60話 ビーストかつビューティー
ある日、英語の授業の最中、雷堂からチャットが飛んできた。なんて珍しい日なんだ。
待ちきれずに、机の上に堂々と携帯を置いて、チャットアプリを開いた。授業をしている俺の担任はそれに気づいたが、スルーする。だって授業中に携帯さわってても、授業を聞いてることを九鬼先生は知っているから。それを理由に堂々と携帯を触っている。
雷堂が送ってきたのは、写真だった。
小さい写真をタップして大きくする。
「おっ、おおっ」
授業中に声を上げてしまう。じろじろと周りと目が合う。手を挙げてあやまった。
雷堂のウェディング姿だった。思わず声が出てしまうぐらい、綺麗。
顔は横を向いているけど、すごい似合ってる。Aラインドレスで、膝から下が見えている。ひざ丈から下は、後ろのほうが長くてふわふわのレースが伸びている。左右対称だけど、前後対称でない。前面が短く後ろが長いドレス。活発な雷堂らしい。
ただ白色のドレスじゃなくて、黒色のドレスだった。色の女王じゃん。
「すげー似合う。雷堂らしいよ」
「結婚前に着たら、婚期遅れるらしい」
「雷堂が結婚できなかったら、俺がしてやるよ」
「冗談でもムリ」
「傷ついた」
雷堂がこの衣装着るってことは、撮影か。もう終わってるのかな。
「おつかれ」
「うん。ありがとう」
「ライライ」
「うっさい」
チャットを終えて、チャイムが鳴った。今日の授業は、終わり。
今日は帰りにペットショップ行くんだ。雷堂をからかう猫用品を探しに。
美月はまだ授業が続くはずだから、俺はひとりで駅前へと歩いて帰った。
その、翌日のこと。
花恋に確認して、雷堂が学校に来ていることを知った俺は、いたずら心だけで雷堂に会いたくてたまらなかった。
通学用のリュックにペットショップで買った猫用品を入れたおかげで、朝から、わくわくしている。この小学生が好きな女の子をからかう感じ、たまらない。
しかし、こういうときに限って会えない。
いつもは廊下とかですれ違ったり、食堂でご飯食べるとき一緒だったりするのに、微妙にタイミングが違うのか、会えないまま放課後を迎えてしまった。
雷堂って今日、授業どれだけ詰まってるんだろう。
もしかして、昼から仕事だったり?
そう思ってると、雷堂がいた。声をかけようと走る。けど、雷堂はひとりじゃなかった。おしゃれな男の人といっしょに歩いていたところだった。
「へえ、へえ。トラがハーレムに入ってる」
「あきらめなさいよ。しぐれ、タイミングが悪かったのよ」
「なんで、おまえらがいるんだよ」
俺が声をかけそこなった様子をみて、後ろから声をかけてくるふたり。
「いやー、いやー。雑音の動きが変だったから、なにしてるのか気になって」
「しぐれが、ライチさんのストーカーをしてるって言われてたから、とめにきたのよ。知ってる? ライチさんを追ってると目立つのよ。校内でもファンが見張ってるんだから」
「雷堂のファン? ファンだったら、俺もファンだってこと知ってるだろ」
「しぐれの扱い、敵だったわよ。男のくせにライチさんに気安く話しかけるから」
「美月、お前も雷堂のファンクラブはいってるだろ」
「ふふーん。当然よ。会員証見る?」
「ガチすぎるだろ。なんで校内にナナエスのファンクラブあんだよ。ついてない日だ」
「こら、こら。雑音、トラに会えないからって嘆くなよ」
「昨日、撮影が終わったらしいから、お疲れぐらい直接言いたいじゃん」
「それで、追っかけてたのね。それなら、わからなくはないわ」
「ふーん、ふーん。雑音、意外にそういうところ気づくのな」
「友達が頑張ってたら、応援したいじゃん。頑張ってるやつ、格好いいし」
「まー、まー。タイミングが合うまで待ちなよ。そういうときだって。とりあえず、音楽室いく?」
「いく。雪姫のピアノ聞いてから帰る」
「わたしもいく。あのね、しぐれ。帰りに駅前のハンバーガー屋さんのシェイク、買って帰らない?」
「いいよ。新しい味、出てたっけ」
「出たのよ。タピオカ風味」
「それ、ただのミルクティーじゃね」
「えー、えー。やだよー、並んでそうだよ」
「大丈夫よ。しぐれが並ぶだけだから」
「そうか、そうか。それなら問題ないな」
「いやだよ。俺だって並びたくないよ」
音楽室へ向かうまで、会話は続く。
音楽室に入ると雪姫がガチになる。おかげで、黙々と自分の勉強や作業をしていた。
美月に聞きながら英語の勉強をしている。美月に聞くと「授業中、先生はこう言ってたわよ。わたしはこういう意味だとおもう」ってしっかり説明してくれるから、勉強中ちかくに居てくれると助かる。
俺のふわっとした捉え方の説明を、中身をくみ取って論理的に説明してくれるから、とても居心地がいい。質問しても、美月はぜんぜん気を悪くしないし。
雪姫の集中力が切れて、解散が近づくころ。
「同じところで、詰まってるわね」
「そうなんだよー。なあ、なあー。弾いてみて」
美月がピアノの前に座る。椅子の位置をすこしピアノに寄せて、楽譜を見ただけで引き始めた。
優しい音だ。温かくて、胸にひびく。なんだか、華やかで風が吹いたような音。
雪姫の音とぜんぜん違う。
「ここ、ちょっと迷わない?」
雪姫が美月の後ろから指を伸ばして弾く。
「曲の背景を考えると、こういう解釈かしら。大げさにやるわね」
美月は雪姫と討論していた。
「ふーん、ふーん。なるほど。わかった。ありがとう」
「ううん。こうかなって言っただけだもの」
美月は立ち上がると、スカートを直してスクールバックを持つ。
「美月もピアノ弾けるんだったな」
「雪姫ほどじゃないわよ。あなたこそ、よく雪姫のピアノ聞きながら作業できるわね」
「集中すると音楽って、あんまり気にならなくない?」
「そうかしら。勉強してても、耳に入ってきたわよ。上手すぎて、ここうまいって気づいちゃうのかしら」
機嫌のいい雪姫が戸締りを確認してから、音楽室の鍵を閉める。
「よし、よし。シェイクだ。甘いもの食べに行こうよ」
俺たちは靴を履き替え、校舎を出た。
駅前の並んでいるタピオカの店にはいかない俺たちでも、ハンバーガー屋さんのタピオカシェイクなら行く。2人とも、並ぶのはあんまり好きじゃなかった。
それでも、並んでタピオカミルクティーを買って飲んでいるひととすれ違うと、おいしそうって感想はでてくる。
駅前までの、高級住宅街を通り抜けているところだった。同じ学校の生徒じゃないと、この時間は使わない道。歩いていると、雪姫が言う。
「なあ、なあ。いまなんか壊れる音しなかった? 鉄、みたいな。つっー、なんか耳に障る」
雪姫は左耳から入ってきた音にすくんだようだった。
「いいえ、なにも聞こえないわよ」
「えー、えー。なんだろ。鉄の卵が割れてさ、中身が出てくるみたいな音」
「ホラー映画か何かか?」
「いやよ、やめてよっ。銃で撃っても死なない敵は無理なのよ」
「美月の発想が妙にリアルなんだよな。わからんでもない」
「あー、あー。ちょっと、ストップ。止まって、止まって。うん、マジで」
雪姫が俺のリュックと、美月のスクールバッグを引っ張る。雪姫の顔が険しい。いったい、なにが聞こえてるんだ。
「うわあ、近いなあ。ごめん、あたしが気づいたからかも。どうしよーっ」
ほんとうに、なんでもない住宅街だった。
デカい。
一瞬、我を忘れる。
よくある高級住宅街のコンクリートジャングルに、ぜったいに住んでいない動物が現れた。
美月は、思わず体をすくませて、口を開けて息を吸う。雪姫が慌てて美月の口を押さえる。しかし、遅かったらしい。目が合った。そいつは、家に住んでいて、買い物に出かけるぐらいの気軽さで、家の敷地から出て来ていた。
車のようにでかい図体。白いふさふさの毛。長いたてがみ。獰猛な牙。口の周りにはベットリと行儀よく食事した跡がある。
さすが、百獣の王。
「バカだろ。雪姫、美月連れてけ。美月、ばいばい」
「悪いね。時雨、そうさせてもらうよ」
「まって、いやよ。しぐれっ」
なんの冗談だよ。
住宅地でライオンとエンカウントする。
よくみると、赤い首輪がついてる。首輪には、大きいネームプレート付きだ。名前は、タマ。悪趣味な金持ちの道楽に、吐き気がする。
平和ボケした俺の、野生のカンが告げている。
背中を向けると襲われる。
リュックを静かにおろす。腰を落としていつでも、どの方向にでも逃げられるように道の真ん中へ陣取る。
背中のほうから美月が叫んだ。
「バカじゃないの。はやく逃げなさい、しぐれ。あなたが死んだら、わたしも死んでやるんだからーっ」
「違う。いまはそうじゃない。離れるんだ、はやく。お前がいたら、あいつが逃げないんだよ」
雪姫の真剣な怒鳴り声だ。
ああ、そうだよ。尋常じゃなく怖いし、いますぐ逃げれるなら逃げたいよ。ただ、美月と雪姫がいる、背中の方向に抜かれるぐらいなら、俺は命かけてでも止めて見せる。
体を半身に開き、左手をだらりと下げ、右腕を曲げる。とっさに取るポーズがファイティングポーズとか、笑えねえ。
あと30秒。あと30秒したら逃げる。それまでは、首筋にナイフを当てられているようなプレッシャーに耐える。
図体のでかい猫科の怪物は、俺から目を放してくれない。じりじりと前足を持ち上げては降ろして、持ち上げては降ろしてと繰り返す。
生物としての危険センサーが赤信号を回し続ける。敵いっこない、逃げろ。今すぐにでも手を裏返して無抵抗を示せ。恐怖と不安と死までが入り混じったドス黒い感情が、邪魔をしてくる。
ドクン、ドクンと心臓が脈打つ。
理性が、逃げるなという。
冷静な理性が語り掛ける。
相手はお腹が膨れている。したがって、狩りはしない。
でも、背後を見せて逃げると襲われる。ハンティングゲームが開始する。
努めて、この場にとどまり時間を稼げ。せめて、美月と雪姫が危険ゾーンを抜けるまで。
死ぬのが簡単に想像できるこの場所で、留まり続ける。寿命をすり減らすって、こういうことか。
5秒もたっていないのに、ここにいるのを後悔しだした。
こんな崖っぷちにひとりでいるのは、怖いし、さみしい。
美月と雪姫を守って見せたのだって、ただ恰好つけたかっただけだ。
自分の命よりも、自分のくだらない矜持を取った結果。
だから、一番最初に自分に向かって言った。
バカかよ。
だから、もう一度言った。
「バカだよなあ、俺」
15秒経って、やけに冷静になる。長い時間マラソンして、手足が自分のものじゃないように動いて、頭が冴えてくるような、あの感じ。
思いつく。
にらみ合っても、しびれを切らすのはライオンのほうだ。動物に向かって言う「待て」には限界があるのを知っている。それまでに、なにか考えないといけない。
これに、答えを出した。
静かな動作で、膝をついた。
諦めたわけじゃない。生きるためだ。
ちかくにあるリュック。あれを拾いたい。
亀のようにゆっくりした動作で、動物を刺激しないように動く。手元にたぐりよせたリュックを、手の感覚だけで、ゆっくり開ける。おかしいな、何度も失敗した。
お目当ての物をようやく手に入れた。
雷堂をからかう予定だった猫グッズもの。
またたびパウダー。
「和解しよう。俺はあんたを脅かすつもりはない。だから、あんたも見逃してくれ」
アメリカ映画にありそうなセリフが口から放たれる。だれも聞いてなくてよかった。
ジョークでも口にしないと気が狂いそうだ。
「ほら、悪いもんじゃない。気に入ってくれると思う」
またたびの粉なんて、どう使えばいいかわからない。リュックにつけている花恋とおそろいの、トラのぬいぐるみを泣きながら引きちぎる。
左手でぬいぐるみを持って、またたびパウダーを振りかける。大量に出して、両手でぬいぐるみを持って転がすように回し、すり込むように、なじませた。
ぬいぐるみをしぶしぶライオンに与えようとしたところだった。
横から伸びてきた腕が、それを止める。
力強い手が、ぬいぐるみをガッシリ掴む。俺の腕ごと掴んで離さない。
「なんで、来るんだよ」
「はぁ、はぁっ。うるさい」
肩で息をしている雷堂だった。
前髪なんてぐちゃぐちゃで、片目にかかるぐらいの乱れ方。鋭い切れ長の瞳が俺をじっと見つめてくる。
「ガルルルルッ」
ライオンが黒い口をあけて、吠えて、喉を鳴らす。
びくりと体が硬直した。雷堂だけがライオンに面と向かって吼え返す。
「うっるせえッ。その、チンケなプライド刈り上げられたくなかったら、黙って座ってろ、クソライオンッ」
吠えて向かってくるライオンに向かって、雷堂が叫ぶ。
雷堂はライオンに向かってジャンプした。
垂直にあげた長い足を、獣に向かって振り落とす。
稲妻のような、かかと落としを決める。
ブーツがライオンの鼻先に刺さり、ライオンがもだえ苦しんだ。
おびえるように吠えたライオンが距離を取る。ライオンは俺と同じ学習をした。
雷堂を怒らせるな。
「ったく、なにに絡まれてんだ。そして、なにやろうとしてんだよ」
「お前こそ、なんで来たんだよ」
俺をかばうように、ライオンとの間に入ってくる雷堂。俺より一回り小さい背中は、安堵で泣きたくなるほど頼もしい。
黒いレザーのジャケットにポケットを入れたまま、雷堂は振り返らずに言った。
「さあね。時雨が死ぬって聞いたから、来ただけ。べつに、お前となら死んでもいいかなって」
雷堂は振り返らない。
言葉はわかっても、表情はわからなかった。
こっちを向くなよ、雷堂。いま、俺をみないでくれ。一回だけ、目をこすった。
「チッチッチ、おいで。蹴って悪かった。はじめて外に出て、興奮してるんだよね。そんなビビんなよ」
雷堂がしゃがんで、ライオンをよぶ。笑いながらライオンへ向かって言葉を話し、対等に応じている。
猛獣は左右に体を揺らしながら、雷堂へ近寄る。警戒しているように尻尾をピンと立てていた。
雷堂の周りを、ライオンが回る。一切動かず、その様子を手でさわりながら雷堂は見守った。
百獣の王が跪く。
雷堂の足元で、ライオンは膝を折って、喉をならした。
当たり前のように雷堂はライオンに腰かけて座った。長い脚を組んで、ライオンに座って、片手でライオンを撫でている。
「時雨、まぬけ面さらしてる」
「だれがどう見ても、まぬけ面するだろうさ。すげえよ、お前」
「時雨がライオン相手に立ち向かってるって聞いたとき、アタシもそう思ったよ。間に合った。よかった」
雷堂が俺を指さして、怒りながら言う。
「アタシを探してるっていうから追っかけてきたら、とんでもない目にあってた。しかも、またたびあげようとしてた? バッカ、それでたまに狂暴になるやついるんだ」
「俺の予想ではごろにゃん、ごろにゃんして、俺に跪く予定だった」
「っは。ありえないね」
雷堂は大きく手を広げて言ってくる。同時に、ライオンが動こうとした。雷堂が撫でると、また尻を下した。
「なあ、雷堂」
「んっ?」
「ありがとう」
「ごめんな、時雨。見せ場と死に場、アタシが奪っちまった。もうちょっと、一緒に生きてくれ。オマエのいない世界が、つまらない」
「惚れちゃいそうだ」
「ガチ恋? してもいいけど、伝えてくんなよ?」
上機嫌に歯を見せて、目を流しながらわらっている。細い顎が上を向いていた。
ライオンが鳴く。長い遠吠えのように、雷堂を背にのせながら、大きく口を開けて喉を鳴らし続けた。
遠くにパトカーのサイレンの音が響いた。
雷堂は変わらず、ライオンの背に体を預けて、ライオンを手懐けながら気軽に話してくる。ライオンでもいないと、雷堂と外でこんなに落ち着いて話せないかも。
なんだか、特別な時間が流れていることに、ようやく気が付いて。
「雷堂、写真とっていい?」
「いいけど。スプラッターかズーフィリアにならないようには、祈れよ」
「そうなる前に、刺し違えても、逃がして見せるよ」
「っま、いっか。アタシうごけないし。好きに撮りなよ」
携帯電話の操作を慌てたせいで、ムービーを撮ってしまった。
カメラモードに切り替えて、数枚写真を撮る。撮影になれている雷堂は、表情をころころ変えて見せた。
パトカーのサイレンが聞こえてから、ずいぶん経った。
俺の携帯が震える。知らない番号だ。
「任せる。任せるよ」
雷堂が目を瞑り、ライオンを撫でながら言った。
「もしもし」
震える手で、電話に出る。小さな声で、視界から絶対に雷堂は外さずに。
「少年、ケガはありませんか」
「ないよ。ああ、安心した。ほまれさん」
紫電ほまれ。美月の秘書で、俺の知る限り、不可能を可能にする人。
「よかった。唐突ですが、選択を求めます。覚悟は、よろしいですか?」
「教えてください。なにができます?」
「銃殺を推奨します。近隣への被害、安全確保の最も容易な手です。エリミネイト、これに尽きる」
「ほかに手段は取れないんですか?」
「数十分すれば、ゲージが届きます。猛獣用のゲージです。それに誘導してくれれば、平和です」
「すみません。数十分も、この状況が続く幻想に浸れるほど子供じゃないです。1秒でもはやく、なんとかしたい。寿命がすり減るようなプレッシャーに耐えてる友達がいるんです」
「でも、殺したくないのでしょう?」
「はい」
「相応のリスクがあります。動けなくして、ゲージに運んでしまいましょう」
「どうやって?」
「合法な手段で眠らせます」
「麻酔銃とかいうファンタジーな物を使おうって言いませんよね」
一度、調べたことがある。ニュースで野生動物を射殺すると、麻酔銃で眠らせられなかったのかって意見があがるから、それが可能なのかどうか。正直、ムリだと思う。動物園で働いている獣医さんとかでないと、麻酔銃を使う資格が得られないらしい。そんな人、ちかくにいるはずがない。
加えて、前に聞いたことがある。
「緊急を争う事態に、麻酔銃とそれを使える人が揃うなんて奇跡ですよ」
クマが出没したニュースで、テレビのコメンテーターが、そう言っていた。
つまり、麻酔銃なんて、実在するが使用できない。ファンタジーな武器だ。
「よくご存じですね。ご指摘の通り、効果も曖昧です。加えて、銃器類の所持許可を得ている者であり、麻薬研究に関する専門の免許が必要な道具なんて、誰か使えましょうか」
ほまれさんは、俺を落ち着かせるようにゆっくり話して、笑いかける。
「獣医。あるいは、民間の警備会社で働いている医者のような、とても変わった人間でないとありえません。つまり、イチかバチか麻酔銃で眠らせましょう。車をちかくに止めます。少年とお友達は車内へ。対象が暴れたり、逃走した場合は・・・・・・すみません、殺します」
ちかくに車が止まる。
スーツ姿の女性が姿を見せた。警察の人に指示を飛ばし、無線機を口にあてている。
「雷堂、車へ」
「わかった。時雨、ぬいぐるみ貸して」
俺は手に握りしめていたぬいぐるみを雷堂に投げた。
雷堂は難なく片手でキャッチする。座っているライオンの鼻元へ持って行き2、3回振ってみせる。ライオンが喉を鳴らし、ぬいぐるみを欲しがる。雷堂はすこし離れた場所にぬいぐるみを転がした。
離れたライオンを見ながら、雷堂は下がってくる。ブーツの底をアスファルトにこすりながら、ゆっくりと向かってくる。
俺は雷堂の両肩を抱きしめた。雷堂の小さな手が添えられる。雷堂が力強く俺の腕を握ってくる。
「逃げるぞ」
「あいあい」
ライオンがぬいぐるみに夢中になっている。ぬいぐるみを体にこすりつけ、地面を転がっていた。
プシュッ。
緑色の塗装がされた細長い筒。その上についているスコープを右目で覗きながら、鋭い視線をライオンに向けていたほまれさんは、空気銃を撃った。
ライオンのおしりに、なにか矢のようなものが刺さる。
車の扉を開き、後部座席に逃げ込む。雷堂はライオンの様子に目を細めてから、車の中へ来た。
「ななつ。よし」
ほまれさんがゆっくり数を数えていた。
ぬいぐるみを咥えたライオンがふらつき、地面に倒れる。
「オオ、オオオッ、ニャイオオオッ」
窓ガラス越しにライオンと雷堂の目が合っていた。
「うん。いるよ。おやすみ」
雷堂がライオンにむかって優しい言葉をかけた。
車のガラス越しに見るライオンは動かない。
ちかくにいた人たちによって、ライオンはネットに巻かれ、動けなくされていた。
車の中は静かだった。雷堂の息遣いが聞こえる。俺の荒い息遣いも聞こえている。
「雷堂、ありがとう」
「あいあい。あんま無茶すんなよ」
「こわくなかったのか?」
座席のシートに深くすわった雷堂は、足を組み替えてから言う。
「こわいよ。さっきも言ったケド。時雨がいなくなるのは、もっとこわい。それだけ」
「そ、そっか」
「うん」
ほまれさんがケースを車の後ろについてるトランクへ入れると助手席に座る。運転席のひとに車を学校へ戻すよう指示していた。
「少年、お嬢様を安全な場所へ逃がしていただき、ほんとうに、ほんとうにありがとうございます。ご友人も、天宮さんをかばってくれたと伺いました。ありがとうございます」
「べつに。運が良かっただけ。それだけだから」
「格好つけた挙句、ビビりすぎて死にかけてたらさ、友達が助けてくれたんだけど。いまの俺、恰好わるくね?」
「小便もらした?」
「緊張解けた今こそ漏らしそう」
「ペットボトルで受け止めてやろーか?」
「大丈夫。自分でできる」
「ククッ、ボトラー」
雷堂の肩を殴ると殴り返される。
すぐに、学校のちかくについた。校門の前に美月と雪姫がいた。
「さあ、英雄の帰還ですね」
「俺より雷堂なんだけどな」
「あいつら助けたのは時雨。胸張っていいよ」
「とりあえず、ごめん死に損なったって謝りにいくわ」
車が止まる。ほまれさんにお礼を言ってから、車を降りた。
車を降りるときに、雷堂が手を出してくれる。
「ほら。んッ」
「さんきゅ」
「時雨もね」
固く握ってから、雷堂に引っ張られて車を降りた。
校門の前で不安そうにしている美月と、横に寄り添って立っている雪姫に手を振る。
美月は、安心したように胸をなでおろし、口から言葉を出そうとして、うまくでてこないよう。目にためている涙が、言葉以上にものを言っていた。
雪姫は、唇をかみながら笑う。笑いながら、一回下を向いて、顔を上げたときには綺麗な顔が崩れていた。
「ただいま。やべーよ。ライオン、こええよ」
「おかえりっ、おかえりーっ。しぐれ、しぐれーっ。ありがとう、生きててありがとう。逃げてごめんねっ」
美月が飛び込んでくる。なんとなく抱きしめるのも違うかなと思って、肩に手を置いた。
「あたしも混ぜて。雑音、ありがと。最高に恰好良かったよ」
美月の上から雪姫が手を回し、三人で抱き合う。
「生きてる。俺、生きてる。なあ、雷堂、俺に足ある? あるよな?」
「あるある。あっ、花恋だ」
俺と美月と雪姫は3人そろって、ありがとうと、ごめんなさいを繰り返していた。そんな奇妙な光景を見て、雷堂の隣にきた花恋が、目をぱちぱちさせて言う。
「あれあれ、なにかあったのかな?」
「ちょっと、な」
「ぐふっ、花恋っ、かれんーっ。花恋、花恋ーっ」
花恋の姿を見ると安心してしまった。目頭が熱くなって、涙が出る。
「わわっ、お兄ちゃんどうしたのさ。ほらほら、よしよーし」
「こわかった。こわかったよ」
「こわかったんだね。だいじょうぶ、だいじょうぶだよー。お兄ちゃん、おにいちゃーん」
俺を優しく撫でてくれる花恋が、困ったように雷堂に聞いていた。
「お兄ちゃん、どうしちゃったのかな?」
「その3人で帰ってたときに、野良ライオンに出会って、時雨が喧嘩してた。アタシが行ったとき、もう一瞬即発みたいな状態だったし、ライオンに立ち向かって、だいぶ疲れたんだろ」
「うーん? 映画の撮影なのかな?」
雷堂は俺の携帯をひったくって、勝手にロックを解除する。
「うわ、ちゃっかり動画隠し撮りしてる。ったく、こっちのがわかりやすい。ほら」
「ほえ? ええええーーーーーーーーっっ」
花恋の絶叫がこだました。
生きてるって、すばらしい。




