陳粋華、師匠を得る。
朝廷における、官僚の役割を述べよ。
陳粋華の答案
臣曰、是正品能徳無得、、、、、。
<東夷訳>
臣、曰く、是れ 正品に能ふ徳はなく、、、、。
羅梅鳳の答案
乱也、叛也、武、斬、他如 苛烈苛断不在也、、、。
<東夷訳>
乱や、謀反、武や斬るをもって如かず苛烈果断以外に対処なし、、、。
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陳粋華は排天房を出ると、意気揚々と青禁城内を歩いていた。
目指すは、礼部があると言われた、左礼房。青禁城内は、各房に分けられ、その中を通路の石畳が整然と並んでいるが各房、朱色の塀が高くまるで迷路のようだ。
昨日の研修で新人官吏は各自、木板に書かれた青禁城マップを貰っていたが、なにせ、陳粋華の他の女性に洩れず、地図を見て、移動するのが大の苦手だ。
基本村でも野良仕事もしない、ガリ勉ちゃんだったので、勉強部屋の一部屋、半径数十寸の世界でしか把握できない。
そして、各々の房には、番兵が鬼のように戈を交差させて屹立している。
『おおっ、、、』
しかし、左礼房は大きかった。
当たり前だろう、朝廷は儀礼によって成り立っている。
それを取り仕切る、部署なのだ。大きくて、当たり前だ。
排天房の番兵ほどというより、陳粋華の朝服を見れば、今度の番兵は、すんなり通してくれた。
『おおおっ』
おおきくて、豪奢だ。眼の前の大きなお堂に、礼部本堂と書いてある。朱色の立派な柱に白色の美しい壁。汚れ一つ無い。
これが、秋王朝の力なのだ。汎華大陸の隅々から集められた、租庸調の租税が全てこの天京に集められるのだ。
こうでなくては、ならない。
陳粋華が堂々と大股で礼部本堂に入ると、ものすごい痩せぎすのこれまた、細目の役人が立っていた。
こいつは、課挙登第者ではない。朝服の帯でわかる。低級官吏だ。
「任官した陳粋華ですが」
威厳をもって、陳粋華が名乗ると。細目の役人は幾度も手に持った竹簡を確かめて、
「ああっ」
と言った。
『うん?』
トラブルか?。これだけの、組織だ。ミスやトラブルはあるだろう。
細目の役人が言った。
「毎年おられるのですよ」
それは居るだろう、毎年新人は。
「司史所は、あちらです」
『うん?、違うのか?』
細目の役人は、慇懃無礼にも、堂を出て方角を指し示してくれたが、顔に浮かんでいる失笑が気になる。
「あちらの方へどうぞ」
一応、左礼房内ではあるらしいが、南へ、やや行ったところにある、蔵のようなところを指さされた。
「劉伯文様がおられますので、あとは、よしなに」
痩せぎすの低級官吏は笑いを堪えるのも、やっとの体で堂へと引っ込んでいった。
もう、陳粋華の心の中では、かなりサイレンがなっていたが、抜き足差し足忍び足で蔵のようなところへ、向かった。
神童と言われた、陳粋華である。
もうわかっていた。
司史所は蔵では、なかった。
小屋だった。いや小屋でもなかった。残骸という言葉が一番正確だろうか?。
『これは、ちょっと嫌だ』
漆喰の壁すらなく、板木で作られた、まさに素人が手作りで作った"離れ"といった感じ。
しかし、小屋の入り口には、傾いた看板がかかっていた。
"司史所"
『ガビーーーーーン _| ̄|○ (T_T)』
最初から、冷遇されることを何遷というのだろう?下遷?置遷?始遷。
小渓村の神童の陳粋華のボキャブラリーには思い当たる言葉がなかった。
陳粋華が恐る恐る司史所なるところに、入っていくと、隙間だらけの板張りの小屋内部の至るところに棚が置かれ、通路は人一人が通り過ぎるのがやっと。
棚には、糸で結ばれた竹簡が山のように束ねられぎっしり置かれている。
竹簡だけでなく、木簡、文字の書かれた布の束。とにかく汎華文字が書かれたありとあらゆる物体が詰め込められるだけ詰め込んで置いてある。
『たぶん、ここは、書庫なんだなぁ』
「こんにちはぁ、、」
小さな声で呼びかけつつ陳粋華は司史所の奥に入っていった。両側の棚は、小屋の天井一杯まで高さがあり、梯子が掛けてある。
竹簡木簡の圧迫で押しつぶされそうだ。小屋の壁の板の間は、ボロなのか、意図的なのか空いていて、そこかしこから明かりがはいり思ったより明るい。
冬場は地獄じゃないのか?。
四、五歩入ってみて、奥の暗闇から何かが動いた。
白かった。
白い屏風が、陳粋華のほうに倒れかかってきたのか、思ったら、人だった。
いや、老人だった。
そして、歩んできた白い屏風が喋った。
「孺子(子供)では、困ると言っておいたのだが、、」
「こんにちは、陳粋華と申します。今年より採用されることになった、女性官吏です。こちらを拝命になりました」
「なんと、、、」
老人の眉が八の字になり、目が細まった、髷から、眉、髭、すべて白い。おまけに朝服まで白なので、真っ白だ。
頬はこけ、皺は深く。こんなに伸びた眉毛も陳粋華は見たことがない。
老人は、どんどん陳粋華の方に細い通路を歩んできて腰を曲げ、陳粋華の顔の目の前に己の顔を持ってきた。
不思議なことに、この老人からは匂いが全くしない。
この人は、生きていないのか?、。
「この歳になると、なかなか目の焦点が合わんでな、、失礼じゃが」
「はい、私、陳粋華と申します」
老人も名乗った。
「劉甫と申す。字は伯文。ちなみに課挙の進士登第は、安寧五年じゃ。よろしく」
『安寧??』
陳粋華は、そんな元号聞いたことがない。が、歴史的事実として知っては、いる。袁家が汎原を制覇する前の王朝、、、。暁王朝にそんな年号があったような、、。ちがったっけ。
『えーっ』
そのころの課挙には、最後に皇帝自らが行う、殿試があったいう。試しに訊いてみた。
「失礼ですが、殿試のお相手は、どの天子様だったのでしょうか?」
「李粛こと、諡は、銅帝じゃ。この劉伯文、数えで十四の春ぞ。銅帝はアホぞ、授教についてなにもわかっとらん、やたら大きな幻獣を背後に控えさせ、ワシに北の蛮族との外交についてしつこく尋ねておったことを覚えておる。嫌味たっぷりに、武と礼についてわざと解りにくく答えたところ、司史所の配属になった」
『幻獣って千年前に滅んだんじゃないの??一体、何年務めとるの、、ここに』
そのころ都はここ天京ではないはずだが、しかし怖くて、尋ねられない。
「おののいておるところを見ると、割と敏そうじゃのう、陳氏よ。ちなみに、この建物も、すべてわしが、建てた」
『やっぱり。何となくそう思った』
「ボロに見えるかもしれんが、適当に、雨風がしのげて、そこへ風が入って、乾燥し、木簡竹簡が傷まぬように出来ておる。そこらの大工では無理な仕事じゃ。で、陳氏よ、女性は、字を持たぬがあだ名はあろう、なんと呼べばいい」
一瞬、黒豆と答えそうになったが、
『それはちょっと嫌だ』
もちろん、小渓村での"向天鼻”も嫌だ。陳粋華がモゴモゴしていると、劉甫老人は、左手に竹簡をもったまま、右手で陳粋華の頭をポンポンなでて、
「小成。小さいから、”こなり”じゃな、」
そして、愉悦に入ったのか、一人、ほほほほ、、と笑いながら、奥に引っ込んでいった。
劉甫は奥へ下がりながら続けた。
「わしのことは、師匠とか師範とか別に呼ばんでもよろしい。だいたい、最初そんな風に丁寧に呼ぶやつほど、途中で逃げ出してどっか行ってしまうから、、。ほほほほ」
課挙登第の官吏たちは、士大夫、女性は士大婦人と呼ばれ、この汎華帝国にあって、無学無垢な民を治める行政官であると同時に、実は、ほぼ全汎民衆、唯一の知識人で学者でもある。
そして、宗教というより、哲学、処世術にも近い、坑子様が開いた、壮大な一大学問”授教”の宗教的、いや学問的、指導者であり、伝道者でもあり、なによりその研究者でもあるのだ。
官吏の上司部下は、そのまんま、師匠、弟子の関係となる。
陳粋華は、ためらわず、答えた。
「いえ、しっかり、師匠、御師範様、と呼ばせていただきます」
これは、あんまり不思議と、嫌じゃない。