リンドウを愛すること
主人が結婚するといった時、相手はディアナだと思った。同じ影として生きてきたフランカとディアナの違いは何か時折考える。フランカは、ラウレンスの父・エルンストに拾われ、ディアナは、ラウレンスに拾われた。
主人の冷酷さや残酷さの違い、ディアナとフランカの外見の違い、挙げだしたらきりがないけれど、ディアナはとかく幸運な影だと思った。
でも、ディアナは傲慢な影だとも思った。拾った主人が目をかけてくれているというのに、ディアナは傲慢にも恋をしていた。
影が恋をしていること自体が、傲慢だったし、愚かだと思った。
ディアナは美しい。ディアナはその美しさでどんな情報も手に入れられた。でも、とても傲慢で、愚かで、影としては失格だと思った。そんな人が主人になるのかと思うと、少し憂鬱だったけれど、フランカはそれが仕事ならば仕方がないと、すぐにあきらめた。
「……フランカと申します、奥様。」
簡素な式から帰ってきた女主人は、フランカの声に振り返った。淡く微笑んだ顔は、ディアナよりもずっと幼い印象だった。髪の色も目の色も違うその女性は、似合わないウェディングドレスを着せられていた。
フランカが女主人は、ディアナになるのだと思った理由は、部屋の雰囲気も、身に着けるドレスもアクセサリーも、どれもがディアナにあつらえたようだったからだ。
だから、戸惑った。
「私は、エーディット。よろしくね、フランカ。」
ディアナとは違う、貴族の傲慢さを持った女性だったが、それを不快には感じなかった。淡い微笑みが、失くしたはずの心を揺らす気がする。着替えを手伝って、寝室に案内してから、フランカは一種の焦りのようなものを感じていた。
「エーディット様……」
小さく呼びかけてみると、エーディットは不思議そうに小首をかしげた。
「フランカ、下がっていい。あとは、二人で過ごすから。」
いつの間にか、ラウレンスに後ろに立たれていた。影として生きてきた自負がある。ラウレンスの気配に気づけなかったことにも驚いたが、それよりも自分が今、何を言おうとしていたか、そのことに驚いた。
逃げて
そう言いそうになっていた。初めて会った女性だ。
この人が、この後どんなひどい目にあわされるか、分からない。でも、そのすべてから、この人を逃がしてあげたい。そう思ったことに、フランカは驚いた。
ラウレンスは、そんなフランカの心までは読み取れなかったのかもしれない。いや、フランカに心などないと思っていたのかもしれない。自分自身、とっくに失くしたと思っていたのだから。
フランカを、エーディットの監視役にした。それは、エーディットを早急に排除させるためだと分かった。
エーディットは人質だった。そして、気づかなければ、始末される運命のお飾りの妻だった。
ラウレンスは、最短でエーディットを始末して、最初の計画通り、ディアナを妻にするつもりなのだ。
だから、エーディットを抱かないし、フランカに監視させる。
「あれは、気づいた?」
「……おそらくは、まだ。」
そう答えながら、フランカはおそらくすぐ気づくだろうと思った。初夜の翌日、フランカが、ゆっくり休ませろと言付かった、たったそれだけ告げただけで、エーディットは自分が危うい立場にいることを理解した。
それほど、賢い人が、気づかないはずない。
フランカは、どちらがいいのか分からなかった。エーディットは気づくべきか、気づかざるべきか、分からない。
フランカは、近くにいればいるほど、エーディットを逃がしたいという気持ちが強くなった。生粋の貴族であるエーディットは、傲慢で、かわいそうで、とても愛しかった。
そう感じているのはフランカだけでなく、近くで仕える影は、この何とも形容しがたい感覚に、骨抜きにされた。
「あれは、気づいた?」
それと同時に、自分の主人もおかしくなっていることに気づいた。一日に何度もエーディットが気づいたか気にするのだ。
興味のないものに、一切意識を払わないラウレンスが、エーディットを気にし続ける。
一度、描いた筋書きが走り出したら、ラウレンスは、必要時以外の報告を必要としないのに、何度も何度も尋ねるのだ。
「だから…まだです。」
わずかに、だから、という言葉を強めた。ラウレンスは、報告書から一瞬顔を上げた。その顔を見た瞬間に、これが無意識の行為なのだと気づいた。
そして、自分がエーディットを気にしていることに、今、気づいたようだった。気づかせるべきではなかったと思った。
「奥様、どういたしましょう?」
「そうね、ブラムには纏まったお金を渡してあげて。お父様がお怪我をなさったならば入用だろうし、多めに。あと、ファンデル家のお医者様をお連れして。」
「そこまで、なさるのですか。」
エーディットは、チューベローズの香りにも、フランカの正体にも気づいた。でも、エーディットは変わらなかった。傲慢な貴族の妻として、施しをして、そして、夫を献身的に支える妻でいることを選んだ。
唯一変わったのは、微笑みの種類だった。柔らかく、自然に、それでいて、はにかんだように微笑んでいたのに、今は同じ判で押したような微笑みだった。
ラウレンスは、相変わらずおかしかった。エーディットの動向を気にして、そして、微笑みの性質が変わったことに気づいて舌打ちしていた。
ラウレンスはおかしい。
この屋敷にいる影たちが、こぞってエーディットの訳の分からない雰囲気にやられている中、ラウレンスだけ、どんどんおかしくなっていった。
目的と手段、指示と行動が一致しなくなっているラウレンスに、みんな恐れおののいていた。
おかしくなって、エーディットを刺し殺しやしないだろうか。ひそかに、順番に、寝室を監視していた。
だから、知っていた。ラウレンスが雷の夜に、エーディットを抱きしめたことも、エーディットが泣いていたことも。
「エーディットは、気づいた?」
あれ、という名称からエーディットに変わったのは、積極的な妨害を始めた時からだ。
ドロテアを使った妨害は、エーディットを傷つけた。天使を傷つける行為に、影ははらわたが煮えくり返っていたが、一方で安心していた。これで、主人が、密室でエーディットと二人になる時間が短くなる。
もちろん、エーディットが眠る寝室を警護することはつづけた。
ラウレンスの狂気は、それだけ危険で、破綻していたからだ。
「フランカ、フランカ」
「……どうしたの?エルマ」
つい最近、天使に名前を覚えてもらったと喜び狂っていた影の一人が、慌てた様子で走ってくる。
「トビアスから。ラウレンス様が図書室に行ったって。天使様は?」
「……今は、お部屋にいるわ。でも、何してるのかしら。」
「わかんないけど、鉢合わせはまずいよ。フランカは、天使様の近くにいて。私見てくる。」
フランカは、すぐに、エーディットのもとに行った。もちろん、言い訳として、お茶と菓子を手に持った。すごい速度で、影たちが、湯を沸かして菓子を盛り付けていた。
「奥様?お茶とお菓子をお持ちしました。」
「ええ、でも、私、そろそろ図書室に行こうと思うの。そっちで、飲むわ。」
「いえ、でも、」
「調べものがしたいの。」
フランカは、慌てて制して、ソファに座らせる。エーディットは戸惑って、小首をかしげながら、それでも座ってくれた。
「先ほど、本を移動したときに、ほこりが大量に出てしまって、今慌てて掃除しているのです。終わるまで、お待ちいただけませんか?」
「そんなこと、気にしないわ。」
「奥様のお体に何かあったら……」
そう告げると、エーディットは一瞬悲しそうな顔をした。きっと、体に何かあっても、ラウレンスは悲しまないと思ったのだろう。
フランカもエルマもデルクも、他の影も、絶対に嘆く。それに、おそらくラウレンスは脳みそのどこかが焼き切れて、今よりおかしくなるだろう。
「終わるまで、ここにいればいいのね?」
「ええ」
一口だけ、アップルベニエを口に運んで、エーディットはフォークを止めてしまった。
ノックの音に、フランカは、振り返り外に出た。
「どうだった?」
「分からなかった。意味が分からないんだけど、本の配置を変えてるの。」
「……本の配置?妨害のため?これ以上、複雑に並べられたら、」
「違うの。全部、集めてるの。」
「え、」
「奥様がよく見る棚に、全部、必要な本と資料を、ご丁寧に並べてる。」
エルマは戸惑った様子だったが、フランカはすぐに理解した。
フランカや、エルマがそうであったように、ラウレンスも狂ったのだ。ラウレンスも、エーディットに、狂ったのだ。自覚がなくて、暴力的で、排他的だったけど、確実にラウレンスは、エーディットに狂っている。
だから、フランカは本気で思った。
どうやって、エーディットを逃がそうか。このままでは、エーディットは泡になってしまう。
愛されなくちゃ、愛さなくちゃ、




