PHASE.6
「わたし、実はある事情でおうちにいられなくなってしまったんです…」
と、九王沢さんは、意味深なことを言った。家にいられなくなった。それは…どんなことだろう。そもそも何が起きると自宅に住めなくなるのか、考えるだけでいろんな理由が思いつくが、何しろ相手は九王沢さんである。例えば賃貸だったとしてお家賃を払えなくなったとか、周辺で火事とか水害とか避難が必要な事故が起きたとか、そんな理由であるはずがない。
「え…それってつまり、追い出されたの?誰かに?」
重たい沈黙を破って依田ちゃんが、気になることを尋ねる。
「いえ…そうではありません。那智さんにも以前、少しお話したかと思いますが、わたし、皆さんと同じ、一人暮らしですから」
「えっ、ああ、あれっ本当に!?」
思わず、大声を上げてしまった。正直、あんまり本気にしてなかったんである。でも、これでほっとした。パートナーに追い出されたとか、僕の知らない誰かと住んでいた、とか、まずそう言うことはない、わけだ。
「はい、わたし、何度かステイやシェアの経験はあるんですけど、自分だけのおうちを借りるのはこれが初めてで…」
楽しかったわけである。九王沢さんは、初体験が大好きなのだ。しかし今は、その幸福な生活も一転、涼花の会社で肩身の狭い居候なわけで。
「ごめん、なんか聞いててあたしも先輩も話が見えてこないよ。だから、はっきり言って。実際、何があったの?」
「そ、それは…その…それが実は。わたしがここで話しても、信じてもらえないかも知れないですので…」
百聞は一見に如かず、と言うことで。
児玉さんに車を出してもらい、僕たちはついに九王沢さんの自宅訪問へ。
「涼花、なんでお前がついてくるんだよ?忙しいんだろ芸能人」
後部座席に依田ちゃんと涼花とで、三人はきつい。女の子二人にシートを占領されて、こっちは肩身が狭くて仕方がないのだ。
「わたし、今日は貴重なオフなんです。那智さんにどうこう言われる筋合いはないですよーだ。…そもそも那智さん、この車、わたしの会社のなんですけど。なんならそこで降りてくださいよ」
とことんかわいくない涼花である。そこらじゅうのテレビでやってるハイブリッド車のCMでは、あーんなにかわいい顔でおねだりしている癖に。
「あ、あの。次の交差点、過ぎたところ。コンビニの角を右にお願いします…」
すると恐る恐ると言った体で、九王沢さんが運転席の児玉さんに指示をする。坂の多い街の見晴らしのいい立地だ。都内でも土地柄は良さそうだが、それほどゴージャスな感じはしない。
マンションの規模は、涼花の事務所と同じ程度、と言ったところだ。大学生が棲むには少しお高めではあるが、決して途方もないわけでもない。ごく普通の一人暮らしをしたい、と言う九王沢さんの希望に適ったものではあったのだろう。
「ここの、九階です…」
と、何かを恐れながら九王沢さんは、僕たちを案内する。四、七、十、十三階のボタンがあるマンションのエレベーターは十階で停まり、そこから部屋番号に応じて階段を降りるのである。
「えー、いいマンションじゃん」
お世辞でもなんでもなく、依田ちゃんなどは、言っていた。ベランダからの見晴らしもいいし、室内プールやジムと言ったアメニティ施設なども充実しているようだ。
ちなみに部屋番号は901、角部屋。もちろん間取りも涼花の借りたマンションよりもかなり、広そうである。
「わー、いい眺め。わたしたちもここにすれば良かったです、ねえ児玉さん」
涼花も見物気分で騒いでいる。鍋の道具も持ってきちゃったし、僕たちはちょっとはしゃいですらいた。
この時点では、である。
「で、いったい何があったの、九王沢さん」
「あの、那智さんも、皆さんも…驚かないでくださいね」
乞われるままに案内しながら、ずーっと落ち着かない様子の九王沢さん。驚かないでとか、怖いことを言っているが、とりあえずここまでで、驚くべき要素は見つからない。何かトラブルで住めなくなったと言う雰囲気もまったく、しないけど。
「では、どうぞ」
と、九王沢さんは僕を促す。自分の家なのに。なぜか先に入るのは、僕らしいのだ。
「じゃ、じゃあお邪魔します…」
強い違和感がしながら、僕がドアを開けたそのときである。
驚くべきことが起こった。
「あれっ…」
入室できない。お邪魔出来ないのである。玄関ドアを開けたのに。なぜかそこから、入れない。なんとなれば僕の目の前にあるのは、玄関じゃないから。
壁である。
ドアの向こうは、壁であった。いや、壁っておかしいだろ。いくら九王沢さんだからと言って、住まいが異世界と言うわけではないはずだ。しかし僕の認識は甘かった。そこは確かに、人が棲める場所ではなかったのである。
僕はとりあえず部屋へ入るのを諦めて、その壁がいったい何なのか、確かめることにした。名状しがたい恐怖が、予想もしがたいさらなる驚愕と共に、僕の身体を突き抜けていったのは、そのときであった。これは『壁』ではない。いや、壁のはずないでしょ。入ってすぐ壁なんてマンション、存在するはずがない。これは、
「本…?」
本であった。真っ黒な大判の本が山積みになっている。と言うか、ぎちぎちに詰まっている。それが玄関スペースまではみだし、人間の侵入を拒んでいたのである。いや、なにこれ?
「どうしてこうなった!?」
「いやあああ、ごめんなさいッ!」
僕に謝られても困る。だが僕を含め四人、言葉もない。本屋もびっくりのまさかの『本』屋敷である。いや、屋敷じゃないだろ。これ、ただの書庫だ。と言うか、どうやったらこんな、玄関スペースまで建材のようにぎっちり本が積みこまれた環境が実現するのか、僕には分からない。
「わたし…本を捨てられないんです…」
と、九王沢さんは蚊の鳴くような声で言った。
これが真相だったのである。誰か、ではない、この大量の蔵書に持ち主である九王沢さんは追い出されたわけだ。
「日本で念願の一人暮らしを始めたので、自制するようにはしていたのですが…その、本屋さんに寄るたびについつい、買いすぎてしまって。…こんなことに」
僕たちは唖然とするしかなかった。この子、やっぱ規格外である。いくら居住感覚がおかしくても、さすがに自分が棲めなくなるほど好きなものを買う人っていないだろ。
「ねえ九王沢さん。読まない本とか、実家に送ったら…?」
見かねて依田ちゃんが言うと、
「読まない本はないんです。今、読んでいなくても、気になったら手元にないと、落ち着かくなってしまう性格なので…」
即座に九王沢さんは、断言する。読んだ本は一字一句憶えている癖に。
「いや、でも。これじゃ奥の本とか絶対取り出せないでしょ」
「あ、でも中にはまだ、入ることは出来るんです…こうやってやれば」
と、箱根細工のように本を組み替えていく九王沢さん。こうやって少しずつ入り口が出来ていくわけだが、この分じゃ居間に客を案内するのにどれだけ掛かるのか分からない。
「お嬢様、もういいです。わたし、上がりたくない…」
涼花はその場にへたりこみそうである。膝が笑っていた。これは人を呼べない。いや、呼ぶとしたらここはお客さんではなく、引っ越し業者である。
「お鍋出来ませんね、ここじゃ」
依田ちゃんが僕に言ったが、鍋なんかする気、もうないだろ。ここ、絶賛火気厳禁だ。
呆然としている僕たちだが、インターホンが鳴った。九王沢さんがモニターをつけると、宅配業者である。そいつがキャスターに、また何箱も重たい荷物を載せていた。
『これ全部本なんすけど…お受け取り大丈夫ですかね?』
宅配業者が心配そうに言うのに、九王沢さんは満面の笑顔で応じた。
「はい、上がってきてください」
「ダメでしょ!帰ってもらいなさいッ!!」
耐えかねて僕は、突っ込んだ。もう、限界である。
「九王沢さん、ロジャーさん呼んで」
「ロジャー…?それは誰のことですか…」
「いや、もうそう言うくだりはいいから、とにかく呼ぶッ!」
僕の剣幕に押されて、九王沢さんはあわててスマホでロジャーさんを呼んだ。
かくて片付け大作戦が始まったのは、後日である。師走だし、大掃除にはちょうど良かった。参加者は、SPのロジャーさんが連れてきた引っ越し業者もびっくりな屈強な人数に僕と依田ちゃん、そして九王沢さんである。
「皆さん、本当にごめんなさい…お願いします」
悲痛な九王沢さんの挨拶と共に始まった作戦は、ほぼ一日がかりで終了した。あの壁のような蔵書はすべて九王沢さんの実家があるロンドンへ空輸され、残りは文庫ラックに収まる手回りの本だけになった。そして僕は九王沢さんとともに、管理人さんとご近所さんにお詫びのご挨拶に行った。
「うわーっ、広いですねえ!!」
そしていざ片付くとここ、何たる優良物件である。なぜか飛び入りで番組の収録を抜け出してきた涼花が合流したが、この絶景で催す鍋パーティは、最高だった。
「これで那智さんが急用で帰ったら、もっと最高なのに」
「涼花、お前掃除手伝わなかったんだから、もっと遠慮して参加しろ」
僕は笑顔で言った。
考えてみると、一時はどうなることかと思ったが、九王沢さんの自宅に押し掛け鍋パーティ作戦は成功に終わったわけである。
「九王沢さん、怒ってないから僕も依田ちゃんも。とにかく楽しかったし」
九王沢さんは数日、申し訳なさそうにしていた。だが別に僕も依田ちゃんも怒っていないのは本当だ。鍋パーティは楽しかったし、これで九王沢さんの自宅に気軽に遊びに行けるようになったんだから、言うことはない。
「さて、年末になってきたし、うちも大掃除かな」
「はいっ、わたし、そのときは絶対お手伝いに行きますね!」
「ありがとう」
そしてまさしく、これがいつもの会話である。だが、それにしても、だ。
(果たして良かったのかな…このままで)
僕には一抹の後悔がある。今回の件で僕は密かに思い知ったのだけれど、もうちょっと僕は、九王沢さんとの距離を自分で縮める努力をすべきだったんじゃないか。
もしそうだったら九王沢さんが浮気するなんてとんでもない勘違いをしなくて済んだし、何より依田ちゃんに言われて、僕がちゃんと九王沢さんを愛してあげなかったことを後悔しなくて済んだのだ。
例えば、もう一緒に住んでいたならこんなことはなかったわけだし。僕たちはもう、それくらい許されていい付き合いだ。
(でもなあ…何かきっかけないと、そんなこと急に言えないしなあ)
と、僕がぼやくようにからりと晴れた冬の午後の空を仰いだ時である。彼方に上がるかすかな黒煙とともに、消防車のサイレンの気配が。あれっ、これすっごい近いぞ?
「あっ…あれ!那智さんのアパートじゃ…」
愕然と九王沢さんが立ち尽くしていたところに、僕もたどり着いた。するとそこからよーく見える。黒山の人だかりと、激しく上がる煙に包まれて放水を浴びている、あれは正しく僕のアパートであった。
「うそ…?」
半焼半壊である。どうも、タバコの火の不始末らしい。僕の部屋の真上の住人だ。僕も含めて留守が多かったらしくて、病院に搬送されるような人はいなかったみたいだ。
家がなくなった。
「那智さん…」
茫然自失の僕に寄り添うように、九王沢さんの声。気が付くと、豊かな胸ごと身体を寄せて、九王沢さんは僕を間近で見上げるようにしていた。僕は思わず、息を呑んだ。上目遣いでみた長いまつげに囲われた瞳が、清かに濡れている。
「わたしたち、これから一緒に住みませんか…?」