第04話 日常に潜む影
「あっつい……」
目が覚めて最初の一声。
部屋に差し込む猛烈な熱気と日差しに当てられて、スマホに設定していたアラームの5分近く前には目を覚ましてしまった。
うだるような蒸し暑さの中で必死に体を起こし、寝起きで思考が定まらない中自分の体を見下ろす。
床に薄っぺらい布団を敷いて寝ていたことに一瞬疑問を感じるが、すぐに昨日の出来事を思い出す。ベッドは半ば無理矢理居候に譲り、自分は床で寝ると決めたのだ。
ぼんやりした視線のままふと横を見ると、昨日までは和輝が寝ていたベッドの上に、長いブロンドヘアーが特徴的な我が家の居候姫マルタが、和輝のお古ジャージを着て小さく寝息を立てていた。
(夢じゃなかった、なんてベタなこと考えちゃったな……)
眠気眼のままベッドから立ち上がり、敷布団を手早く畳んで部屋の隅に追いやる。テーブルの上に手を伸ばすと、乱雑に置かれていたリモコンを手に取り冷房を付けた。
続いてスマホを取り、鳴る事がなかったアラームを止めつつ時間を確認する。7時55分。
(今日の補習は……9時とか言ってたっけ。さっさと着替えて早めに学校行くか)
盛大に欠伸をかましつつ、二度寝したい欲求を必死に堪えて学校へ行く準備を始める。
顔を洗って、歯を磨き、寝癖を直して、制服に着替える。荷物はどの道、教科書やノートのほとんどを学校に放置しているため、鞄に入れるのは筆記用具と財布だけで問題ない。
10分ほどで手早く用意を済ませた和輝は、改めてベッドの脇まで来てそこで熟睡しているマルタに視線を落とした。
さすがに寝ている彼女をこのまま放置して外出するわけにはいかない。
とりあえず起こすかと肩に手を伸ばそうとして……ふと気付く。
「……」
服の裾は大きく捲りあがり、襟からも白い肌がチラチラと覗くその無防備な姿。
小さな膨らみがある胸は寝息に合わせて僅かに上下を繰り返し、桃色の綺麗な唇から規則的に吐息が漏れ出している。
はっきり言って。
スケベだ。
(って、いかんいかん! 昨日と同じじゃねぇか! 考えるな!)
思考を中断すべく首をブンブン横に振る。邪念とはおそろしいものだ。軽々しく『しばらくうちに居ればいい』なんて言ってしまったが、これはしばらく己との戦いになりそうである。
「……ぅ、」
「?」
すると、和輝が声を掛ける前にマルタの薄い唇が僅かに動いた。
まさかこちらの気配で目覚めたのかと慌てて体を離す。別にやましいことはしていないけど何となくだ。
「……とう、さま……」
ところが彼女の口から紡がれたのは、小さな寝言。
父親のことを口にする何気ない一言。
「……」
思わず和輝は、昨日マルタから聞かされた異世界の話を反芻した。
詳しくは理解できないし、現実味がなくて想像もしにくい。ハッキリしていることは、特殊な力を求められて父親を含む自国全てに狙われているということ。
他でもない、肉親である父から戦争の道具として扱われる娘。
一体彼女はどんな気持ちでこちらの世界に逃げてきたのか。考えるだけで嫌になる。
それでも尚、彼女は和輝の前で普通に笑っていた。……きっと和輝が考えている以上に、マルタは強い人間なのだろう。
「……おい、マルタ。朝だぞ」
引っ込めていた手を改めて伸ばし、マルタの肩を軽く揺さぶりつつ声を掛ける。
瞼がゆっくりと持ち上がり、透き通るような青い瞳が薄っすらと覗いた。焦点が定まっていない呆然とした表情でじっとこちらに視線を注いでくる。
和輝は手を離すと、小さく笑い掛けた。
「おはようさん。目ぇ覚めたか?」
「……、」
声を掛けられて少しずつ意識が覚醒してきたのか、マルタは何度か瞬きを繰り返し片腕の袖で目をこする。こうして見ると完全にただの子供だ。
未だウトウトとした様子の中、しばらくしてようやく口を開く。
「……カズキさん、おはようございます……」
「ああ。よく眠れたか?」
「はい、おかげさまで……」
上体だけ起こし、ぐっと背伸びするマルタ。髪の毛は昨日と違ってところどころ癖が出ており、ジャージ姿というのも相まってなかなかシュールな姿だ。
苦笑いを浮かべつつ和輝は鞄を肩に下げると、空いた手でキッチンの方を指差した。
「俺これから学校行くから、留守番頼むぞ。腹減ったら台所にある菓子パンでも適当に食っててくれ」
「ふぁい……」
欠伸と同時に返事をしたせいか、これまた呑気な響きで返ってくる。
「夕方までには帰ってくるから。じゃ、あとよろしく」
別に子供扱いするつもりはないが、ポンポンとマルタの頭を軽く叩いて、和輝は玄関へと足を向けた。
履き慣れたスニーカーに足を通して玄関のドアを開ける。その時、後ろからマルタが近付いてくる足音が聞こえた。
振り向けば、すぐそこまで歩み寄って微笑むマルタ。未だ眠気は残っているようだが、彼女はその場で小さく頭を下げた。
「カズキさん、お気をつけて」
「……お、おう」
ただのお辞儀なのになぜか妙に色気を感じる仕草を受けて、一瞬呆気に取られて上擦った返事をしてしまう。
俺じゃなかったら危なかったね。なにがとは言わないけど! なんて心の中で言い訳がましく述べてみる。
マルタに見送られながら部屋の外に出て扉を閉めると、鍵を閉め、朝日照らす中いつもの通学路へと足を進めた。
◇
折角夏休みが始まったというのに、昨日までと変わらず制服を着て学校に向かう自分を改めて見直すとやっぱり情けなく感じる。壊滅的な赤点を取ったのだから仕方ないのだが。
とはいえ、女の子に朝見送ってもらうという経験を曲がりなりにも果たせた和輝は、どちらかというと晴れやかな気分であった。
偏差値は中の中。平凡な私立高校。通い慣れた学校に約20分ほど掛けて到着した和輝は、普段に比べてまったく人影がいない校舎をのんびりと歩き、二年生である自分の教室の前に到着した。
ガラガラと音を立てて扉を開けると、見慣れた教室の中には5人ほど生徒がいた。それぞれが好き勝手談笑している。
そのうちの一人が、教室に入ってきた和輝の姿を確認すると近くまで歩み寄ってきた。
「やあ桐嶋。昨日ぶりだね」
「おう」
癖のない整った髪に、我の強そうなつり目。細いフレームのメガネをかけた細身の男子生徒。
彼は和輝のクラスメイトであり友人の大和蒼平だ。二年に上がってから同じクラスになったため決して付き合いが長いわけではないが、最初の席が隣同士だったこともあり話す機会も多く、何だかんだ意気投合した。
彼はわざとらしくメガネを中指で持ち上げ、何やら満足気に微笑んだ。
「やっぱり桐嶋は補習参加者か。ま、泉妻先生のお気に入りだしね」
「やっぱりってなんだオイ」
大和には割りと高い頻度で宿題を見せてもらったりしてるので、まあそう言われても仕方ないのだが。
しかしそんな彼も今こうして目の前に居ると言うことは和輝と同じ境遇なのである。
「そういうお前だって補習来てんじゃん。成績悪かったっけ?」
「いや、僕は桐嶋と違って優秀だよ。テスト当日が新作ゲームの発売日だったから無断欠席しただけさ」
「ある意味俺よりタチ悪ぃよお前! 泉妻先生が聞いたら泣くぞそれ!」
「仕方ないだろ? 予約してずっと楽しみにしていたんだ。一分一秒でも早くプレイしたかったんだよ」
「だからってテストをばっくれるとか胆が座ってんな……ちなみに何のゲームなの?」
「終わったら桐嶋にも貸してあげるよ。丁度今4人中3人のCGとエロシーンを回収し終わったところだから」
「エロゲーかよ別に貸していらねぇよ!!」
見た目はどちらかというとメガネの似合うイケメンなのだが、中身の方が極度のゲームオタクであるためまったくモテないのがこの男だ。
どこかが尖っていればどこかが凹んでいる。大和を見ていると神様の裁量とやらをまじまじと見せ付けられている気分になる和輝である。
「大体今の俺の部屋でエロゲーなんてできる訳が……」
「? どうしたんだい?」
突如として部屋に召喚された居候お姫様のことを思い出し思わずぼやく和輝に、大和は不思議そうな表情で問い掛けてくるが、適当にあしらっておく。こんな奴にマルタのことを知られてしまったらどうなることか。想像するだけで恐ろしい。
大和はふっと教室の中を見渡すと、二人ほどいる談笑中の女子を軽く目配せする。極めて真面目な表情で、ポツリとそれを口に出した。
「桐嶋。黒と白のニーソがあるとしたら、君はどっちを食べたい?」
「どっちも食べ物じゃないんですがそれは」
「あくまで例え話さ……ニーソックスという女子のファッション自体は、過去から普遍的な人気を誇る。だが、黒ニーソか白ニーソ、どちらが上かという話はあまり聞かない。僕はそこに奥深いテーマを感じずにはいられないんだ。今朝、網タイツのOLを見た時から考えている」
「網タイツからどうしてそこに至ったのかを問い詰めたい」
何を言い出すかと思えば相変わらずおかしな奴である。
大和は尚も真剣に、まるで世界の危機へ立ち向かうかのような神妙さで続ける。
「黒は視覚的な美脚効果がある。それは女子にとっても重要な点だろう。加えて黒という配色自体、汎用性の高さから様々な色に合わせやすい。決して目立たせない、しかし存在は主張する……素材の味をより際立たせる魅惑の力が、黒ニーソには秘められているんだ」
「ふーん……で、白は?」
「まさしく対極だよ。これぞ、THE・ニーソ。白ニーソは決して自分を控えめに見せるようなものじゃない。力さ。圧倒的パワーを、ただ純粋にニーソとして振り撒く。ガラスの靴を履いたシンデレラとは、まさに白ニーソのことさ」
「白ニーソをシンデレラで例えた奴はきっと世の中でお前が初めてだと思うぞ。じゃあなんだ、お前にとっては白の方がより良いニーソなのか?」
うんざりした和輝の問いに、しかし大和は苦虫を噛み殺すような表情で拳を握り締めた。
「だが! やはり影の立役者である黒も捨て難い! 白と黒を左右に履けば合わさって最強になるなんていう単純な話でもない!! どれだけ考えても答えが見出せないんだッ!!」
「別にどっちでもいいじゃん……つーか俺的には、ニーソより黒タイツの方が好きなんだよな」
そういった途端、大和の目がメガネの奥で、カァッ!! と思いっきり開眼した。
ガタガタと全身を震えさせながらこちらに振り向いてくる。
「き、桐嶋……貴様、今しがた何と言った……?」
「だから黒タイツの方が好きだって話。やっぱ最低60デニールは必要だよなぁ。理想は80以上! 夏場は30未満のストッキングしか見かけないから悲しいよ。分っかんねぇかなー? 黒髪おさげの委員長系制服女子が黒タイツを履いてる時の魅力って奴がさー、」
「きぃぃぃさぁぁまぁぁああああああああッ!!!」
その瞬間、特撮物だったら間違うなく真後ろで赤色の爆発が起きていたであろう勢いで、大和が高らかに咆哮した。
「それはニーソ派への戦線布告と受け取っていいのだな!?」
「はぁ? なんでそうなる、」
「所詮タイツなど! 爪先から腰周りまでを全て覆ってしまう、絶対領域も何もない寒がりが着用するだけの衣服ではないか! 大体、色の濃さなどという些細なことに拘る時点でタイツ好きの器量が知れる……」
「んだとテメェ! さてはストッキングとタイツの違いすら知らない情弱だな!? 黒一色で肌を覆いつくすからこその艶かしさってのがあるんだよ! 肌色を少しでも隠そうとするさり気無い恥じらいを感じられるのもまたグッド! 男の視線を狙うビッチしか履かないニーソなんぞと比べないでいただけませんかねー!!」
「ふん! 貴様こそタイツの局部だけを破いて変態プレイがしたいだけじゃないのか!? そんな奴の道具にされるなど、タイツはアダルトグッズに部類した方がいいんじゃないか!」
「べっ、べべべ別にそんなこと考えてねーし!! 神聖なタイツをテメェの妄想で汚さないでくれませんかね!!」
「ほらみろ動揺してるじゃないか!! この変態が!!」
「お前だけには言われたくねぇよ!!」
教室の後ろでアブノーマルな討論をぎゃーぎゃー繰り広げ始めるバカ二名。
―――それから約20分後。
担任の教師である泉妻先生が教室にようやく顔を出した。
「よしお前ら、適当な席座れやー。補習授業始めるでー」
「「先生!! ニーソとタイツ履き比べてください!!」」
「うし、そこのバカ共は補習の課題追加な」
◇
結局、補習が終わったのは時計の針が午後の5時を回った頃だった。夏休みの補習だなんて言っておきながら、きっちり通常の下校時刻まで拘束されていたわけである。
外はすっかり夕暮れに時に染まり、和輝はとぼとぼと歩きながら正面玄関を出る。
大和とはついさっき別れたばかりであった。何でも朝話していたエロゲーが最高にいいところで中断してるとかで、早く続きをプレイしたい一心に駆け足で先に帰ってしまった。ちなみに"いいところ"というのがどういう場面なのかは聞くのを憚られた。一応は彼の友人である身として、物語上最高に盛り上がるクライマックス部分であることを願うばかり。決して彼のフェケチズムに突き刺さるようなエロシーンのことではないと思いたい。
あんな奴でもちゃんとテストさえ受ければ全科目90点以上は当たり前の優秀な男なのだ。天才とバカは紙一重というが、果たして大和はただのバカなのか。それともバカの皮を被った天才なのか。なかなか度し難い奴である。
でもやっぱ黒タイツが一番だよな、なんて考えながら外に歩み出て校門を潜ろうとしたところ、和輝はそこで知り合いの女子生徒とばったり鉢合わせになった。
「あ、兄さん」
「……? 璃々子か」
学校の制服であるセーラー服を身に纏う女の子が、僅かに驚いた様子でこちらを見上げた。
「こんなところで偶然だね」
和輝と同じ高校に通う一年生。そして同時に、和輝とは血の繋がった兄妹でもある桐嶋璃々子は、こちらの顔を見てニッコリと笑った。
小さなポニーテールにしている黒髪が子犬の尻尾みたいにひょこひょこと揺れて、彼女の感情を表しているようである。
実妹とはいえ学年は一つ下。和輝は学生寮で一人暮らし、璃々子は桐嶋家の実家から通っているため学校でも中々会う機会はないのだが、夏休みの、それも補習期間に、こんな場所で顔を合わせることになるとは思わなかった。
「兄さんは……もしかして補習?」
「う、なぜ分かったし……」
「もー駄目だよ? 普段からちゃんと勉強しなきゃ」
呆れながらもどこか諭すように言い聞かせる璃々子の言葉は、完全に駄目な兄貴に世話を焼く妹のそれである。
「そういう璃々子も制服着て学校来てるじゃないか」
思わず反論気味に彼女の格好を指摘するが、璃々子は否定するように手を振って見せた。
「違うよ。あたしは生徒会の仕事でちょっと来てるだけ。9月の体育祭に向けて色々と大変でさ」
「9月って大分先じゃないか。もう準備してるのか?」
「兄さんが思ってる以上に学校行事って手間隙掛けてスケジュール組まれてるんだよ」
そこで璃々子は、いい事を思いついたと言わんばかりに小さく手を叩いた。
「そうだ。兄さん晩御飯は食べた?」
「いや、まだだけど」
「なら丁度いいじゃん。あたし今休憩中なんだけど、折角だからどこか食べにいかない?」
気兼ねない誘い。本来妹とは兄の存在を毛嫌いすることが多いなんて話をよく聞くが、璃々子に関しては二人での食事を誘ってくるぐらいには兄である和輝のことをちゃんと良好な関係の家族として捉えてくれている。
和輝も当然、璃々子のことは良くできたいい妹だと思っている。本来であれば二つ返事で承諾していたところだが……。
「あー……」
そうもいかない理由がある。今も尚、寮の一室で留守番をしてくれているであろうマルタの存在だ。
彼女を放置して先に和輝だけ食事を済ませるというのは、なかなか申し訳ない。
「悪い。今日は家にカレー作り置きしててさ。夏場だから放置しすぎるとすぐカビ生えるだろ?」
「あ……そうなんだ。じゃあ仕方ないね」
あからさまに残念そうにしょぼくれる璃々子。その様子を見ると流石にこちらにも申し訳なく感じてしまう。カレーに関してはそもそも作ってすらいない嘘であるから尚更。
「……また今度な。璃々子が好きなうどん屋あったろ? 次時間あった時にそこ行こう」
「! うん!」
誤魔化すわけではないが、フォローはしておかなければと頭を撫でながらそう伝えると、ぱぁっと表情を明るくし嬉しそうに頷いてくれた。
が、そこで何故か不思議そうに何度か瞬きをした。
「……? 兄さん」
「なんだ?」
「何か疲れてない?」
「え?」
「ちょっとだけ元気なさそうに見えたから。大丈夫?」
さすが我が妹ながら、勘が鋭い。
実際、昨日からマルタのことであれやこれやと考えることが多く、精神的なスタミナをいつもより消費していたのは確かだ。魔法やら異世界といった話も、マルタを住まわせる上で受け入れてはいるが100%信じているわけではない。常に頭の隅に、拭いきれない謎として残っている。
今は別居とはいえ、小さな頃から共に過ごした時間が長い彼女はほんの僅かな異変に気付いたのだろう。
「……いやぁ、補習でたっぷりしごかれてさ。もうヘトヘトだよ」
しかしここは誤魔化しておく。
それでも璃々子は僅かに首を傾けたが、一応納得したらしい。呆れたように笑みを浮かべた。
「もう、しっかりしてよね。兄さんのクラスって泉妻先生だったよね? たぶん先生も同じぐらい疲れてるよ」
ははは、と曖昧に笑う和輝。
まさか本当のことを言えるはずがない。和輝の部屋に異性が寝泊りしているだなんて璃々子に知られたら即家族会議に発展する上、『この子は魔法の異世界から、戦争を止めるためにこっちへ逃げてきたお姫様なんです』なんて説明したところで信じてくれる訳がない。
面倒事は可能な限り避ける。いつものことである。
「あ、そうそう。長期休暇に入ったんだから、たまには実家に顔出せって父さんが」
「えぇ……戻ってもどうせ、父さんか璃々子を相手にいつもの稽古だろ?」
「ふふ。あたしは兄さんとの稽古好きだよ?」
「へーへー。まあ考えておくよ」
よろしい、と璃々子は満足気に頷くと、ご機嫌な足取りで距離を置きこちらに小さく手を振った。
「それじゃあ兄さん、体調にはくれぐれも気をつけてね」
「おう」
「それじゃあまた!」
元気よく言い切って、タッタッタ、とリズミカルな歩調で和輝の帰り道とは違う方へと走っていた。向かう方角的に、おそらく学校に一番近いコンビニだろう。
その背中を見送りながら小さく笑い、和輝もまた、マルタが帰りを待つ学生寮へと再び帰路についた。
◇
「俺にも魔法って使えるのか?」
晩飯を済ませたあと、使用した食器などを洗いながら隣のマルタにそんな問いを向けてみた。
ずっと気になっていることではあったが、何となく返ってくる答えは想像できたので後回しにしていた疑問である。
洗った皿を受け取りタオルで拭いているマルタは首を振って応えた。
「いえ、無理です。魔法を扱えるのは体の中に魔力を持つ者だけ。サンクカタリスの人々は遺伝として魔力が継承されているからこそ魔法を使えるのです」
「ふーん……つまりこっちの人間には魔力がないから、どうしたって魔法は使えないってことか。まあそんなもんだよなか」
正直、マルタが魔法を使って和輝の左手の傷を治療してみせた時は、『もしこれが自分でも使えたら』と期待がなかったわけではないが、やはりそう都合よくはできていないらしい。
「ちなみに、わたしの『ブースター』みたく対象者の魔力に干渉するタイプの魔法も、こちらの世界の人々には何の効果も与えられません」
「本当に無縁なんだな、こっちの人間と魔法って。しかし、これまでの歴史で『魔法使いの偉人』なんてのが出てこなかったのも頷けるか」
少し残念ではあるが、その分納得はいったのでうんうん頷いておく。
ラスト一枚の皿をマルタに手渡すと、蛇口を止め、乾いた食器の片付けに取り掛かった。
―――ちなみに晩飯は、帰りにばったり会った妹の璃々子との会話を思い出し、カレー……を作ることは流石に冷蔵庫の中身が圧倒的に足りなかったので無理だったが、妥協して、湯銭で温めるレトルトカレーで済ませた。
二日目から早速即席品でマルタには申し訳ないところではあったが、最近のレトルトカレーは物によってはそこらのチェーン店ぐらいには匹敵する味のものが割りとある、というのが和輝の自論である。マルタも相変わらず美味しそうに頬張ってくれたので、今日のところは別にいいだろう。
それに明日は、昼頃から出掛けてマルタの私生活用の衣服や日用品、ついでに冷蔵庫の買い足しも一気に済ませる予定である。もっと言うならそれに備えてあまりお金の無駄遣いができないという本音。
どうせ食事も外食で済ませるだろうし、今日はこんなところだろうと和輝はぼんやり考えた。
「あの、カズキさん」
一通り洗物を拭き終わったマルタが、Tシャツの袖をくいくいと引っ張ってきた。
振り向くと、彼女は部屋の片隅を指差しながら、
「昼間から気になっていたのですが……あれは何ですか?」
指し示す先には、平たい長方形のブツ。シルバーのボディが極めて目立ち、中央にはリンゴのシルエットが描かれている。
ようはノートパソコンであった。部屋のコンセント付近に、充電ケーブルに繋がって乱雑に置かれている。
文明の塊みたいなパソコンの存在を、当然マルタが知るわけも無い。好奇心旺盛な彼女のことだ、ああいうあからさまな現代的外観の物は気になって仕方ないのだろう。
「あれはパソコンって言って、データ処理を行う自動計算機……って言っても分かんないよな」
「……?」
「ええっと、なんつーか……とにかく色んなことができる便利な機械なんだけど、言葉じゃ説明しずらいな」
パソコンはパーソナルコンピュータの略称であることぐらいは和輝にも分かるが、ではコンピュータって何? と聞かれれば、『そういうもの』だと覚えてしまっているせいで実際説明するとなると中々言葉が出てこない。
いっそ使って見せた方が早いかもしれない。
「実際に見てみるか? そっちの方が分かるだろ」
「は、はい!」
ぱぱっと片付けを済ませると、マルタを連れてテーブルへ。ノートパソコンを電源から引っこ抜き、マルタにも見えるようにしてテーブルの上で開いてみせた。
「変わった形状ですね。このブツブツはなんですか?」
「これはキーボード。で、上のこっちがディスプレイ。ここが画面として映し出されて、下のキーボードで操作するんだけど……、」
口頭で説明しながら電源ボタンを押そうとして、ふと気付く。ボタンのシンボルが橙色に淡く光っていた。
スリープモードだ。そういえば数日前に電源に繋ぎっぱなしにしてスリープさせていたかもしれない。
何かの途中だったっけ? と思いつつも、特に思い出せないので構わずボタンを押す。一から立ち上げるわけではないので、ものの3秒ほどで画面に明かりが宿った。
「おぉ……」
傍らのマルタがその光景に感嘆の声を漏らす。見るからにワクワクした様子でディスプレイに釘付けになる。この程度で驚いてくれるなら、適当にネットブラウザでも開いて触らせてやるだけでも満足するだろう。
そんな風にぼんやりと考えながら、ロングイン画面でぱぱっとパスワードを入力する。そのまま深く考えもせず、エンターキーを押した。
……この時もう少し過去をよく回想していれば、この後の悲劇を回避できたかもしれない……などと、数秒後に後悔することになるとは塵ほども考えていなかった。
デスクトップ画面に真っ先に表示されたのは、背景に設定していた見晴らしのいい草原の画像ではなく。
全裸の男と女が組んず解れつ絡み合っている動画が、一時停止した状態で表示された。
「…………………………」
「…………………………」
氷のように固まる空気。
時間が止まったんじゃないかと錯覚するほど、ピクリとも動かなくなる二人。
一体どれほどの間、そうしていたのか。
動画のタイトルにはこう記載されていた。
―――『メガネっ娘委員長がタイツ破って俺専用の性欲○○器になるって誘惑してきたwww』。
ぶっころすぞ。
「…………ぁ、あの……か、カズキさん、これは……、」
見る見るうちに白い肌を真っ赤に上気させていくマルタが、画面に釘付けになりながらガタガタと震えて呟く。
「ちっ、違う! こ、ここ、これはだな!? そう! ウイルス! なんか勝手にエロ動画が再生されるウイルスに侵されたんだよきっと! 別にエロ動画見てる最中に宅配便が来てそのままパソコンスリープさせてたとかそんなんじゃなく!!」
完全に狼狽した声で必死に弁明する青少年ここに一人。
大慌てでキーボード下のタッチパッドに指を這わせてブラウザを閉じようとする。しかしその際、指先がかなり震えていたせいでスペースキーに触れてしまった。
当たり前だが、動画プレイヤーでスペースキーとなれば、再生と一時停止のショートカットコマンドである。
なので。
画面の中の男女も突如動き出し、パソコンのスピーカーから嬌声が響き渡った。
(アアアアアアアアアアアッ!!)
絶叫というか悲鳴が脳内で爆裂。
加えてエスケープキーを猛烈に連打連打連打。
そういえば最近はエスケープキーで即時終了する方が稀少なんだっけと気付き、最早叩きつけるような勢いでノートパソコンを思いっきり畳んだ。
シン、と場は静まり返る。
全身から冷や汗を吹き出す和輝に対し、隣のマルタはチラチラと様子を伺いながら言った。
「……あ、あの……わたしは、えっと、気にしないですよ……? カズキさんも男性ですから、その……こういった事に興味がおありなのは、仕方ないことですので……」
耳まで顔を真っ赤にしながら聖母のような言葉を掛けてくれるマルタだが、なぜだろう、最初より微妙に離れた距離に座ってる気がする。行き場がないようにフラフラとする視線もなぜか合わせてくれない。
微妙な心の距離を、そのまま現実に表しているようであった。
「……ごめんなさい……」
とりあえず土下座して謝っておく。
『パソコン=えっちな箱』という知識をマルタに植え付けてしまう悲しい事件であった。
◇
夜の街並み。
月明かりだけが地上を照らし、昼に比べて静寂が一帯を支配する。
人通りは少なく、車の交通も決して多くない。
そんな中、今は使われていないとある廃ビルにて。
その屋上に、街を見下ろす一つの影があった。
(これほどの数の尖塔が聳え立つ世界……改めて見れば、奇怪な景色だな)
ブロンズの髪の毛と長いロングコートの裾を風に揺らす、黒衣を纏った男。背中には二本の剣を携え、肩まで覆いつくす左腕の篭手が月明かりに照らされ、不気味に輝いている。
男の名は、ユリアン・フェリシン。
彼は、ある一人の少女―――マルタ・レナートヴナ・ヴァシレフスカヤを追って異界から赴いてきた。
「……」
彼は自身の腹部に手をやった。そこは先日、見覚えのないある男に殴られた箇所であった。
―――たった一撃。
ユリアンの記憶にこびり付いているのは、騎士団長である自身を一撃で沈めたある男の顔だった。
魔法どころか武器すら持たず、素手によって繰り出された意識を刈り取る驚異的な破壊力。
痛みは引いたはずなのに、思い出せばチリチリと、あの時の衝撃が脳裏を刺激する。
(この世界の住人は、魔法すら使えないひ弱な人間ばかりのはず……奴は一体……)
不可解な記憶にユリアンは眉をひそめる。
―――その時、夜天の暗闇に光を差し込むようにユリアンの後方で輝きが生じた。
肩越しに視線を向ける。そこに見えるのは、周囲を明るく照らす薄緑色に輝く大穴。人一人が通れる程度のそれを、ユリアンは知っている。
『ワールド・ゲート』。異世界へ渡るための転移魔法だ。
「……来たか」
ゲートから、一人の男が歩み出てきた。
身長はユリアンより僅かに高い。袖のない黒いコートを羽織り、動きやすい格好をしている。逆立った髪の毛と鋭い三白眼は、まるで狼のような凶暴さを感じさせる。男は背中に背負う身の丈ほどの大槍を気にしながら、跨ぐようにしてゲートの外に出てくる。
「団長様の出迎えかい? こいつは光栄だねぇ」
どこか挑発的な男の物言いに、ユリアンは視線を正面へと戻す。
一言、事務的に口を開いた。
「次のゲートはいつ開く?」
「さてねぇ。ただでさえ魔力がいるからな、早くて3日後ぐらいだろうな」
男の背後で、開かれていた『ワールド・ゲート』の輝きは空中へと霧散していった。
それを見て彼は、うんざりしたようにため息を吐き出す。
「ったく、テメェがいつまでもチンタラしてるからオレまでこっちに来る羽目になっちまったじゃねぇか。何をそんなに時間かけてやがる」
「……現地住民の邪魔が入った」
淡々と応えるユリアンの言葉に、男は鼻で笑った。
「まさか魔法も使えねぇここの連中に遅れを取ったってのか? はっ! 団長様も随分と腕が落ちたんじゃねぇか? 今やり合ったらオレが勝つかもなぁ」
「こちらの人間を甘くみない方がいいかもしれない。だからこそ手を拱いている」
「んだぁ? ヘタレやがって……まさか本気でへなへなしたこっちの人間にやられたのか?」
ユリアンは答えない。だがそれは肯定の沈黙だ。決して屈強な強者には見えない、まだまだ子供のような少年にユリアンは一撃で敗北した。
男はユリアンの隣まで歩み寄ると、ビルの端から真下の光景を見下ろした。その表情が、どこか嬉しそうに笑みを浮かべる。
「へぇ……テメェをのすような奴がいるってのか。そいつは今どこにいる?」
「さてな。だがおそらくは……姫と共にいる」
「つまり姫様追いかけてりゃやり合えるかもしれねぇって訳か。はっ、おもしれぇ」
その笑みが、次第に獰猛な様へと移り変わった。
正しく戦闘狂。この男にはそれがピッタリの表現である。
「ユリアン。悪ぃが明日、オレは自由に動かせてもらうぜ。元々テメェの指図に従う気は更々ねぇからな」
吐き捨てるように言って、男は後ろへ下がると扉の方へと歩いていった。
遠ざかる男の背中に、振り向くことなく言葉を投げ掛ける。
「構わない。だが、ルスラン。暴れる際は『人払い』を忘れるな。無駄な面倒を起こさないようにな。……それと、」
―――脳裏を過ぎる刹那の出来事。
振り下ろされた剣の刃を真正面から受け止め、あまりにも重い一撃を繰り出した少年の姿。かの少年が未だ姫の近くにいるとすれば、それはユリアン達にとってあまりにも大きな障害となる。
「……油断はするなよ」
聞いているのかは定かでないが。
男は返すことなく扉を潜り、闇へと消えていった。




