欠けた月とコニウム
泡になる前に、王子様が歌声に気づけたら、結末は変わっていたのだろうか。
窓をほんのわずかに開けて、エーディットは月を見上げる。満月になりそこなった月が、エーディットの赤毛を照らし出していた。
満たされない月は、ラウレンスのようだ。
「奥様」
冬がまた一歩、近づいて、時たま、窓の隙間から入る風は冷たい。
「旦那様は、今夜も遅くなるとのことです。先に休まれた方がよろしいかと。」
「そうね。」
そう返事をしながら、エーディットは動かない。
エーディットが、答えを見つけてからも、ラウレンスとエーディットの関係に変化はない。人質から格上げされたはずのエーディットは、人質から何になったのだろうか。
振り返って微笑むと、所在なさげに立っていたフランカが顔を歪めた。以前、同じことがあった時、エーディットはフランカが監視者なのだと気づいた。
でも、今のフランカは、ただ悲しそうだった。フランカは、何かを知っていて、隠している。
「そんな顔を、フランカがする必要はないわ。」
泡になるのは、自分一人で構わない。
今、ラウレンスが誰とどこで、この月に照らされているのかエーディットは知らない。知りたいと思ったことはない。知る権利を与えられたこともない。
風にあおられて月が雲に隠れた瞬間、目の前の窓がぱたんと音を立てて、閉まった。風ではなく、後ろから伸ばされた手によってだった。
几帳面にリズムを刻んでいた心臓が、その拍子から外れる。エーディットは、驚いて振り向いた。
夫が、静かに立っている。夫が音を立てないことくらい、エーディットは気づいていたが、さすがにこれには驚いた。
「驚きましたわ。お帰りなさいませ。」
ラウレンスからの返事はない。月が隠れたせいで、ラウレンスの表情はうかがい知ることはできなかった。
「なんで、今日に限って、」
「え?」
外から戻ってきたはずの夫から、冬の夜の冷たささえ感じない。ただ、覚えのあるチューベローズの香りがほのかにするだけだ。
残酷な香りだ。エーディットを、絶望させる香りなのに、どうしてだか、今は何も感じない。
まただ。そう思うわけでもなく、絶望するわけでもなく、ただ、この先に何が待っているのか恐ろしくなった。夫が背中にナイフを突き立てるから、霧の中、ランプも持たず、一歩先の崖に足を踏み出さなければならない。そんな気がした。
ラウレンスの手が、エーディットに伸びて、その手は容赦なくエーディットをベッドに引きずり倒した。
この手に触れたのは、言葉だけの宣誓をした時と、雷の日、その2回だけだ。
なんだか、泣きたくなった。
自分に、やっと、役割が与えられる。待ち望んでいたことであるはずだったのに、エーディットは泣きたくなった。
この家で生きる意味を、生き残る術を与えられるだけのことだ。悲しむことは何もないのに、なぜ、泣きたくなるのだろうか。
膝の間を割り開くように、ラウレンスの体がねじ込まれる。手首は、ラウレンスの掌で抑え込まれて、骨がきしむ音を立てた。
この掌が、エーディットの首に伸ばされたら。
そう想像すると、背筋が凍ったけれど、それは救いのようにも思えた。ラウレンスが、殺してくれたら、救われる気がした。
ゆっくり、瞬きをする。右の目から一筋だけ、涙がこぼれた。
「くそっ」
ラウレンスは、ただ一言だけ、そうこぼして、部屋を出ていった。
人魚姫も王子に殺されていたら、泡にならずに済んだのだろうか。人のまま、死ねていたのだろうか。
泡に消えていく前に、殺されたい。ラウレンスの手で。エーディットは、ただ、そう思った。
泡になる、それは、きっと宿命




