第8話
「どうですか? 何かそれらしいものでも見えました?」
見えるわけがないとわかっていて、馬鹿馬鹿しくもヒスイに訊ねた。
「いや、星と月しかない」
「でしょうね」
当然だ、とばかりに呟くミオは、ふるりと震えて毛布を掻き抱いた。
「夜の王とやらの城が見えたら、どうなさるおつもりなんです?」
黙って立っていると余計に寒さが這い上がってくるような気がして、ミオは信用してもいない話をあえて話題にした。
「さあな。見えて、それで終わりかもしれないし」
夜空を見上げたまま、ヒスイが答えた。
「もしかしたらここにくるかも。どうする?」
「さぁ、どうしましょうね」
ミオは考えもせずに適当に答えた。
「もうちょっと考えろよ。相手は得体の知れない悪魔なんだぞ? すごい力を持ってるんだ。ミオなんか指先でペシャンコだぞ?」
「はぁ、そうですか」
その時はともかく逃げようか。いや、ヒスイを置いて自分だけ逃げるわけにはいかないから、まずはヒスイを逃がすか。それで自分は命を落としてしまうのか。悪魔から逃げ切れる気はしないから、どのみち死んでしまうかも。
「ヒスイ様はどうされるのですか?」
「んー、そうだなぁ……どうしようか?」
何だ、何も考えてないのか。得体の知れない悪魔だと言っておきながら、何の対処も考えずに探しているのか。
いや、それ以前に……。
「本当にその王がいると思っているのですか?」
隣りにピタリとくっついたヒスイを見遣れば、ヒスイは思案顔で空を見上げていた。
「いやぁ、ほんとのこと言うと信じてはいないんだけどさ」
軽いその言葉を聞いて、ミオはその場に崩れそうになった。
「でもさ、夢のこともあるから、もしかしたらって考えたりもするんだよな。夢は自分が見ているから事実だし」
「そう、ですか……」
ミオはもう何も言わず、何も考えず、ひたすら寒さを我慢することに集中した。
もう日付は変わった頃だろうか。本当なら暖かい羽根布団の中で丸くなっているはずだったのに。もう寝ようかと言う時刻に、毛布を被ってこっそり部屋を出て行く怪しい姿のヒスイを発見しなければ、こんなことにもならなかったのに。
なぜ見つけてしまったのだろう? きっと職務に忠実な従者の成せる業に違いない。
そう自画自賛してみたが空しかった。
ミオは大きなため息を吐いた。
吐く息が白く立ち上って行った。
「寒い?」
この期に及んでヒスイはそんな台詞を吐く。
「指先の感覚が麻痺してます」
毛布を握り締める指に感覚がない。
固まって開かない指を無理矢理剥がし、ヒスイはミオの両手を自分ので包んだ。
ヒスイの手は温かかった。
理不尽だ、とミオは思った。
「ほんとに冷たいな」
少しばかり驚いたように言うヒスイに、不敬にも怒りが湧いた。
「ですから、もう戻りましょう。夜通し空を見ていても見つかるはずがありませんよ」
そもそもそんな絵空事は子供騙しなのだから。
だがヒスイは半信半疑であるにも関わらず、もうちょっと、もうちょっとと言って一向に戻る気配がない。
「もう戻りますよ! これ以上はいけません!」
「えー、あと少しだけ」
「先ほどからそればかりじゃないですか! 力づくでも部屋に戻しますからね!」
かじかんだ両手でがっしりとヒスイの腕を捕まえた。
「やだ! もうちょっとだけ!」
ヒスイは駄々っ子のように、引っ張られまいと踏ん張る。
兵士たちと剣を交えて鍛錬を重ねるヒスイの力に、腕力よりも頭脳を使うミオが敵うわけもない。ましてや今は冷え切った手に力が入らない。
それでもブチ切れたミオは無理を無理と認識せず、弱々しい力でヒスイの腕を引っ張る。
「さぁ、行きますよ! いつまでもこんなところにいても無駄です!」
「もうちょっとだけ! ほら! ほら、あそこに浮いてる!」
ミオを見たまま空を指差すヒスイに、ミオはますます声を荒げた。
「嘘です! ヒスイ様の嘘は見え透いてます! 空も見ないで何が見えると言うのですか!」
ヒスイは慌てて指差した方向に目を向けた。
「見えるって! ほら、あそこに……あれ?」
ミオにグイグイと引っ張られながらも、その視線を夜空の一点に留めた。
「ですから! そんな見え透いた嘘は通用しません!」
強引に連れ帰ろうとするミオだったが、ヒスイはびくともしなかった。
何としてでも動かそうと頑張るミオの手を、ヒスイはいとも簡単に引き剥がした。
「ちょっと、ミオ、うるさい」
ヒスイはミオに目も向けず、夜空を凝視する。
さすがにミオも落ち着きを取り戻し、ヒスイの視線を辿った。
「何か、見えるのですか?」
「まさかとは思うが、多分そうだ。月の右側、強く光ってる星の上辺りに黒い影が見える」
的確なその場所を、目を凝らして見るも、ミオには何の影も見えなかった。城が存在するとしても、ミオにはそれを見る力はないのだ。
「私には何も見えません。本当にあるのですか?」
問い掛けに返答はなかった。
ふとヒスイを振り返ると、すぐ隣に立っていたはずのその姿がなかった。
「ヒスイ様?」
狭い回廊に目を走らせるも、どこにも姿はない。
「ヒスイ様!?」
ミオは慌てて手すりから下を覗き込んだ。
真下は月の薄明かりに照らされてはいるものの、ぼんやりとして何も見えなかった。だが、ヒスイが落ちたのならわからないはずはない。
ということは……
「まさか……」
頭を上げて空を見る。
月の右側、光の強い星の上を。
◇
瞬きをする間に景色が変わった。
「あれ? ここどこ?」
長い廊下の真ん中にぽつんと立っていた。
片側にずらりと窓が並び、そこから差し込む月の光のおかげで、灯りがなくともはっきりと様子が見て取れた。
廊下には何もなかった。静まり返り、人の気配すらない。
ヒスイの住む城も、やんちゃでそそっかしいヒスイが美術品を壊しまくり、いつしかすべて撤去され、手の届かない位置の絵画すらなぜか取り去られて殺風景だが、それでも人の温かみがそこここに漂っている。
この廊下には目に留まるもの、肌で感じるものが何もなかった。柔らかな月の光に照らされながらも、それは優しさより冷たさを増長させていた。
「ミオ?」
声を潜めて呼びかけ、辺りを見回したが、ミオの返答も姿もない。廊下の先を目を凝らして見る。どこまで続いているのか、月明かりも届かずに前も後ろも闇の中だった。
「いないか……」
ヒスイは被っていた毛布を体に巻きつけ、廊下を進んだ。
ここはきっと夜の王の城だ。信じ難い光景を目の当たりにした直後に、見覚えのない城内にいたのだ。夜の王の城以外にどこがあるのか。それにこの死んだような静寂さ。まさに悪魔が住まう巣窟だ。
「帯剣くらいしておくんだった」
今頃になって自分の無防備さを後悔した。
足音を殺し、ゆっくりと歩を進める。辺りには何の音もなく、自分が立てる足音、衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
廊下を少し行った先に、何の変哲もない木の扉があった。
ヒスイは立ち止り、開けるべきかどうか迷った。
中に何があるのか気にはなるが、悪魔が蠢いていたら、毛布一枚しか持っていない自分では太刀打ちできないだろう。好奇心で命を無くすのは無謀だ。
そうは思いながらも、ヒスイの好奇心は恐怖心よりもわずかに勝ったらしい。
ドアノブに手をかけ、そっと回した。音は立たなかった。中からも何の物音もなかった。軽く引っ張ると、扉は静かに開いた。
細く開けて隙間から中を覗き見る。
客室らしい。寝台に鏡台、机に小タンスがあった。壁には一枚の風景画が掛かっている。
「何か……普通」
悪魔が出ないまでも、もう少しそういった雰囲気があればいいのに。荒れ朽ちているとか、殺風景とか。
夢で見たあの部屋のように。
ヒスイははっと気づいた。
この城にリリア王女がいるはずだ。いないまでもその痕跡があるかもしれない。
もしもいるのなら会ってみたい。会って言葉を交わしてみたい。
いないのなら夢で見たあの部屋に行ってみたい。そこに王女がいたという証拠があるかもしれない。
ヒスイは扉を閉めて先へ進んだ。