スイセンと雨音
昼間に感じた湿った風は、夜になると嵐を連れてきた。
雨の中、戻った夫からは、やはり外の香りはしない。雨の香りも、風の匂いもしない。ただ、チューベローズの香りがする気がした。
それが、記憶の中での香りなのか、実際の香りなのか、エーディットにはもう分からなかった。
雷の音がする。
エーディットは、ベッドに横になったまま、隣に眠る夫の背中を見つめていた。雷のたびに、夫の広い背中が一瞬見える。
騎士らしい大きな背中だ。騎士を名乗るには、長くペンを握りすぎた父とは違う背中だ。
雷の光が見えて、エーディットは耳に手をやった。音が鳴るまでの間、ラウレンスの背中を見つめたまま、エーディットは数を数えた。
1、2、3、4、5、音が鳴る。
そんなことを繰り返して、エーディットは両耳をふさぎ続ける。こうしていなければ、夫の背中に手を伸ばしそうになってしまう。
香りを纏わないエーディットには、許されないことだと思った。震える両手を懸命に止めようと、ゆっくり呼吸する。掛布から出ている指先は、ひどく冷たかった。
エーディットは、ラウレンスに背中を向けるように、寝返りを打った。そうすると窓が見える。
寝るときに、カーテンを引かなかったから、たたきつける雨が窓を濡らすのが良く見えた。稲光のせいで外が、一瞬、昼間のように明るく見える。
今、窓を開けて、バルコニーに出たらどうなるだろうか。雨に濡れた体は、届かない手の悲しさを誤魔化すように、震えてくれるだろうか。
エーディットは、それが良いひらめきのように思えて、両手を耳から離した。バルコニーに行けば、孤独から解放される気がした。
「エーディット」
声とともに、掛布の中に引き戻される。背中に温かさを覚えて、驚いたように一瞬体に震えが走った。
お腹に回された力強い腕は、エーディットが動くことを許さない。
「ラウレンス様、」
「冷えるよ。」
声が震えた。今度こそ、バルコニーに飛び出したくなるが、身動きは取れなかった。いつも見ているだけだった、その手は、ラウレンスが騎士であることをエーディットに証明するかのようだ。
どうしてだろう。一度も、触れたことのなかった手が、エーディットを抱きしめている。抱え込まれると温かくて、震える必要などないと思えるのに、どうして、こんなにも虚しいのだろうか。
どうしてだろう。涙が出てしまうのは。
エーディットは、瞼を閉じた。現実など見たくない。抱きしめられた腕の強さも、体の温かさも、知らないままでよかった。
そうすれば、気づかずに済んだ。この腕に焦がれる理由もチューベローズに対する感情も、気づかずに済んだ。
これは、恋情だ。だから、膿んだ傷が、ふさがらないのだ。
これが、きっと最初で最後。だから忘れないように、温もりも強さも、包み込む手の大きさも、刻み付けた。
今だけは、チューベローズの香りを忘れたい。雷の音を聞きながら、エーディットは、何度も何度も心に刻み付けながら、眠りについた。
それなのに、夢の中で、エーディットは霧の中に立っていた。手には、ランプはない。霧から、わずかに香りがする。それは、絶望と虚しさの香りだった。
偽りの心、それは、優しさ?




