PHASE.4
「僕は帰る」
僕はもはや真っ白な灰である。燃え尽きた。やけ酒が飲みたい。十日酔いにでもなって、死んでしまいたい。しかし、火力抜群の依田ちゃんがそれを許さない。
「何言ってんですかあーたッ!むしろ、勝負これからでしょうッ!?」
「で、でも、九王沢さんが」
言いかけた瞬間、ビンタ二発目である。お母さんに連れられた小学生が、口をOの字に開いてみていた。
「じゃかあしいわッ!それでも男ですか!?乗り込むんですよ、こうなったら!白黒つけなきゃ、終われないでしょう!?それでこそ真正のNTRってもんじゃないですか!?」
「いや、ちょっと言ってる意味が分からない」
真正のNTRじゃねえし。だったとしても、もうこれ以上、何も見たくない。
「いいから来いッ!だいッたい、そんなだから、浮気されるんですよ!現場に乗り込んで、あたしも相手の男に一言、言ってやりますからほら!」
依田ちゃん、大炎上である。こうなったら誰にも止められない。
「くのうさわさんがうわきくのうさわさんがうわきくのうさわさんが…」
平仮名にしても、破壊力は一向に衰えない。口から幽体離脱しそうだ。まさか僕と隠れて、誰かと会っていたなんて。僕の人生で間違いなく最大の痛手である。そりゃ、あの九王沢さんに僕とじゃ釣り合わないのは分かってましたよ。でもまさか、こんな形で、破局に遭遇してしまうなんてそんなはんな。
「先輩、聞いてますか?それとも、人間やめますか?」
「人間やめたい…」
泣き言を言う僕を、依田ちゃんは、さっきのビンタより鋭い目線で睨んでくる。
「もういい加減にしてくださいよ。そもそも、当然の結果、ダメで元々、でしょう。先輩のような酒飲みでずぼらでだらしなくて、どうしょもなくて、甲斐性も将来性もなくてしかもへたれでくそどうしょもない先輩に、九王沢さんのような超優良物件がマッチングしてたことが奇跡なんですよ!その辺はこの際、すっぱり諦めたらどうなんですか?人間やめるより簡単でしょう!?」
「今どうしょもないって二回言ったな…?」
「言いましたよ。でもその先輩を、九王沢さんが選んだことは忘れないでいてあげた方がいいんじゃないですか?」
「依田ちゃん…」
僕は思わず、言葉に詰まった。
「てゆうか、これも忘れないでください。九王沢さんを先輩に紹介したのは、何を隠そう、このあたしなんですから」
「そうだよ、そうだったよね」
無修正の後輩の罵倒に潜むほのかな思いやりに、僕は思わず、じんと来た。
「僕だって捨てたもんじゃないってことだよね?」
「いや、先輩は食べるところなしのサンマの骨みたいな感じですけど。でもあれ、骨まで食べる人だっていますからね」
「おまっ…フォローしたいのか、したくないのか!?」
「したくてしてるわけじゃないのは、確かです。でも先輩、ここであーたが正気にならなくてどーするんですか!?あたしも一緒に乗り込めないじゃないですか!」
敢然と依田ちゃんは、言い切る。
「依田ちゃん、君はそれでも行くのか…?」
「行きますよ。そこに何が待ってようと。先輩を一人でなんて行かせません」
その健気な顔つきをみて、僕はようやく、我に返った。だってこれから行くのは下手したら、修羅場である。そこに依田ちゃんは、僕と運命を共にしてくれると言うのだ。口では猛毒を吐いていようと、こんなに先輩思いの後輩はいない。本当に目頭が熱くなってきた。
「ありがとうね、依田ちゃん。僕が不甲斐ないばかりに…」
「いいんですよ、不甲斐ないのは、ずうううっ…と前から知ってますから!…てゆうか、ここで降りられないじゃないですか。九王沢さんの新しい彼氏、かっこいいかも知れませんし!」
「依田ちゃん…」
僕、今まさに、お前の先輩やめたい。
気を取り直して、尾行は続く。気は取り直してないけど。ここで九王沢さんを見逃してしまったら、ここまで来た意味はない。すでに最悪の結末が用意されている感しかないけれど、こうなったら開けるしかないのである。バッドエンドと言う名の、禁断の扉を。
激落ちしている僕に対して、九王沢さんは買い物袋をぶら下げて、雲を上を歩く感じである。誰もいないのに天使の微笑を惜しまず、鼻唄まで歌っていた。今の僕にとっては、これは悪夢でしかないのに。少し離れての九王沢さんとのこの道のりはまさに、地獄へ道連れである。
に、しても九王沢さんが歩くのは、都内、と言ってもごく庶民的な下町である。駅前のアーチから商店街の大通りが続き、路地や小道にも沢山、個人経営の古書店や、こぢんまりした喫茶店など、昭和な看板の古い店が残る。とくにじわじわ油を切ったばかりのあげたてコロッケを店先で包んでくれるお肉屋さんなど、九王沢さんのどストライクである。
実際、九王沢さんは、じっと眉根を寄せて何やら切なそうにしばらくコロッケが売れていくのを眺めていたが、やがて何かを決意したようにぎゅっと握りこぶしを作って、抗いがたいコロッケの誘惑を振り切って歩き始めた。
やっぱり、相手は男の人なのだろうか。奥ゆかしい九王沢さんが、僕と一緒ならいざ知らずコロッケ立ち食いしながら男性に会うなんて、はしたない真似をするはずがない。だから泣く泣く諦めたのではないか。これは、ますます怪しい。
「あ、先輩、コロッケ食べます?九王沢さんが諦めたやつ」
そして依田ちゃんは早速、そのコロッケを実食である。
「わっ!…これ、やっばいです。すっごく美味しいですよ!ポテトのマッシュ粗目でほくほく肉厚!あたし好みです☆さすが九王沢さんが、目をつけただけありますね!?」
「そりゃ良かったね…」
そこはかとなく湧き上がる殺意を抑えながら、僕は相槌を打った。
こいつ、完全に興味本位、自分の楽しみのためだけについて来てやがる。こっちはそれどころじゃないってのに。
それにしても、どんなやつなんだろうか。こんな商店街のある駅前に住んでいるのなら、貧乏大学生の僕とそう、かけ離れたような人間じゃない、と思うが。
買い物袋をさげた九王沢さんはそれからも、色んな店頭を行きつ、迷いつしながら、住宅街のある方へ入っていく。さてどのアパートか、それとも個人宅かと思いきや、すっかり色づいた銀杏並木の通りの四階建てのマンションのところではたと立ち止まった。
「着いたみたいですね…」
依田ちゃんが、建物を見上げる。
うっ、ここは中々だぞ。半円形の庇を持った、高級ホテルのようなエントランスに地下駐車場。そこから公道へ、音もなく出てきたのは白のBMWである。これは超高級とまではいかないまでも、かなりお高めのマンションだ。もちろん貧乏学生は住まない。
嫌な予感がしたが、エントランスに入った九王沢さんは部屋番号をプッシュするとインターホンを押し、中の人に鍵を開けてもらっていた。やっぱり相手がいた!今の、決定的瞬間である。
「どうするんですか!?今、乗り込まないと中に入れませんよ!?」
オートロックのエントランスが閉まってしまう。あわてて駆け付けたが、すでに遅かった。しかしまだ、九王沢さんがプッシュした部屋番号のナンバーは消えておらず、どの部屋に行くかは、確認できた。
309。三階の角部屋だ。僕は、一瞬、ためらった。ここまで分かったんだ、だからもういいじゃないか。これを押したらこの先、修羅場である。本当にこれを押しちゃっていいのだろうか?
「なにもたもたしてるんですかッ!?相手の男に、びッ!と言ってやるんでしょう!?」
依田ちゃんの叱咤が、僕を現実に引き戻す。
「依田ちゃん、だって…」
僕が思わず言葉に詰まったそのときだ。
「先輩が今、諦めてどうするんですか!?」
「う…」
もうとっくに心が折れそうだ。だが僕を見つめる、依田ちゃんの目は、真剣だった。
「…そう言うとこじゃないですか。九王沢さんはいつでも、先輩を待ってたんですよ。先輩が踏み込んでこないから。いざってときそうやって誰かに結論預けて、突っ込まないから。でもいつでもそれでいい、と思ってました?…九王沢さんだって、女の子なんですよ?待つより、待っててほしい。求めるより、求められたいんです。特別だって思わせて欲しいし、この世の誰より好きだって、言ってほしい。ずばり証拠をみせて欲しいんです。ずっと待ってなんか、いられるわけないじゃないですか」
九王沢さんが去ったあと、エントランスは静まり返り、依田ちゃんの声だけが響いた。
「もう、遅いかも知れませんよ?九王沢さんにとって迷惑かも知れません。てゆうか迷惑でしょう。でも、ただ一言、ここで本当の気持ちを言ったっていいでしょう?先輩なりのやり方で、先輩の言葉で。…へたれでも、情けなくても、先輩は九王沢さんが好きなんだから!」
僕は思わず、息を呑んだ。
だって僕は、あの子になんて言われた?
忘れるもんか。
那智さんの言葉で。
この世にたったひとつの、あなただけの言葉で。
自分に『好き』を表現してほしい。
彼女はそのために、僕の前に現れた。遠い海を越えて、はるかなランズエンドの最果てから。たったひとつのそれだけを頼りに、僕のところへやってきたんだった。
(そうだったよな)
もう遅いだろう。どんなに頑張っても、僕にはあの子の心には届かせられないかも知れない。でも、偽らざる僕の言葉。最後に、伝えて終わりにしてもいいかも知れない。『好き』が『好きだった』になってしまうとしても。心から今まで、ありがとうを。
「分かった、行こう」
僕は、はっきりと依田ちゃんに決意を伝えた。覚悟さえしたら、清々しいものだ。甘んじて運命を受け入れよう。
僕の心が決まったのが通じたのか依田ちゃんも、熱くうなずいている。
「行きましょう、先輩」
「やってやろうじゃないか」
僕が、309のボタンを押し、インターホンに手をかけたときだった。
「なっ!何やってるんですかあなたたち、こんなところで大きな声出して!」
それは、背後からした。めっちゃ怪訝そうな若い女の子の声である。
「ケンカだったらよそでやってください!…警察呼びますよ?」
「すっ、すみません…ケンカとかじゃないんで」
僕たちが恐る恐る振り向くと、なんとそこにスマホで通報姿勢を取りながら、あれっ、どこかで見慣れた人物が。
「おまっ、涼花だろ!?」
「げっ、那智さん!」