第01話 プロローグ
終業式。
それは多くの学生にとってとても魅惑的な言葉である。
特に7月の夏真っ盛り。肌を焼くような日差しが降り注ぐ猛暑の中で終業式と言えば。それは学業の一時的な終わりであると同時に、夏の長期休暇―――つまり夏休みの始まりとも呼べるのだから。
高校二年生。17歳。桐嶋和輝。
中肉中背で、特に染めてもいない僅かな癖があるだけの平凡な黒髪。そして黒眼。割とどこにでもいそうな男子高校生に見える彼もまた、明日から始まる夏休みに向けて胸躍らせていた。
来年三年生にもなれば受験やら何やらで寧ろ忙しい時期なのかもしれないが、先の出来事に不安を抱くより今を楽しんでこその人生だと和輝は思う。
暇なうちは存分に暇を満喫する。面倒事には首を突っ込まない。何より子供を楽しむ。
それが桐嶋和輝という少年の信条であった。
「え?」
ところが人生というのはとても不条理なことに、決して望んでもいない問題というのが他所から勝手にやってくることが多々ある。
くたびれた白いワイシャツに学生ズボン、肩には筆記用具しか入っていない薄っぺらな学生鞄を担ぐ和輝は、道幅3メートルほどの薄暗い路地裏を小走りに駆け抜けつつ―――ふと、そんな風に疑問の一文字を漏らした。
別にこんな人気のない道を通っていることに深い意味はない。実は路地裏で不良に絡まれてた女の子を助けて絶賛逃走中の最中だとか、そんな事も当然ない。
―――明日から夏休みだから。
たったそれだけの理由で気分がちょっと高揚していたから、たまには寮への帰り道をショートカットして帰ろうかなーなんて。子供みたいな心境で通った。
ただそれだけ。
それだけなのだ。
なのに。
繰り返すようだが、人生というのはとても不条理だと辟易する。
別にこんなことは望んじゃいない。面倒事はこちらから遠ざけたいぐらいだ。そういった和輝の心情などこれっぽっちも神様という奴は気にしていないのだと、その時深く痛感した。
「きゃああああああっ!?」
路地裏に響き渡る女の子の悲鳴。
発生源の真上へと首を動かすと―――降ってきた。
比喩でも何でもなく、事実として。
降ってきたのだ。金髪碧眼の女の子が。
◇
逆光で照らされる小柄な体躯。詳細は掴めない。
ただ一つ分かることは、小走りに移動していた和輝を偏差で狙ってくるように、女の子が落下してきたということ。
振り向いたらすぐそこに少女の背中。避けれるわけがない。当然、両手ともポケットに突っ込んでいたため華麗にキャッチするなんてこともできない。
よって結果は単純。
突如として降ってきた女の子の自由落下と、抵抗なく思いっきり衝突した。
「うぼぉっ!?」
喉から変な声がもれ出る。
真上からの体重にバランスを崩し、受身なんぞ取れるわけもなく顔面からコンクリートの地面に激突する。痛い。激しく痛い。
ペラい鞄はそこら辺に投げ出してしまい、全身がピクピクと痙攣した。
「あいたた……こ、ここは……?」
うつ伏せにぶっ倒れる和輝の背中の上に尻餅をつく少女は、腰をさするようにしながら可愛らしい声をポツリともらした。
痛いのはこっちだぞオラオラ! なんてイキりながら即座に立ち上がりたいところではあったが、顔面激突が意外にも痛くて震えながら耐えることしかできない和輝である。
「! この景色……ワールド・ゲートが成功した!? やった!」
何やら嬉しそうな声を上げながら周囲を見渡す少女A。
彼女が何者なのかだとか言ってる言葉の意味だとか色々な疑問と不意の衝撃で脳内が掻き混ざられてる和輝であったが、とはいえいつまでも下敷きになっているわけにもいかないと、ゆっくりと首だけ動かした。
「あ、あのー……?」
「え? ……きゃあっ!?」
掠れた声で呼びかけると、一瞬キョトンとした表情で固まった少女であったが、ビクリと体を震えさせて和輝の背中から立ち上がった。
どうにも焦った表情でワタワタとし始める。
「あ、あれ? もしかしてわたし、ずっと下敷きに……」
目の前の男についてようやく認識したらしい少女。とても申し訳なさそうにこちらを見つめてくる。
和輝は未だヒリヒリとする顔を痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がると、混乱する頭の中、何とか目の前の少女の姿をハッキリと視界に収めた。
改めてみれば、その少女は腰辺りまで伸びる美しいブロンドの髪がとても特徴的であった。前髪の下から覗く青い大きな瞳は、不安の色が見え隠れするように定まらない視線で和輝の様子を伺っている。どちらもここ日本では非常に珍しい発色をしている。
姿格好を見下ろせば、服装も少し妙であった。白いブラウスにノースリーブのジャケット、下はチェック柄のプリーツスカートと言ってしまえばそれまでだが、生地の質感や、あまり見たことのないフリルや装飾があしらわれており、どこかコスプレ感が強い。
(コスプレ趣味の外国人か……?)
パッと見で抱いた感想はそれであった。
とはいえ、コスプレというには服装に安っぽさがなく、寧ろブランド物の高級な雰囲気まで漂わせるところを伺うとそこまで単純な答えとは考えにくい。
とりあえず話を聞こうかと和輝は少女の視線を正面から見返した。
「えっと……君、一体、」
「すみません!」
しかし言いかけた和輝を遮るように、少女は金髪のロングヘアーを振り乱しながらこちらに頭を下げてきた。
後頭部の綺麗な生え際が正面に来る。少なくともウィッグの類ではないことは確かであった。
「下方不注意でした。まさか下に人がいるとは思わず……!」
「え? い、いやだから君は、」
「ご迷惑をお掛けして申し訳ございません! そうだ、お怪我は。お怪我はありませんか?」
ガバッ、と顔を上げて心配そうな面持ちで和輝のことを見つめてくる。
というか顔が近い。なんというパーソナルスペースの狭さ。その勢いに圧されて思わず仰け反るような体勢になってしまう和輝である。
「い、いや……大丈夫、だけど……?」
「本当ですか?」
「お、おう?」
女性経験の薄い純情少年にとってその距離の近さは若干心臓に悪く声が上ずってしまう。
というか鼻血とか出てなくてよかった、と内心ホッとする和輝である。実際のところを言うとまだ顔が少しヒリヒリするのだが、当たり所がよかったのと、少女の体重が軽かったのが幸いし外傷はできていない。このやたらと心配性な少女のことだ。目立った傷でもあろうものなら余計に慌てふためいていたかもしれない。
「本当は何かお詫びしたいのですが、わたしつい先程こちらに来たばかりで……、」
「ちょ、ちょっと待て!」
一人で勝手に話を進めそうな気配を感じ取り、和輝は慌てて声を張り上げた。
「だからお前、一体なんなんだ? 突然上から落ちてくるし、妙な格好だし!」
和輝の怪訝な問い掛けに、少女はハッと思い出したように表情だけで驚いてみせた。
それからこちらへ向き直るように姿勢を正し、右手をそっと自分の胸の上へと置いた。
「失礼しました。名乗りが遅れました。わたしはバルミラ共和国の王女、マルタ・レナートヴナ・ヴァシレフスカヤと申します。お気軽に、マルタ、とお呼びください」
そう名乗りを上げて、今度は礼儀作法が完璧に整ったお嬢様のように、その場でゆっくりとお辞儀する。
しかし和輝はというと、余計に頭の中が混乱する情報の続投であった。
(ばるみら? 王女? 何言ってるんだ……?)
まさか本当にキャラ設定までなりきってる何かのコスプレなんじゃないのかと怪訝な思考が表情にも浮き彫りになってしまう。そんな和輝を見てか、目の前の金髪少女は何か気付いた様子で口に手を当てた。
「……そうでした。こちらの世界では国も王族も関係ないんでした」
「……?」
「えっと、でしたら何と説明したものか……」
少女は手のやり場がないように両の手の指先を合わせると、難しそうな表情で僅かに下を向く。うーん、と小さく唸っていることもあり、何かに悩んでいる様子だ。
見た目も仕草も、妙に愛くるしい少女だ。これがむさ苦しいおっさんとかだったらこちらも我慢ならず問い質していたところだが、そういった高圧的な態度を取るのはどうにもはばかられる。
とはいえ現状意味不明なのは和輝であって、迷う少女に何か助け舟になるような言葉を向けることもできるわけがなく。疑うような視線で少女を見つめながら次の言葉を待つしかない。
―――だが。
そうして、身動きできずにじっとしていた和輝に考え込んでいた眼前の少女がようやく何か口を開こうとしたその時であった。
「!?」
言葉を発する前に、突如驚愕した表情で彼女は息を呑みこちらを凝視した。
いや……正確には和輝ではなく、和輝の後方を。
「?」
少女の様子に疑問を感じた和輝は、ほぼ反射的に自分の真後ろへと振り返った。
そして、その両目を見開いた。
「は……? なんだ、アレ?」
思わず素っ頓狂な声が喉からこぼれる。
和輝の見つめる先―――約5メートルほど。そこには、"薄緑色に輝く楕円状の大穴"がぽっかりと浮かび上がっていた。
まるで空間そのものに穴をこじ開けているような。決してそういった色の蛍光板が目の前にあるだけとか、そんな物理的なものではないと一目で分かる。人一人が通れそうなほどの大きな穴がそこに鎮座し、奥行きを感じさせる薄緑の輝きが爛々と薄暗い路地裏の中を照らしている。
先程までは間違いなく存在しなかった、謎の穴。それとも現象というべきなのだろうか。
それを前に和輝が言葉を失っていると、後ろに立つ少女が震えた声で呟いた。
「ワールド・ゲート……? そんな……じゃあ、まさか……」
明らかに目の前の"これ"を知っている口ぶり。
和輝は思わず知的好奇心から彼女に問い掛けようとした。
だが。
「―――そのまさかですよ。マルタ姫」
和輝が口を開くより早く、少女の言葉に返す声があった。
発生源は―――目の前の大穴の中から。
言い終えるとほぼ同じタイミングで、尚も輝く光の奥から人影が歩み出してきた。突如現れた光の穴から、続いて飛び出す人間。摩訶不思議な現象を前に、和輝はまたも言葉を失い呆然としてしまう。
その人の姿は、長身の男性であった。切り揃えられたブロンズの髪に、鋭い眼光を光らせる瞳。黒い装束を身に纏い、ロングコートを一歩踏み出すたびに裾をはためかせる。加え左腕には、肩から指先にかけて重量感を感じさせる鉄製の篭手を装着していた。
そして何より、背中にクロスさせるようにして背負う二本の剣。鞘に収まってはいるが、どうみたって飾り物には見えない豪然たるオーラを漂わせるそれ。
思わず和輝は息を呑む。
(コスプレ少女の次はコスプレ野郎か!?)
最早脳内は完全なるパニック状態であった。
しかしそんな和輝などお構いなしと言わんばかりに、光の穴から出てきた男は鋭い視線を少女の方へと注ぐ。
「やはりこちらにおいででしたか」
「ユリアン……どうしてわたしの行く先が……っ」
少女の声色からは、さっきまでのハキハキした様子とは打って変わり、どこか怯えた様子が僅かに伺える。
気付けば、男が出てきたあの奇妙な大穴は瞬く間に透過するようにして消えていった。
「マルタ姫。あなたがワールド・ゲートを使用しこちらの世界へ逃亡を図ろうとしていたことは事前に察知していました。失礼ながら、ご就寝の最中にデティクションマークを掛けさせていただきました」
「なっ……、」
男の言葉に、驚愕した様子の少女は慌てて自身の体を見下ろした。スッと両手を胸の前にかざすようにすると、小声で『ディスペル』と呟く。すると次の瞬間、不思議なことに少女の体が僅かに青白く輝いた。
輝きはほんの一秒程度。だがあまりに奇妙な光景すぎて、開いた口が塞がらない和輝である。
(な、何なんだよこいつら……? さっきから何やってるんだ?)
いつの間にか避けるように道の脇へ後ずさりしていた和輝。どちらも険しい表情で対峙する少女と男を、疑惑の視線で見つめる。
「……随分と姑息なことをするんですね」
「我が国のためです。どうかご理解を」
少女の瞳が、睨み付けるように鋭くなった。可愛らしい顔立ちでありながら、心底怒りを露にしている。
「……父のやろうとしていることは、国のためであっても、民のためではありません。どうして回避しようという道を選択しないのですか!」
「私は一介の騎士に過ぎません。国王のお考えは分かりかねますが、命令である以上、姫を連れ戻さねばなりません」
「ユリアン! あなたはわたし直属の騎士ではありませんか! どうしてそちらに従うんです!?」
「姫の下に私を就かせたのは国王です。お忘れですか?」
険しい表情の少女に対し、端然とした態度でじっと見据える黒衣の男。
ジリッ、と少女が片足を後ろへと引いた。それを見逃さぬように、男の視線がより鋭くなる。
「またお逃げになるつもりですか? こちらの世界では、あなたの帰る場所などありませんよ?」
「連れて帰られるよりか幾分もマシです」
「……それは残念です」
両者の間に生まれる緊迫した空気。互いの視線が交差し、相手の一挙一動を見逃すまいと眼光を走らせる。傍観する和輝にでさえ、何やら物騒な雰囲気が伝わってくる。
そして。
少女が素早く後方へと飛び退こうとした―――その瞬間。
男は右手を前方へと伸ばすと、虚空でその手を握り締めた。
「あっ!?」
ガクンッ、と僅かに少女の体が反動で揺らめき、空中で縫い止められるようにその場で停止した。
「ぐ、うぅ……っ!」
苦しそうな表情で、何やら首下を押さえながら呻いている。まるで見えない手に首を絞められているかのような様子だ。
……いや、実際に絞められているのだ。ギチギチと、指が食い込むような音が僅かに聞こえる。
手を前に突き出したままの男は冷たい声色で言葉を投げ掛ける。
「多少、手荒な真似をすることは許可を得ています。あまり抵抗なさるようでしたら余計痛い目を見ますよ」
「ぁっ……、かはっ……!」
(お、おいおい……)
じっと脇で見つめていた和輝も、さすがに内心焦りが生じる。
男が指一本少女に触れず何をしているのかはいささか謎ではあるが、明らかに演技でやってるとかそんなレベルではない。少女はきつく閉じる瞼から僅かに涙を滲ませ、口の端から唾液が垂れている。あれは本当に苦しんでいる顔だ。
思わず和輝は二人の間に躍り出た。
改めて少女の前に立ち塞がるように、男の正面へと体を乗り出す。その瞬間、まるで操り人形の糸が途切れたように、背後で少女が『ゲホッ、ゲホッ』と解放された咳を吐き出すのが分かった。
「おいあんた、やめろ! 何してるのか知らないけど、冗談抜きで苦しんでるみたいじゃないか!」
「……」
氷のように冷たい男の視線が和輝に突き刺さる。和輝も負けじとじっと見つめ返すが。
おもむろに男の手が背中に携えられた二本の剣の片方へと伸ばされた。その柄をガシャッ、と掴む。さすがにぎょっとする和輝。
「や、やめなさいユリアン! その方は関係のない一般人です!」
背後から息の苦しそうな少女の叫びが届くが、目の前の男は一切の躊躇なく一振りの剣を鞘から引き抜いた。明らかな殺傷能力が伺える、黒い刃が表に出る。
「関係なかろうが、任務の邪魔をする者であれば容赦なく切り捨てます。こちらの世界で人を斬ることもまた、我々には関係のないことですから」
こちらを見つめる男の瞳には、まるでゴミの片付けでもするような感情が伺える。明らかに和輝のことを人間とは認識せず、道端に転がっている空き缶でも見下すような、おそろしく冷たい表情。
「お、おい……あんた、それ……冗談だろ?」
緊張した声色で問い掛けるが、男は応えない。代わりに無言でその剣を頭上へと振り上げる。
―――これはまずい。
ちょっと過激なだけのコスプレ集団だと思っていたが、この雰囲気はまずい。和輝の脳内が警報を鳴らす。
「駄目! やめてぇ!!」
少女の悲痛な叫びが響いたが、しかし男は動きを止めることなく。
一直線に、その黒い剣を和輝へ向けて振り下ろした。
あまりにも早く、確実な狙いの元に繰り出される一閃。
呆気に取られて突っ立っていた和輝は、その刃を咄嗟に避けることができず―――――、
「ちょ、危ないだろ!」
「え?」
「え?」
避けなかった。
代わりに、振り下ろされた刃を真正面から素手で受け止めた。
例えでない。
本当に手で刃を受け止めた。
パシッ、とあまりにも軽く止められた一撃に、男と、背後にいる少女から素っ頓狂な声がこぼれる。
和輝は眉をひそめながら左手で押さえ込む刃をじっと見つめる。掌からチクリとした痛み。少しずつだが血が滲んで、ポタポタと地面に血液を垂らしている。
だが、それ以上は刃が進まない。
男が加える力を正面から抑えこみ、カタカタと刃が震えている。
「本気で切れ味あるじゃん……まさかと思ったけど実剣かよ」
「……っ、貴様、なにをした?」
初めて目の前の男が和輝に言葉を投げ掛けた。未だ押さえつけるように力を加えているのだろうが、刃はピクリとも前に進まず和輝の手に握り締められている。
「それはこっちの台詞だよ。何なんだあんたら。妙な格好で変な手品するだけならまだしも、白昼堂々こんなもん振り回しやがって」
「ぐっ……!」
いくら力を込めても動かせないことに痺れを切らしたのか、男は空いた手でもう一本の剣を引き抜こうとした。
その僅かな腕の初期動作を和輝の眼は見逃さなかった。
「話を―――、」
黒い刃を握り締めたまま強く一歩踏み込み、腰を落とす。空いた右手は垂直に立てるようにして、思いっきり腰溜めに引き絞る。
「聞けぇ!!」
直後。
掌をぶつけるようにして、空気を突き抜けるほどの掌底が男の腹部へと深々と突き刺さった。
「がっ……!?」
胃の中の空気を全て吐き出すように、声にならない声がもれて。
男がもう一本の剣を抜くより早く、その長身の体躯が後方へと吹き飛んだ。
背中から地面へと衝突し、力なくコンクリートの上をゴロゴロと転がる。止まった時には手足を放り出して動かなくなり、確かめるまでもなく気絶したことが分かる。
和輝は男が手放した黒い剣を一度だけ見下ろすと、興味なさ気に倒れる男の傍へと投げ捨てた。カランカラン、と虚しい金属音が鳴る。
「ゆ、ユリアンが……一撃で……?」
後方から金髪少女の困惑した声が届く。振り向けば呆然とした様子で地面にへたり込み、こちらを見上げていた。
「あなたは一体……」
和輝は何気なく左手を見下ろす。刃を受け止めたことで横一文字の切り傷ができて、今も尚、僅かに血を垂れ流しながらチリチリとした痛みを訴えかけていた。
上空を仰ぐ。
路地裏の建物の間から覗く青空は変わりなく暑い日差しを照らしており、夏の熱気が地上を支配している。
暇なうちは存分に暇を満喫する。面倒事には首を突っ込まない。何より子供を楽しむ。
先の出来事に不安を抱くより今を楽しんでこその人生。それが和輝の性分。
だが、その"今"こそが何よりも憂鬱な場合どうすればいいのかと、ただただ億劫な気持ちが心の中に充満していた。
やはり、今がその時なのかもしれない。
いくら遠ざけてもやってくる、不条理な面倒事というやつは。
「……桐嶋和輝。人より少し体が頑丈な学生だよ」
改めて少女へと向き直る。
不機嫌を露にした表情のまま、和輝は彼女に問い掛けた。
「それで? もう一度聞くけど、あんた達は何なんだ?」
終業式を終えて、夏休みが始まる。
しかしこの出会いは、和輝にとってとても騒がしい一年の始業式でもあった。




