冷たい海のリナリア
侵略に悩まされ続けてきたリピーヴァ王国では、長らく社交界が機能していなかった。
家同士のつながりを作るための子女の結婚が、捗っていないのは想像に難くない。
結婚適齢期の娘たちは、相手が定まることなく、乙女と呼べる短い時間を、焦りながら過ごしているのだ。
残念ながら、この5年間で適齢期を過ぎてしまった娘もいるだろう。そんな娘たちの間でひそかに流行っていたのが、恋愛結婚を題材にした芸術だった。
エーディットも、秘かに流行の本を読んだ。美しくもなく、男性を喜ばせる術も持たず、そうあろうと努力するわけでもない自分が、そんなものを夢に見るなんて恥ずかしくて卑しい気がした。
だから、その本は、すぐに貸本屋に売ってしまった。興味などないと思うことで、恋愛とも結婚とも無縁な自分を、なかったことにしたかったのかもしれない。
「だから、かしら……」
「どうしました、お嬢様?」
首を傾げたベチェの金色の髪が揺れる。結婚式のために結われた自分の赤い髪を見るとため息が出そうになる。
エーディットはわずかに首を振った。
だから、婚約を交わしても一度も会うことなく、手紙のやり取りをすることもなく結婚に至ることになったのだろうか。
確かに、落ち着いたとはいえ、リピーヴァが侵略の脅威を取り除けたわけではない。
騎士であるラウレンスには、恋愛ごっこに興じる暇はなかっただけの話なのだろう。
「お嬢様は、とても幸運です。」
「どうして、ベチェ?」
「ファンデル家は、決して高い家格ではありませんが、実力は確かです。それに、次代のラウレンス様は、陛下の覚えもいい。それになにより、ラウレンス様の実力であれば、お嬢様が寡婦になり辛酸をなめる心配もありません。カルラ様とは違って。」
「でも、カルラお姉さまは、とても幸せそうだわ。お義兄様は確かに、騎士としての実力は高くないけれど、家族を大切にする能力にたけているもの。」
騎士の妻にとって寡婦になることは恐ろしいことだった。
特に、実家に戻ることを許されない娘たちにとっては。
父が生きている間は、エーディットには戻る場所がある。だが、父が死に、従兄が家を継げば、一度嫁いでしまったエーディットに戻る場所はなくなる。
だから、ベチェはエーディットを恵まれているというのだ。騎士としての実力が申し分のない夫に嫁げば、寡婦となり肩身の狭い思いをしなくて済む確率が高くなるから。
手紙のやり取りもなく、会ったことも一度もない人であっても、その全てを差し置いても、ベチェにとって、ラウレンスはよき夫なのだ。
白いウェディングドレスに、母が遺したダイヤのネックレスをする。ティアラは長姉に、指輪は次姉に譲られた。残されたダイヤのネックレスは、簡素だが、とても美しかった。
少ない持参金と、小さなダイヤ、そこにファンデルの求める価値はきっとない。
そして、エーディット自身にも、ファンデルが求める価値はない。だから、エーディットはこの結婚になんの期待もしていない。
エーディットの価値は、エーディットが一番よく知っている。だから、怖くてたまらない。寡婦になるよりもずっと、妻になることのほうが恐ろしかった。
この先、何が待っているのか、わからない。きっと、待っているものは、物語のように温かいものではなく、冷たいナイフのように、エーディットを傷つけると思った。