第3話
声をかけるべきかどうかミオは迷った。
考え事をしている最中に現実へ戻すのは不躾だろう。だがこのまま放っておいても食事が終わらない。
ミオは囁くようにヒスイを呼んだ。それはあまりにも細やか過ぎて、心を飛ばしたヒスイには届かなかった。もう一度やや強さを込めて呼ぶと、ヒスイは視線だけをミオに向けた。
「何か気になることでも?」
大好きだと言ったオムレツが、今日は口に合わなかったのかもしれない、あるいはまた小言がうるさいと現実逃避をしているのかもしれない。いやそれよりも、寝起きの様子がおかしかったのをいまだ引きずっていると考えるほうが自然だ。しかしそれと指摘するのは何となく躊躇われた。物憂げで気だるげで、心ここに在らずといった様子のヒスイから想像もつかない何かが出てきそうで、それが妙にミオの不安を煽った。
「やはりお体の具合が悪いのでは?」
あえてそうはぐらかして問うた。
「あぁ、いや。ものすごく元気」
言葉と態度が噛み合っていないように思えた。ものすごく、と言うわりに、どこか憂いを漂わせている。
「とてもそうは見えませんが。それとも何か悩み事でも?」
思い切り遠回りに訊いてはみたものの、もしも小言のせいであったなら自分がひどく落ち込むだろうと思い、訊いたことをすぐさま後悔した。
「んー……」
ヒスイはオムレツをつつきながら、そうだとも違うとも言わずに答えを濁した。
チーズが冷えて固まってきた最後の一口を平らげ、フォークを投げ出して椅子の背にもたれた。
「泣いてたんだ」
ぽつりと言ったヒスイの言葉の意味を、ミオはしばし考えた。
泣いた覚えはない。ヒスイの言動には稀に泣きたくなることがあるが、さすがに涙を零した覚えはなかった。
侍女なら時折涙ぐんでいるのを見かけたことがある。あまりにもヒスイの悪戯が過ぎて、若い侍女を泣かせることがある。
つい最近、その場面を目撃した。今頃になって反省してるのだろうか? いや、しないよりはいいだろうが……。
「ヒスイ様もいい大人なんですから、人を泣かせるようなことはおやめ下さい」
「えぇ? 俺のせいなのか?」
「あなた以外に誰がいると言うのですか?」
「まぁ、確かに俺しかいなかったけど」
ヒスイは憮然として言った。
「でも、俺は何もしてないぞ?」
「やった方は些細なことでも、された方はしっかり傷つくものです」
言われてヒスイは記憶を手繰り寄せる。
泣くようなことを言っただろうか? あなたは誰なのか、そう訊いただけだ。それが泣くほどひどい言葉だったのだろうか? 乱暴に言ったつもりはないが……。
「泣くとは思ってもみなかった」
ヒスイのせいだと言われれば認めるしかない。あの場にいたのはヒスイだけだったし、彼女はヒスイを見て涙を零したのだから。
「まさかヒスイ様のせいだなどとは言えないのでしょう。濡れ衣を着せられて黙って叱られたようですよ」
「……は?」
ヒスイはミオの話に何となく違和感を感じた。
「叱られたって……誰に?」
あの何もない暗い部屋に一人きりで座り込んでいた彼女が、誰に叱られたと言うのだろう? あの涙は叱られて零した涙なのか? 叱られて、罰としてあんな部屋に閉じ込められたとも考えられるが……。
「それはもちろん、侍女頭のレティスにですよ」
ミオがさも当然とばかりに言うと、ヒスイはきょとんとして言葉を返した。
「レティス? 何で?」
「何で、と言われましても……」
侍女を教育するのは侍女頭の役目だ。配慮の行き届かない若い侍女を教え諭すのは当然である。それを今更、何で、と言われて、ミオは言葉に窮した。
お互いじっと黙り込むと、さすがにミオも、何かおかしい、と思い始めた。
「ミオさ、誰のこと言ってんの?」
ヒスイが核心をつく質問をすると、ミオはますます違和感を強めて、恐る恐る言った。
「あの……洗濯場の、侍女、ですが……」
それを聞いた途端、ヒスイは不機嫌そうに声を張った。
「俺、侍女を泣かせた覚えはないぞ!」
ミオは珍しく口を噤んだ。勘違いでヒスイを叱っていた自分に血の気が引く思いだった。
「何で俺のせいなんだよ」
ヒスイとミオの間で話が噛み合っていなかったとはいえ、ヒスイが侍女を泣かせたのは事実なのである。ミオはここで改めてヒスイを責めるのも卑怯かとは思ったが、当のヒスイは責任転嫁だと言わんばかりにへそを曲げているので、とりあえず事実は教えておこうと思った。
「先日、野ウサギを追いかけていましたよね?」
「野ウサギ? ……あぁ、うん。城の裏にいたのを見つけたんだ」
城の裏手には森がある。そこから出てきたと思われるウサギがすぐ近くで跳ねているのを窓から見かけ、捕まえてやろうと飛び出したのだ。
「シーツを持っていましたよね?」
「……うん」
ヒスイは雲行きが怪しい、と漠然と思った。嫌な予感がした。
「洗って干してあったものの一枚だそうです」
「そうだ。ひらひらしてた」
「泥でひどく汚れていたそうです」
「あー……ちょっと井戸のそばでコケてさ。濡れてたところにべちゃっと」
「カギ裂きもあったそうです」
「ウサギのやつ、すばしっこくってさぁ。茂みに入ったのを追いかけて行ったら枝に引っ掛かっちゃって」
「かなり大きく破かれていたそうです」
「そのまま引っ張ったらビリビリと。エヘヘ」
「そしていかにも風で飛びました、と言わんばかりに放り投げておきましたね?」
「絶対怒られると思ったから……」
最初の勢いも消え失せ、ヒスイはミオの顔色を窺うように上目遣いで見た。
「誰に怒られると思うのですか?」
「ミオに……」
ミオは深々とため息を吐いた。
「今更ですけどね、ヒスイ様。もう少し大人の振る舞いをしてください。私ももう怒り疲れました。あなたも行く行くは王になられる方ですから、誰に迷惑をかけたからと言って咎める者などおりませんが、だからと言って侍女の一人や二人追い出されても構わないなどと、そんな冷淡なお心を持っては欲しくないのですよ」
肩を落としてしゅんとなって小言を聞いていたヒスイは、ミオの最後の台詞に勢いよく顔を上げた。
「追い出すとは言ってない! 何で侍女を追い出さなきゃならないんだ?」
「あのシーツを洗った侍女ですが、レティスにこっぴどく叱られたそうですよ。きちんと留めておかないせいだと」
「え、嘘……」
「汚れたなら洗えば済むものを、破かれていては使い物になりませんからね。言い訳したところで事実は目の前にありますし。可哀相に、回廊の陰で泣いていましたよ」
ヒスイはあまりの展開に呆然となった。自分ではちょっと拝借した程度だった。シーツ一枚駄目にしたところで、ヒスイには痛くも痒くもないのだから。ただそのことがミオの耳に入れば、小うるさい説教が待っている、としか思っていなかった。
「たかがシーツ一枚ですが、レティスが暇を出すと言えば、あの侍女も城を出て行かざるを得ません。あるいは責任を感じて自分から出て行く可能性もありますが」
「お、俺、その侍女に謝ってくる。それからレティスに辞めさせないように言ってくる」
追い打ちをかけるように言えば、ヒスイは慌てて立ち上がり、部屋を出て行こうとした。
「お待ちください、ヒスイ様。今慌てて行かなくても、私がレティスに取り成しておきましたから大丈夫です」
「侍女は?」
「今もちゃんと洗濯室に詰めています」
ヒスイはほっとしてまた椅子に腰かけた。
「なあんだ。脅かすなよ、ミオ」
「なんだじゃありませんよ。これに懲りたらもっとご自分の行動に――」
「驚いたら腹減っちゃった」
ミオの小言も無視して、ヒスイは茹でた野菜にフォークを刺した。