第2話 ある女優の話
登場人物
レイナ:店主。大体二十歳ぐらいに見える。
常連さん:いつも新聞を読んでいる。一番奥が指定席。
1.
世界の陸地の半分を領土にした大帝国の首都。
蒸気と歯車が支配するこの街の、一番賑やかな通りから1つ路地に入ったところに、レンガで作られたビルがあります。
1階は喫茶店に、2階より上は貸し部屋に。
喫茶店に面した歩道には、4人座れるテーブル席が一組。
お店の入口を開けると、奥に向かって伸びるカウンターと、5つの椅子。通路は1人通るのがやっとなほど狭いです。
メニューはコーヒーや紅茶と簡単な料理が数種類ずつだけ。お酒は提供していません。
この狭い空間が私のお店であり、私の城です。
2.
「暇ですねぇ……」
昼下がり、静かになった店内を見て私は呟きました。
席数が多くないとはいえ、切り盛りするのは私一人なので昼時はそれなりに大変です。
とはいえ1人も客がいないというのは暇を持て余してしまいます。
「え? 自分は客じゃないのかって? いえいえ、ちゃんと大事なお客様だと思っていますよ?」
唯一店の中に残っている常連さんが疑惑の目を向けてきます。いつも通り新聞を手に持って、お気に入りのブレンドを、もう3杯飲んでいます。
「決して、もう少し注文してくれたら嬉しいなー、なんて思っていませんよ」
本当ですよ?
このやり取りもいつものことなので、特に気にもせず、常連さんはすぐに新聞へ目を戻しました。
「それにしても、今日はやけに静かですね」
私はそっと、漏らしました。
暇なので先ほどから入口側の窓から表の通りを見ているのですが、元々他に比べて人通りの少ない路地であることを除いても、今日は全くと言っていいほど歩いている人がいません。
トントン、と机を叩く音がしたので、常連さんの方を向くと、読んでいた新聞の一面、そこを一番大きく飾っている写真を人差し指で叩いています。
舞台の上で華麗に演じる美女の写真が1枚。その隣には『大人気女優アイリーン・オースティン凱旋公演!』という見出しが。一面をかけて長々と綴られた文章は、今夜この近くの劇場で公演が始まるということを宣伝していました。
「なるほど、みなさんこれを観に行っているから今日は人が少ないのですか。困りましたね……普段のように仕入れをしてしまいましたよ」
イベントがあるときは客数の増減、注文内容の変化が大きいので仕入れも考えなければなりません。情報の入手を怠った私のミスです。
とはいえ、終わったことを言っても仕方ないので今度から気を付けましょう。
「それにしても、演劇ですか。いいですよね、美しい衣装を着て、みんなに観られて、有名になって。どうですか、私たちも歌ったり踊ったりしてみませんか」
常連さんは一度肩を竦めて拒否の意思を表します。むう、つれないですね。
一方で私は、例の舞台で歌われる歌を口ずさむと、まるで合いの手を入れるかのように、カランと入口のベルが鳴りました。
すぐに私は歌うのをやめ、笑顔を向けて言います。
「いらっしゃいませ」
私と常連さんの虚無な時間を破ったのは漆黒の女性でした。
上から下まで黒一色の、喪服に身を包んでいます。顔には同じく黒のベールが掛けられているのでその奥の顔ははっきり見ることができません。
彼女が常連さんの座る奥の席から精一杯距離を取った、入口に一番近い席へ座ったので、私は側へ寄り、注文を伺います。
「この店で一番良い紅茶を、いただけるかしら」
よく通る綺麗な声で彼女が言うのを聞いて、私は背後にある機械のスイッチを入れてお湯を沸かし始めます。同時にカップやポットと茶葉の用意も。
お湯が沸く数分、私も彼女も常連さんもただ静かに待っていました。そして抽出が終わってカップを渡すと、彼女は優雅に口元へ近づけてふぅふぅと紅茶を冷まします。
吹かれた息によって昇る湯気が流れる。同時に顔を覆うベールの端もひらひらと舞っています。その奥からわずかに覗く彼女の綺麗な口元からは妖艶さと、不思議な魅力を感じました。
私がつい、じっと見ていてしまったからなのか、彼女はカップを置くと、
「ねえ、お嬢さん。あなたは今夜の舞台、行くのかしら。劇場の方はもうまるで、この街の住人全員が集まっているみたいな騒ぎよ」
「例の女優さんの舞台ですか。あいにく私は流行を追いかけるタイプではないですし、人ごみも苦手ですので」
「そう、舞台の歌を歌っていたからてっきり行くのかと思ったわ」
「おや、外に漏れていましたか。それは下手な歌を聞かせてしまい申し訳ありませんでした」
「いいえ、とっても上手な歌だったわ。まるで本物みたいに綺麗な声だった」
「そんな……私なんかと比べるなんて、女優さんに失礼ですよ」
そうそう、と奥の席で常連さんも頷きます。貴方に言われるとそれはそれで腹が立つのですが。
喪服の女性は肘をついた上に頭を乗せて、私に言います。
「ねえ、お嬢さん。本当に舞台に立ってみない?」
「新手の勧誘ですか。そのような類はお断りしているのですが」
「いいえ、私は本気よ。歌って踊って演技するぐらい、誰にだってできるわ」
私みたいにね……。そう結んだ彼女が何を言っているのか全く分かりませんでした。そんな私の雰囲気を感じたのか、彼女はおもむろにベールをめくります。
現れたのは誰が見ても間違いなく「美しい」と口を揃える整った顔。
間もなく三十代に差し掛かるはずなのに、その肌はまるで十代のような瑞々しいハリを保ち、それでいて年相応の落ち着きも兼ね備えていました。
人形よりも完成された美しさ。この世界の誰もが知っているその美貌を見て私はつい、
「まさか……本物?」
驚愕の声を漏らしました。
私の声でこちらを向いた常連さんも驚きを浮かべます。無理もありません、何故ならそこには、
「ええ、本物よ。初めまして、お嬢さん」
先ほど見せてもらった新聞で一面を飾っていた有名女優、アイリーン・オースティン――その人が笑顔を浮かべていました。
3.
「喪服は良いわよね」
出来上がった紅茶を飲みながら、アイリーンさんは言います。
「顔をベールで隠していても不自然じゃないし、わざわざ声をかけようともしない。馬車の御者も何も言わなかったわ。この服は人から個性を失わせるものだと思うの」
お店の制服みたいにね。と彼女は付け加えました。
確かに喪服を着ている人に声をかけて根掘り葉掘り聞こうなどとは、余程の変人でない限り避ける行いです。
それでいて街中を歩いていてもおかしいと思われることはない。日常とは異なる異質な服装であるのに、だからこそ人々の日常へ溶け込むことができるのが喪服なのです。
「だから私のような有名人でも堂々と出歩ける。こんな昼間からでもね」
彼女が来たからと言って、ファンが追って来たり、表の通りが賑やかになったりはしていません。
人々は劇場で数時間後の開演を、彼女の登場を待ち続けていることでしょう。彼女の様子からおそらく劇場を抜け出していると思われますが、
「開演直前のこんな時間に出歩いていてよろしいのですか。リハーサル等があるのでは?」
私が尋ねるとアイリーンさんは笑って、
「ダメに決まっているでしょう。でも、いいの。私もう、二度と舞台に立たないわ」
さらりと、とんでもないことを言いました。さりげなく聞き耳を立てていた常連さんが思わずカップを落とす音がしました。幸い割れていません。
当の本人は先ほどまでと変わらず、優雅に紅茶を飲んでいました。
今をときめく大スターである彼女が、舞台に立たない……?
ともすれば経済が大きく傾くような情報を手に入れた私は、できる限り冷静を装って彼女に確認します。
「あの、私の聞き間違いでなければ今、二度と舞台に立たないと」
「ええ、女優、やめたの」
「それはまた……その、どうしてでしょう。よろしければ伺っても?」
「嫌になったのよ」
「嫌に?」
「そう、舞台で脚本家の書いたシナリオをなぞるだけの人生に」
アイリーンさんはカップの取っ手を撫でながら、思い出すように語ります。その顔は清々したという感情と、どこか悲しさを含んだような、複雑な表情でした。
「自分で言うのもなんだけれど、私は女優として成功しているわ。それこそ劇場を埋め尽くすほどに」
「ええ、流行に疎い私ですらも存じていますから」
「でもね、ふと思ったのよ。私はただ脚本家の人形でしかないって。言われた通りに演じているだけなら、誰でもいいんじゃないかって」
目的もなく家族から逃れるように都会へ出て来て、たまたま受けたオーディションで合格して、スターダムを駆け上がった。
舞台の上で役を演じることを繰り返す毎日。最初は輝いていたステージも、次第に輝きを失っていく。
何度も繰り返す中で、他の役者と過ごす中で、思ってしまった、気付いてしまった。自分の至らなさに。
埋められない実力の差に。
他の人が、それこそ人生をかけて積み上げてきた役者としての実力。そんなものは、たまたま合格しただけの彼女の中にはなかった。
もちろん彼女もできるだけの努力はしていたという。それでも、彼女が努力するのと同じ時間、他の人も同じように努力をする。
彼らのようになることはできない。永遠に追いつくことはできない。そう痛感した。
次第に舞台は実力差を露呈しないように取り繕うだけに思えるようになっていた。当てられるライトの輝きは、彼女の中の闇を浮き彫りにしていった。
「『ド素人の新人の時は扱いやすかったが、最近は少し扱いづらくなったな。そろそろ新しいのにするか』……って。脚本家と監督が話していたのを聞いたの。まるで部品みたいにしか私を見ていなかった」
重要なのはストーリーという製品で、役者はそれを作る交換可能な部品でしかない。そうはっきりと話すのを聞いてしまった。
「だからね、一泡吹かせようと思って。やめてきたの」
そこまで話して彼女は口を閉じました。乾いた喉を潤すべく、すっかり湯気が落ち着いた紅茶を飲み干してしまいます。
私と常連さんは、ただただ静かに聞いているだけでした。私たちは簡単に何かを言うことはできない。次に伝える言葉次第で、彼女の人生は変わってしまうという雰囲気があったのです。
再び話始めたのはアイリーンさんでした。彼女が身にまとっている漆黒の喪服を撫でながら、
「この喪服はね、変装のためだけじゃなくて、女優としての私への手向けの意味もあったの。洒落ているでしょう?」
うふふ、と笑う彼女。その顔は笑顔でしたが、奥底には確かな悲しみが感じられました。
きっと彼女はまだ未練を持っている。女優という自分を捨てきれないでいる。
私にできるのは2つにひとつ。彼女の決断を後押しして、去っていくのをただ見守るか。
彼女の考えを否定し、あるいは認めつつも女優という世界へ戻ろうと思わせるか。
もちろんどちらかの意見を言ったとしても、彼女の決断を絶対に変えられるとは限りません。それでも何もしないよりはマシではないかと思ってしまうのです。
ちらりと、横目で常連さんの方を見ると、彼女は私に委ねるという視線を送って、静観を決め込むようです。
だから私は――――。
4.
「いいじゃないですか。早く劇場へ戻ってあげましょうよ」
アイリーンさんを、ステージという世界へ戻したいと、そう思いました。
長い沈黙――。
私の言葉にアイリーンさんは理解できないという顔を浮かべ、奥に座る常連さんもまた何も言いません。
室内には天井のファンが回る音と機械の動作音だけが広がっていました。外には依然として人通りはなく、静寂を破る新たな来客は現れそうにありません。
先に、アイリーンさんが口を開きました。その顔は引きつった笑みが浮かんでいます。
「えーっと……今の言葉は、どういう意味かしら?」
彼女が数年に及ぶ女優業を通して断腸の思いでした決断を、出会って30分ほどの小娘に否定されたのなら、もう少し怒ったりするかと思いましたが、とても冷静な声でした。
「私は続けても無駄だと思ったのよ。絶対に他の人たちに追いつけないって。それに脚本家の言いなりになるだけなのも嫌だって。そう、話したわよね?」
私は頷いて肯定します。それなら――と言う彼女を制して、
「まずは絶対に追いつけないという話についてしましょうか。どうです? もう一杯紅茶でも飲みながら。サービスしますよ」
できる限り道化のように、軽い雰囲気を出しながら言いました。
アイリーンさんが頷いたので、私は先ほどと同じ紅茶を差し出します。彼女もまた、先ほどのように息で冷まして一口飲みました。
「追いつけないということですが、別にいいんじゃないでしょうか。追いつく必要がどこにあると言うのでしょう」
「それは舞台に立つ以上、同じぐらいの存在じゃないと……」
「だから別に全く同じ方向に走って行かなくてもいいんじゃないですかね。自分だけの演技ができるようになれば、それでいいのではないでしょうか」
みんな違ってみんないい――なんてことを言うわけではありませんが、全く同じ場所へいなくてもいいとは思います。もちろん最低限の実力は必要でしょうが。
努力を続けて来ていた彼女には、その実力は十分に備わっているはずです。
「脚本家の件だって、それはこちらも同じですよ。別に貴方ほどの大女優であれば、引く手は数多でしょう。新しい人と組んだりすればいいんですよ」
ね、簡単でしょう? と、言ってしまいそうなほどに軽く言ってみせました。できる限り明るく、私までシリアスになってしまうと息が詰まってしまいそうですし。
奥の席で、何もそこまで道化を演じなくてもいいだろうという視線を常連さんが送ってきます。
そしてアイリーンさんはというと、
「…………」
曖昧な顔で沈黙していました。
所詮私の言葉は門外漢の意見に過ぎないので、ただ混乱させてしまっただけかも知れません。いや、むしろただおせっかいを通り越して『ウザい』説教じみていたでしょう。
それでも彼女は私の言葉を聞いてくれて、そして――
「それもそうね」
短く肯定したのでした。
隅で常連さんが小さくガッツポーズをしたのが見えました。なぜならアイリーンさんの隠れファンだからです。今までに何度も舞台を観に行っているという話も聞きました。
そして私が出すぎた真似をしたと謝罪するとアイリーンさんは、
「いいのよ、はっきり言って貰わないときっと私、ずっと逃げていたから。考えるのをやめて、悲劇のヒロイン面して。そのままダメになっていたわ」
屈託のない笑顔で言いました。
「それならいいのですが」
「ええ、変に有名になってしまって、何か言ってくる人は殆どいなくなっていて……それこそ脚本家がダメだしするぐらいしかなかったから、自分の演技なんかが正しいのかわからなくなっていた。それも自信を失わせていたのね」
ふぅ、と彼女は一息ついて、すっかりぬるくなった紅茶を飲み干してしまいました。
「実はね、このお店の噂を聞いてやってきていたの。悩みを解消してくれるお店だって。だからあなたにどんなことを言われようとも受け入れるようと思っていたの」
巷で囁かれているという、『願いを叶えてくれる喫茶店』の噂。私はそのようなことをしているつもりはないので、
「私はただ、お話を伺うだけですよ」
そう正直に言うと、
「でも実際私の悩みを蹴飛ばしてくれたわ」
「たまたまです」
「本当かしらね」
彼女は会計を済ませると、外していた黒いベールを再び被って会計を済ませます。
女優である自分との決別として着てきた喪服はきっと、その意味を失い、ただ人目を欺き、世界に溶け込む変装でしかなくなっているでしょう。
「暇ができたら、また来るわね。今度は最初から楽しい気持ちでやって来るわ」
「ええ、是非またお越しください」
そして女優――アイリーン・オースティンは帰って行きました。
今夜開演する舞台。人々が彼女を心待ちにしている劇場へと。
5.
超大物スター女優の来店からしばらくして。
彼女の効果で私の店はファンの人が押しかけて連日連夜大盛況――
「なんて、そんなことになっていたら私はきっと店を閉めますね」
変わらず静かな店内です。
私はコーヒーをマグからちびちび飲み、いつも通り一番奥の席にいる常連さんもまた、平常運転で新聞とコーヒーを楽しんでいます。
「売上とか私にはあまり関係のないことですし。適度に忙しくて、大体が暇であるのが最高の状態です。貴方も、賑やかなのは嫌でしょう?」
表の通りには日光の下を行き交う人々がそれなりにいます。中にはちらりとこちらを一瞥して、そのまま歩いていく人も。
そうだ、と思い出したように私は声を出します。
「最近は私も新聞を読んでいるんですよ。情報は鮮度が命の武器ですから」
言いながら、カウンターの下に収納した今朝の新聞を取り出して、ある一面を常連さんに見せます。
常連さんも全く同じ新聞を持っているのでわざわざ見せる必要はありませんが、雰囲気が出ると思ったのです。
「ほら、これ。アイリーンさんの記事ですよ」
アイリーンさんの大きな写真と近くの劇場での公演が千秋楽を迎えたこと。それと共に、彼女へのインタビューが掲載されています。それによると、
「彼女、今度は自ら脚本を手掛けて舞台を作るらしいですよ。もちろん女優業の方も継続するようですが。演劇を通して自分自身をそのまま全て伝えたいんですって」
自らが持つ新聞で同じページを開いているので常連さんは全くこちらを見てくれないので、大人しく私は新聞を片付けてしまいます。
「それにしても綺麗でしたね、あの人。流石大女優という感じでした。あれで自信がなかったとか少しギャップのある可愛らしさもあって……」
なんて会話をして、珍しく夕方に常連さんが帰ってしまったので、一人残された店内で私が寂しく鼻歌を歌っていた時のことです。
カランと入口のベルが鳴ったので、「いらっしゃいませ」と言いながらそちらを向きます。
そこには漆黒の女性が立っていました。
装飾のないシンプルな黒い布で作られた喪服。頭部には同じく黒のベールが掛けられていてその奥の顔を詳しく見ることはできません。
それでも私は彼女が誰かすぐにわかりました。
喪服を着ているのに、死別の悲しみが全く感じられない声で彼女は言います。
「こんにちは、お嬢さん。可愛い歌に誘われて、また来たわ」
第2話END