」
「そう。」
「ラウレンス様に隠し事をしたことは、ございません。」
あなたとは違って。
エーディットは微笑んだ。必要のないことを報告しないことはあっても、隠し事をしたことはなかった。何かを隠す必要はない。隠さずとも、ラウレンスは興味を示さないからだ。
「……言い張るなら、聞かないけど。」
「必要なことは、報告申し上げていますわ。」
エーディットは、手の傷の痛みを思い出す。
これは、隠し事かもしれない。醒めない夢の中で、一瞬見た現実を、誰にも奪われないようにレースの下に隠した。
この傷の痛みを思い出すと、自分が抱いた感情の名前を思い出す。もろくて儚い泡は手の内側で砕けて消えた。




